24 その激闘、始まりにつき――

 


 レイラは自分が浮足立っていたことを自覚していた。


 久方ぶりの獲物。

 久方ぶりの感情のある相手。


 数カ月ぶりの獲物を仕留め、その瞳に浮かぶ感情の"彩(いろ)"が消える刹那を見届けた得も言えぬ悦楽に浸り、美酒に酔ったような多幸感に包まれていたのを否定する気はなかった。

 それで油断していたかと聞かれれば、レイラは即座に否と答えるが。


 どんな状況、どんな状態に自分が置かれていようと、自身の立ち位置を俯瞰するような冷静さを常に維持していた。それ故に前世では本性を隠し通すことができていたし、今世でもそれは変わらない。

 その上、先だっての戦斧の持ち主であった遨鬼(ゴブリン)との一幕で油断や慢心がもたらす危機的状況から学びを得たレイラに油断はなかった。





 はずだった。





 にも関わらずとレイラは鼻から流れる血を拭い、だらりと力の抜けた左腕を見つめてそっと息を吐く。


 屍術師(ネクロマンサー)の護衛らしき狼人を仕留めるのは簡単だった。

 通路に漏れ聞こえていた会話から性格を把握し、狼人と人種の女が別行動を取るように仕向け、思惑通りにのこのこと後を追ってきた狼人の油断を誘ってその首を掻っ捌いた。

 その後は出血に合わせて狼人が"彩"を失っていくさまを見届けてから頭部を切り落とし、それをもう一人の護衛である女へ投げつけ、盾で作り出された死角から致命の一撃を叩き込むべく動いた。

 実際、その瞬間までは何ら問題もなくレイラの思惑通りにことは運んでいた。




 崩れた体勢。

 不意を突いたことでがら空きになった首元。

 相手の盾と剣の位置も把握し、咄嗟の防御も間に合わない絶妙なタイミングと位置取り。





 失敗する要素が何一つない絶好の好機。

 しかしレイラの振るった手斧が女の細首を切り裂く直前、視界に捉えていたはずの女が姿を消し、刃は虚しく空を切り裂いた。

 まるで初めからそこには誰も居なかったかのようなに忽然と、霞を切り裂いたような空虚な手応えにレイラは目を見開いた。

 そして空振りしたが故に泳いだ体を無理やり着地させ、訝しむまもなく分厚く作られた左篭手を前にして防御の姿勢を取れば、体が浮きあがる程の衝撃に襲われる。

 床を転がりながら自身の立っていた場所を見やれば、そこには姿を消したはずの女が盾を押し出したような姿勢で立っていた。

 その段になってようやく自身が盾で殴り飛ばされたのだと把握したのだ。





 そして現在のレイラへと至る。





 転がる勢いを利用して立ち上がってから時間は経っているが、女はレイラを警戒してか盾を構えた状態から動いておらず、その背後で守られるように立っている術師らしき格好の男は今になって事態を把握したような表情を浮かべている。


 相手が動きを見せないならと、レイラは自分の体に意識を向ける。


 弾き飛ばされて盛大に床を転がることになったが、無理に着地したせいで体勢が乱れていたのと体が軽かったおかげか、防具に擦り傷や汚れは至る所にあれど、全身へのダメージは見た目ほどは受けていない。

 直撃の威力を殺しきれなかったせいで盾代わりにした篭手に押しつぶされて鼻から血は流れたが、血が詰まって呼吸がし難いと言ったこともなければ、鼻の骨も折れておらず血もすでに止まっている。




 問題は動かそうと意識しても動く素振りを見せない左腕の状態だ。




 肩から伝わってくる痛みから骨が折れた様子はなく、勢いも殺さず真正面から盾での打擲を受けたせいで骨が抜けてしまったのだと分かる。

 痛みだけだったならば問題はなかった。

 意図的に痛みを意識から切離せば、動きが鈍ることもなく以前と変わらず戦うことができただろう。しかし関節が外れたせいで動かそうとしても指先一つ反応しないのでは、全くと言っていいほど使い物にならない。


 現状するべきことは外れた肩を嵌めること。しかしそれが難しいことだというのもレイラは理解していた。

 関節を嵌めようにもそんな隙きを相手がみすみす逃すはずもなく、わざわざ肩を入れる時間を作ってくれる間抜けでもないだろう。初撃を躱され、相手の警戒を強めてしまったのだから尚更だ。


 それでもやらなければならない以上はやるしかないのだ。

 片腕だけで戦うなど常軌を逸し、即座に撤退しなければならない事態と言えるだろう。それほどに片腕しか使えないというアドバンテージは大きいのだ。

 しかし、とレイラは唇をちろりと舐めあげる。

 そして現状でも勝機が全くないという事もない、と口角を僅かに上げる。


 初撃での反応から女がガランドやダッカと同等の能力はないと分かった。

 ガランドは模擬戦の際、似たような不意打ちに対してレイラの動きを目で追い、手にしていた盾で僅かばかりだが防ぐような動きを見せていた。

 油断していたが故にレイラは一本取ることが出来たが、ガランドが真剣だったなら平然と防がれていた事だろう。

 ダッカも広間での持久戦時はレイラよりも素早く動き、常人よりも広い視野で状況を把握していたことから、女のようにレイラの姿を見失うと言ったことはしないだろう。


 女の背後にいる術師らしき恰好をした男や未知の回避方法を含め懸念事項はいくらでもあるが、ガランド達のようにまったく勝てる要素がないわけではないのなら挑まない理由にならない。

 それに次にレイラを満足させてくれる"獲物"を狩る機会が巡ってくるのか分からない現状、この至福の時間を自ら手放すのはあまりにも惜しかった。

 一息吐き出し、脳裏に幾つかの予測を描き出したレイラは関節の外れた腕に手を伸ばす。


「ッ!」

「まぁ、そうくるわよね」


 想定通り関節を嵌めようとしたレイラに呼応し、頼りないカンテラの明かりを怪しく反射する切っ先がレイラの首元めがけて突き込まれる。

 踏み込みと共に盾の縁に添えるようにして差し出された剣を手斧で往なし、同時に体当たりの要領で押し込もうとする盾を蹴り弾く。


 体格で勝っていた女は押し負けるとは思っていなかったのだろう。


 面当てに隠れていない瞳が大きく見開かれるのを見ながらレイラが踏み込むと、表情を引き締め直した女の返す刀が煌めいた。

 迫る刃の輝きを見つつ、今いる間合いと両者の能力から刃を交え合うのは不利だと判断し、レイラは自ら間合いを開けるが如く飛び退いた。


 そこへ女は躊躇いなく追撃を仕掛ける。

 掬い上げるような切り上げ、踏み込みに合わせた袈裟斬り、動かない左腕側からの刺突、詰まり過ぎた間合いを強引に開けさせる盾の打擲シールドバッシュ

 間髪入れずに繰り出される攻撃を時には弾き、受け止め、躱し、手斧と剣がぶつかり合って飛び散る火花の中でレイラは反撃の機会を伺い続けた。


「可笑しいわね……」


 しかし刃が交わった回数が一〇を超えてもその機会はやってこない。

 反撃を試みようとしても相手の攻勢に機先を潰されてしまう。

 片腕が動かないだけで想定以上の影響があるものだなと、振りぬかれた剣が纏う旋風が前髪を揺す距離で攻撃を躱しつつ、レイラは冷静に状況を吟味していた。

 だらりと脱力した腕のせいで重心がズレてしまい思い描く踏み込みが出来ず、相手の間合いから抜け出す、あるいは突破することが出来ない。

 更に腕の重みに釣られて他の筋肉も引っ張られるせいで上手い具合に力が手斧へ伝わらず、力一杯剣を弾いても即座に切り返せる程度に収まってしまう。

 腕が動かない影響の試算が甘かったと今の能力評価を下方修正しつつも、レイラはそれだけで反撃に転じられないのは可笑しいと内心で首を傾げ、剣戟の音に掻き消される程度の呟きとなって表出する。


 現在、レイラは身体賦活で身体能力を飛躍的に向上させている。そのため速度、膂力、反応速度ともに女を遥かに凌ぐ域に達していた。

 後を追うように手斧を振るっても女の剣が最も威力が乗る位置へ来る前に打ち払え、体重を乗せた雷刀も難なく弾き返せる。

 相手の小さな挙動から採るだろう行動を読み取るまでの速度も、そこからの動き出しもレイラの方がはるかに速い。


 だのに反撃の機会は悉く潰されている。


 ことが上手く運ばないのに対し、レイラに苛立ちはない。

 人生とは往々にしてそういうものであるし、何より空腹が料理にとって最高のスパイスであるのと同じく、掛かった労力と苦労が多ければ多いほど得られる悦楽は一入ひとしおであると知っているからだ。


 あるのは純然たる疑問。


 体格の差、得物の差、片腕と言うハンデを加味してもレイラの予測と現状は乖離していた。

 現実と予想、それらが乖離したとき間違っているのは予想の方である。

 ならばなにを見落とし、どこが間違っていたのかと思考するレイラは肩を嵌める術について割り振っていた意識を一旦切り捨て、全ての意識を持って相手を観察することにした。

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