28 その事象、魔具につき――

 

 "霞の身衣"


 かつて身を投じた戦場で挙げた首級が持っていた魔具であり、数秒間全身を霞へと変え、あらゆる干渉を受け付けないという逸品であった。

 霞へと変わってる間は自身も物に触れる事すらできないという弊害はあったが、それに目を瞑っても余りあるほどローゼはこの魔具に命を救われてきた。

 なにより変化した霞は視認しにくく、一対一の戦いタイマンの最中でも背後に回って不意討ちすることすら可能である。頼りない獣油灯で照らされたこの場所ではその視認性の悪さはなおのこと――――の筈だった。


「ッ!!」


 だが霞へ変わっている間に背後へ回り込もうとしているローゼを、少女の瞳は正確に捉え続けていた。

 そして自身に向けられた瞳と視線が絡み、ローゼの背筋に怖気が走る。

 整った顔立ちに精巧に作られた人形のように感情の凪いだ無機質な瞳。硝子細工にすら見える無感情な瞳だが、ローゼは肉食の昆虫を無意識の内に連想させる瞳に胸騒ぎを覚える。





 この瞳だ。

 この瞳をするようになってから少女は変わったのだ。


「ふぅん、そういう仕掛けだったの」

「チッ!!」


 "霞の身衣"の効果が切れるのとほぼ同時に剣を突き込むが、直感の通り戦斧の柄で受け流される。

 舌を打ちながら体当たりを間髪入れずに敢行したおかげでカウンターこそ封じたが、少女に目ぼしいダメージを与えられていないのは軽い手応えで理解した。


 今までにも"霞の身衣"に対応してきた相手は幾らでもいたが、目の前でたった二回使っただけで正体を見抜かれたのは初めての経験だった。

 三回目はなにかしら対応されるかもしれない、そんな不穏な確信を得るとともにローゼは決心した。



 万全には程遠い状態で逃げることも敵わないのならば、自分の命諸共少女を殺してしまおう、と。



 そうすれば少なくともランベントたちへ迫る直近の脅威は去り、自身に課せられた仕事も全うできる。

 生まれ付いた時から叩き込まれ、捨てきれなかった命を賭して仕事を果たすという傭兵としての矜持をもって死ねるのなら悔いは無かった。

 しかしそれも一人では叶えることもできない。

 ローゼは協力を得るべくランベントへ振り返ろうとしたが、そんなローゼの耳に鈴を転がすような声が届く。


「今日は本当に実りの多い一日ね」


 今まで囁きあうようなやり取りしかしていなかった少女の唐突な語りに、胸中を過る怪訝さからランベントへ向けようとしていた視線を少女へ戻す。





 そこには今までの無表情に近い表情から一転して、歳相応の朗らかな笑みを浮かべた少女が立っていた。





 整った顔立ちも相まって見惚れてしまうほど美しく、それでいて何処か妖艶さを漂わせていた。

 しかし数秒前まで殺し合いをしていた少女が浮かべるには余りにも不釣り合いで、異様なほど不気味さを掻き立てられる。

 その本能を擽る笑みにローゼの視線は釘付けになっていた。


「攻め手の組み立てかた、緩急の重要性、魔術の厄介さ、未知の魔道具の存在。他にも色々と学ぶことが多くて、それを教えてくれた貴女には心から感謝しているわ。だから、だからね――――」


 戦斧の魔道具を手斧へ持ち変えながら滔々と語る少女は、変わらぬ表情のまま不用意に一歩踏み出してくる。

 悠然としたその素振りに気圧され、思わず後退りながらも視線は引き付けられて離すことが出来なかった。


「――――ゆっくりと、じっくりと、楽しんで、愉しんで、殺してあげる」


 そして注目していたせいで見てしまう。

 少女の朗らかだった表情が歪に、不気味に、理解の及ばない生物へ入れ替わるように愉悦で染まっていく様を。

 その変貌ぶりは全身を毒虫が這いまわるような気色悪さと未知の存在を認識した事に恐怖を覚え、ローゼは気付けば本能に駆り立てられるまま少女に剣を振るっていた。


「クソっ、クソっ!! 死ね! 死ね!!! この化け物め!!」


 業もへったくれもない我武者羅な攻め。

 されど経験に裏打ちされた攻勢はローゼの人生の中でも一二を争う苛烈を極めたものだった。

 後の事など考えず、今後のために温存していた魔力も身体賦活へ注ぎ込み、この場で体力も魔力も全て使い果たすつもりでローゼは攻め立てる。

 まさに全身全霊、ローゼの持ちうる全てを出し切った攻勢だった。だがそれをもってしても少女の歪んだ表情は欠片も崩れることはなかった。


「あらあら、随分と乱暴なエスコートね。そういう強引なのも嫌いじゃないけど、私の好みではないのよね」


 剣筋の甘かった首元を狙った刃は少女に容易く弾かれ、お返しとばかりに手斧が振るわれる。


 ――――カンッ


 なんとか盾を差し込むことは出来たが、その一撃は今までのものに比べてあまりにも軽かった。


 怪訝に思う間もなく気付く。

 盾の縁に薄青色の刃――鉤状になっている斧頭が引っかけられていた。

 やられた、そう思った時には少女の細腕では考えられない剛腕によって盾の守りはこじ開けられていた。

 そして咄嗟に"霞の身衣"へ魔力を流し込もうとするが、それよりも速く足を踏み抜かれる。


「それはもう見飽きたわ」


 足の骨が砕かれる痛みを食いしばり、少女が次の行動にでる前に起動するべく流し込むが―――


「なッ?!」


 ―――"霞の身衣"は起動しなかった。

 驚きで固まるローゼとは対照的に、満面の笑みを浮かべた少女の手斧が振り下ろされる。


 飛び散る血潮。

 崩れる重心。

 なにかを失う喪失感。


 痛みを感じるでもなく、筆舌しがたい感情に支配されるローゼの視界には自身の右腕が宙を舞っていた。

 離れていく右腕を見つめ、現実感のない空白化した思考に少女の声がするりと入り込む。


「やっぱり他人が触ってると霧状に変化できないのね。古典的だけど、サブカルチャーの知識もたまには役に立つじゃない」


 なにを訳の分からないことを。

 そう思うと同時に意識は急速に現実感を帯びていき、痛みと形容するのも烏滸がましい激痛がローゼに襲い掛かる。


「――――っ!!」


 泣き叫び、喚き散らしたくなる衝動を意志と意地で無理やりねじ伏せたローゼは握り込んでいた盾すら放り投げ、手の届く距離にいる少女の矮躯を抱きしめる。

 そして渇きを訴える喉に鞭を打った。


「今だ、ランベント!! 私ごとコイツを殺せ!!!」


 驚きで見開かれた少女の瞳に僅かばかり溜飲が下がるローゼはやってくるだろう死を想って瞼を閉じる。




























「ふふ、今度は熱烈な抱擁ね。思わず胸がキュンっとしちゃったわ」


 だが、待てど暮らせどその瞬間はやってこなかった。

 その代わり、響きをころした艶めかしい忍び笑いが耳を打つ。

 訳が分からず瞼を上げたローゼの眼前には、婀娜あだっぽい満面の笑みを浮かべた少女の顔があった。


「でも駄目よ? 仲間でもしっかりと動向を把握してないと。それが戦い慣れてないお仲間なら特に、ね」


 少女の言を信じた訳ではなかったが、思わずローゼは背後を振り返る。

 そして振り返った先には誰もいない薄暗い一室と狼人の首が転がっているだけ。そこにいたはずのランベントの姿は何処にも見当たらなかった。


「あの魔術師――――ランベントっていう名なのね。彼、私が貴女に声を掛けた時には奥の部屋に引っ込んでいったわよ」

「……まさか」

「えぇ、そのまさか。貴女は見限られたのよ、あの魔術師さんに」


 少女の言葉、そして状況を理解したローゼの腹の底から冷たいものが込み上げてくる。

 しかしそれは一人勝手に逃げ出したランベントへの怒り、まんまと少女に出し抜かれたことに対する悔恨だけでは無かった。艶然とした少女の笑みの隙間から見える自身の脇腹に深々と突き刺さる短剣の柄が見えていた。


「あ、あ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ぁ゛ぁ゛あ゛あ゛!!!」


 柄を認識した瞬間、氷を押し当てられたような感触は赤々と熱せられた鉄を押し当てられたような幻痛へ。臓物を煮えたぎる鍋に放り込まれてかき混ぜられたような強烈な激痛へと変わる。


「ふふふ、なんて心地の良い悲鳴なのかしら。やっぱり"人"は好いわねぇ……」

「こん、の!! 離、れろ!!!」

「酷いわね。さっきはあんなに力強く抱き締めてくれたのに、本当につれない人」


 流れ出る血と比例して弱っていく力を振り絞って少女を突き飛ばすが、血を失いしかも片腕では思っていたよりも遥かにか弱い力しか出なかった。

 ひらひらと踊るように離れていく少女は変わらず忍び笑いを零していたが、その手に煌めく物を見つけてローゼは瞠目した。

 そして慌てて自身の耳に触れるとそこにはあるべき感触が無く、代わりに粘性のある液体が指先を濡らす。


「あら? ふむ、片側だけだと効果を発揮できないのね……」


 いつ切り取られたのか、脇腹に刺さっていただろう短剣と"霞の身衣"、それらと一緒にローゼの耳が摘ままれていた。

 最早痛覚が麻痺しつつあるのを自覚しつつ、ローゼは"霞の身衣"を外された自分の耳がぞんざいに投げ捨てられていくのを呆然と眺め、渇いた笑いを零す。


「まぁ、いいわ。片割れだけだと発動できないなら貴女も使えないものね」


 そう言って変わらず艶然とした笑みを浮かべ続ける少女の瞳に感情が浮かぶのを見て取ったローゼは全身から力が抜けていくのを自覚する。

 ローゼは少女の瞳に浮かぶその感情を知っていたからだ。

 いや、より詳しく言うならば自身も浮かべたことがある類の物だった。


 嗜虐心。

 それも相手を甚振り、死ぬまで弄ぶのも厭わない残虐なもの。


 元よりあるとは思っていなかったが、真っ当な死にざまを迎えることは期待できない。それどころか楽に死ねれば御の字と言ったところであろう。

 しかし、だからと言って思い通りに嬲り殺されるのもローゼの性分ではなかった。


「ふふふ。そう、そうよ。そうこなっくっちゃ。獲物は最後まで抵抗してくれてる方が愉しいものねぇ……」


 ローゼは震える指で予備として携行していた短剣を引き抜き、歪な笑みを再び浮かべている少女へ突きつけた。

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