2 その朝、秋の気配につき――

 

 朝。

 木戸の隙間から差し込む朝日と少しずつ冷えを含み始めた秋の匂い、そして実りを啄みにやってきた小鳥の囀りで目を覚ますレイラ。

 薄く、雑な作りながら清潔感のあるシーツを押しのけて身体を伸ばすレイラの耳に鐘の音が届く。

 八時を知らせる弐の鐘を聞き、随分と寝ていたものだと思いながら夜着から平服へと着替えていく。


「……大分冷えてきてるし、もうそろそろ衣替えしないと駄目かしら」


 寝具だけでなく、衣服もそろそろ冬物に替える必要があるだろう。

 ただ冬物はどこにしまっただろうかと思い返してみるが、記憶の何処を探しても自分の手で冬物を片付けた覚えがなかった。


 仕舞ってある場所の検討は着くが、まぁいいかと肩を竦めて生成りのシャツと暗い茶に染められたリネンのズボン姿へと変わる。

 そんなレイラがなんともなしに視線を投げたのは、寝室に置かれた化粧台の鏡だった。


「ここ数年で大分背も伸びたわね、この感じだと一七〇センチぐらいかしら?やっぱり前世ほど伸びなかったのは残念だけど、こればっかりは仕方ないものね……」


 腰に手をやり、自身の姿を観察するレイラは既に一六歳を迎えていた。

 開拓村時代と比べて栄養状態が格段に良くなった御蔭か身長も伸び、前世と比べれば低いが女性の中では長身の分類に入るだろう。

 胸に関してはバルセットにやってきた頃と変わらず一般的な女性より一回り以上は小さいが、酔客に揶揄されることはあれど動き易い分には問題ないと、本人はまったく気にしていなかった。


 また成人とされる一五歳から一年経ち、世の女性達であれば服に化粧にと気を使う花も盛り――あと一年もすれば行き遅れとも見られるので皆必死だ――の時期でもある。


「しかし伯母様も化粧台を奮発して買ってくれたのは良いけれど、あんまり使わないし大きくて邪魔なのよね」


 しかしレイラはそんな事はどうでも良いとばかりに寝てる間に乱れた髪を手櫛で軽く整え、比較的裕福な家庭でしか普段使いできない化粧品がズラリと並んでいるのには目もくれず、台に置かれた耳飾りだけを手にして身に着ける。


 しゃらりと耳を彩る涙滴型の飾りは、かつて地下水路で仕留めた護衛が身に着けていた魔具だ。

 あの事件の後日、魔道具組合マギテックギルドで鑑定してもらったところ"霞の羽衣"と言う魔法文明時代初期の逸品――驚くことに複製品ではなかった――だと判明した。

 様々な形状のある〝霞の羽衣〟だったが、中でも装身具に似せて作られたのは非常に珍しいらしく、魔道具組合員に銀貨五枚五バーツで売ってくれと懇願されたものだった。

 が、その強力さと厄介さをその身で体感しているレイラは組合員の申し出をすげなく断り、今でもこうして愛用していた。

 何より物に頓着しないレイラにしては珍しく、涙型の透き通った翡翠色の耳飾りと言う見た目だけでも非常に気に入っており、例え魔具でなくても身につけていただろう。


「コレ、誰かに払い下げしても良いか聞いてみようかしら?」


 着飾ることで美しくなる年頃の少女が見れば顔を顰めるだろうほど、簡素に――雑とも言える――申し訳程度に髪を整えたレイラは化粧台を見てボヤきながら寝室を出る。

 人の気配のしない廊下を抜け、寝室のある二階から階段を降りていると人が織り成す生活音が聞こえてくる。

 そのまま〝羊の踊る丘亭〟の裏方、客をもてなすフロアに隣接する厨房へと降りれば、忙しなく動く大柄な男の背が見える。


「おはよう、ハロルド」


 レイラが声を掛けると、左目を跨ぐように走る三本線の傷痕を持つ厳つい男――ハロルドが振り返る。

 そしてわずかに驚いたように片眉を上げたハロルドは動かしていた手を止めることなく、髭に見え隠れする口元に小さな微笑みを浮べた。


「おう、おはようさん。随分と長寝だったが、旅の疲れはとれたか?」

「えぇ、もうぐっすりよ。やっぱり慣れたベッドが一番ね」

「ハハハ、そりゃそうだ!!」


 快活に笑うハロルドは元冒険者だ。

 蛮族ベイベロンとの戦いで負傷し、引退する際に料理の腕に目を付けたエレナが料理人として雇い入れた人物でもある。

 もう随分と長く務め、レイラが〝羊の踊る丘亭〟にやってくる遥か前から住み込みで働いていて、厨房を預かってもう二〇年になるとか。

 片足を引きずりながらも器用に右へ左へと動き、朝の仕込み作業を続けるハロルドを横目に厨房を見渡したレイラは僅かに肩を落とした。


「私の分の朝食は残ってないわよね。分かってはいたけど、今から作るのも面倒ね。朝市の屋台は……流石にもう閉まってるわよね」


 バルセット――――と言うよりもこの世界の朝は早い。

 それはこの世界の人間が勤労意欲に溢れているからではなく、陽の出ている間しか満足に働けないからだ。

 前文明の遺産が出土しているとはいえ、まだまだ魔道具は高級品であり、前世の照明器具のような明るさを作り出す魔道具を普段使いできるのは貴種か商会、儲けている大店ぐらいのものだろう。

 日が沈んでから蝋燭や灯籠カンテラでまともに作業できるだけの照度を確保するのは難しく、そうなると人々の生活は陽の出ている時間を中心にサイクルを置かざるを得なくなる。


 故に人々は日の出と共に起床し、朝一に鳴る壱の鐘六時が響く頃には働き始めていた。

 そしてそれは〝羊の踊る丘亭〟も例外ではない。

 住み込みの者や仕込みなどの手伝いでやってくる従業員向けの朝食兼賄いは壱の鐘と共に提供されていた。

 そして今は壱の鐘が鳴ってから二時間以上経った弐の鐘が鳴った後。


 とうに朝食は片付けられ、湯気の立つ料理が並べられていただろう調理台の上には、大量の食材が置かれて朝食の名残りは微塵も感じられない。

 朝市に集まる人々目当てに開かれた屋台で朝食を買うことも考えるレイラだったが、既に朝市も終わっている時間であり、屋台も夕市へ向けての仕込みに移っている事だろう。

 陽の出ている間は常に開かれている露天市にでも行けば朝食になりそうな物も売っているだろうが、〝羊の踊る丘亭〟からはやや遠く、わざわざ買いに行くのは億劫になる場所にある。


「支度が一段落ついてからになるが、簡単な物でよかったら作ってやろうか?」

「あら、いいの?」

「お前さん一人分なら大した手間でもないさ。ま、あり合わせの物になるだろうがな」

「ならお願いしようかしら……」


 顔を見ずともレイラの葛藤が分かったのだろう。

 手元へ視線を落としたまま提案したハロルドが諾と頷いたのを見てレイラは言葉に甘える事にした。

 そうして朝食を確保できたレイラがなんともなしに厨房を抜け、フロアの方へ向おうとした時にふと起き抜けに思っていた事を思い出す。


「そう言えばはもう来てる?」

「あぁ。今は中庭で他の連中と、って――――」


 レイラの質問に答えていたハロルドが言葉を途中で切り上げ視線を移す。

 それとほぼ同時にレイラもハロルドの背から厨房と中庭を結ぶ勝手口を見ており、誰もいなかったそこに影が指す。


「ハロルドさん、人参オラーヴの皮むき終わりました!!」

「――――噂をすれば何とやら、だな。」


 音もなく上体を滑らせるように厨房に入ってきたのは、下肢が蜘蛛のそれである蜘蛛人の少女だった。

 入ってきたばかりだというのに既に視線を向けられている事に気付いた少女は僅かにギョッとするが、レイラに気付くとハっとしたようにレイラの元に駆け寄ってくる。


「おはよう御座いますレイラさん!! よく眠れましたか?」

「おはよう、エッタ。貴女が綺麗にしておいてくれたお陰でぐっすりだったわ。私はフロアの方に居るから、いつものをお願いできる?」

「濃いめの黒茶ですね、煎れたら直ぐに持っていきます!!」


 やけに溌剌とした様子のマリエッタを怪訝に思いつつも、作業が一段落ついてからで良いとマリエッタに言い含めてレイラはフロアへと歩き出す。

 その途中、厨房とフロアの境近くに置かれた小さな籐籠を手に取りながらハロルドへ流し目を送り、頷き返されたのを確認してから厨房を抜ける。


 客でごった返す昼以降の喧騒が想像できないほど静まり返ったフロアに出たレイラは、淀みない足取りでフロアの中でも一等奥へと足を運ぶ。


 目指す先には他の卓に並べられた木製の椅子とは趣の異なる革張りの安楽椅子。

 そして一人分の食器を並べれば埋まってしまうような小さな円卓が一つずつ。


 そこは店主の親族であるという特権を遺憾なく利用し、自ら誂えたレイラ専用の指定席。


 元々は普通に客達へ向けた卓が置かれていた場所だったが、最も日当たりが悪く、店の入り口からもカウンターの奥に設けられた厨房との出入り口からも遠い。

 そのせいで、よほど客足の多い日でもない限り誰も座わらない卓でもあった。


 それに目敏く気付いたレイラが店員として働かない日は常にそこで寛いでいると、気付けばいつの間にか客たちの間で指定席扱いされていたた。


 どうせ他に使う人間が居ないのならと、自分好みに誂え直したのだ。


 量産品などなく、安楽椅子や卓に至る全てがハンドメイドであるため相応の値段が掛かった―――卓だけで五〇〇ルッツ、わざわざゴンドルフの伝手を頼って作ってもらったコイルを座面に使った安楽椅子に至っては一バーツもした―――が、中々にレイラは気に入っていた。


「しかし、よく飽きないわよね」


 安楽椅子に身体を預けたレイラは卓に置いた籐籠の中身を一つ手に取り、溜め息を吐く。

 それは上質な紙で作られた封筒。




 そしてその中身は――――
























 ――――所謂、恋文である。

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