12 その涙、魂の叫びにつき――

 

 血とは違った水気に濡れた指先を見下ろしながら、レイラの意識は混乱の真っただ中にあった。


「私が涙……? この、私が?」


 自分が涙を流したのだと自覚した瞬間、レイラを激しい頭痛が襲う。

 何歩か後ずさりながら額を抑え、痛みをやり過ごそうとしても一向に痛みが引く気配はなかった。

 背後から聞こえた物音に反応して振り返りながら手斧を走らせるが、一撃で葬れたはずだったにも関わらず、実際には遊鬼ゴブリンの首筋を浅く切り裂いただけ。


 明らかに致命傷には程遠い。


 満足に体を動かせていない事実に苛立ちと共に舌打ちを鳴らし、振り下ろされた剣を避けるのに合わせ、地面を打った瞬間に剣先を踏みつける。

 そして無防備になった遊鬼の脳天へ手斧を力任せに叩き付ける。


 僅かな血飛沫が飛び散り、ビクビクと痙攣しながら立ち竦む遊鬼から手斧を引き抜こうとするが、深々と食い込んでしまったのか思うように抜けず、レイラは舌打ちしながら遊鬼へ蹴りを叩き込む。


「まったく、急に何だっていうのよ……」


 手斧が外れた勢いによろめきながら、頭痛の原因を探ろうと今日一日の行動を振り返る。

 こんな急激な変調が起きる前兆がなかったか記憶を掘り返そうとして、レイラは額を抑えながら訝しむ。


「あ、れ……?」


 さっきは何故、盾になるようにして死んだラッドを物陰に引きずり込み、挙げ句致命傷だと一目で分かるのに治療しようとしたのか。

 ラッドが弓で射抜かれた直後の行動もそうだ。

 ラッドが盾になったのならば、ラッドを盾にしたまま弓兵を始末すれば二の矢を切り払うという無駄な行動を取らずに済んだ。

 更に記憶を遡り、ダルトンがレイラを庇おうとした時も可笑しな行動をとっていた事に気付く。

 ダルトンから手紙などを受け取り、遊鬼が雪崩込んできた時点で平素ならば即座に自分で鎧戸から飛び出していただろう。

 なのに、何故逃げようともせずダルトンを守るように前に出たのか。



 そこまで振り返り、はたと気付く。



 何故この状況下で獲物を狩っていないのか、と。

 何故遊鬼を殺したというのに、心躍る喜びが湧いてこないのか、と。



 そもそもレイラの思考の中に、人を狩ると言うこと自体浮かんでいなかった。

 前世で死の間際まで恋い焦がれ、達成することが出来なかったがために悔み、魂の残滓に成り果てても人を狩るとい言う行為に自我を遺すほど執着していたにも関わらず、その悲願とも言うべき行為を失念するなどあり得るだろうか。

 レイラは明らかに異常と言える自分の変調の原因を探るべく、ひたすら自問自答を繰り返す。



 この世界の捜査技術が不明だからか。



 否。

 これまで知り得た情報からの推察だが、真っ当な捜査技術は無いと判断していいだろう。

 仮に捜査能力が前世の地球と同等だとしても、この状況下では遊鬼の仕業かレイラの仕業なのかを判別するのはほぼ不可能。

 検死が行われてもその頃には死体は腐敗し、身元を特定する事すら難しいと見て間違いなかった。




 狩りが出来ないほど危機的状況だからか。




 否。

 遊鬼の戦闘能力は自身よりも遥かに劣る。

 村を襲った遊鬼達の殲滅は無理でも、狩りを十分に楽しんだ後で村を脱出する事など造作もないと判断できる。

 そもそもこの程度の危機で諦める程度の執着であれば、魂を砕かれてなお自我を保つ事などできるはずもなかった。




 遊鬼の反応が欲を満足させられる程の物だったのか。




 否。

 たった数体の遊鬼を殺し、その瞳に映る感情を見た程度で満足できるのなら、前世と今世で人を狩りたいと思うわけがない。


 何故今になってそんな状態になっているのかを考えるが、体調面において特に変わった事は無かった筈だと結論が出る。

 今の今まで日常とさほど変わらない状態であったはずだ。

 それどころか体には力が漲り、心も高ぶり絶好調だった。



 ならば外的要因か。

 しかし怪我も負っては居らず、毒などを受けたと言うことも無い。



 ではいつからそんな状態になったのかを振り返る。そして感情の動きを追うように記憶を漁り、結論を出す。



 遊鬼の命を刈り取った喜びが消え失せたのは、ミリスの死が確実であると分かった時からだった。

 更にこれまでに起きた特筆すべき事柄をまとめ上げると、ミリスの死、ダルトンの死を思わせる状況、変わり果てた故郷の目撃、ラッドの死と謝罪の言葉――――









 ――――そこまで考え、レイラの脳裏に一つの仮定が浮かび、俄かに確信へと変わる。


 仮説が定説に。


 想像が現実に。


 推測が断定に。


 ピースの欠けたパズルの全てが埋まったかのような感覚に、レイラは自分の状況を分かっていながら高らかに嗤い声を挙げた。












「あは、アハハ、あはハハはハはははハハハ!! 貴女、まだ私の中に存在できていたのねッ!? なんていう執念、なんていう執着、なんていう往生際の悪さッ!! 四年も前に喰い殺されて残滓ほども残ってないというのに!! 今! この状況で!! 出てくるなんてッ!! 流石は私を魂の一部としていただけの事はあるわね!!!ねぇ、そうでしょう? 本物の私レイラちゃんッ!!!!!」
















 笑い。














 哂い。















 嗤う。















 レイラは歪な笑みが浮かぶ口元を隠すように顔面を両手で覆い、意識を一瞬で魂の底へと落とし込む。

 普段であれば何の色も存在しない空虚な闇が広がる魂の在処。

 だが今この時だけは、意識の底から濁流のようにして様々な〝イロ〟が湧き出し、意識の底を目指すレイラを押し戻すかのように勢いよく噴き出していた。

 意識を染め上げるように広がる〝彩〟に触れ、レイラはその正体を知る。


 それは感情――――いや。あまりにも複雑で、烈火のごとくその身を焼き尽くす衝動を伴うそれは、激情と呼ぶべきものだった。




 悲嘆、怒り、孤独、諦観、怖気、憎悪、戸惑い、戦慄、嘆き、屈辱、憂悶、憤り、殺意、愁嘆、絶望、後悔、哀傷、失望、恐怖、焦燥、困惑、不安、無念さ、喪失感。





 身体を掻き毟りたくなるほどの抱え切れない激しい感情の渦に触れ、レイラの頭痛は激しさを増す。


 乱された集中力を再び搔き集めながら、レイラは得心が行ったと一人頷いた。

 前世と今世を通して激しい感情とはほぼ無縁だったレイラにとって、魂の底から湧き出る種々様々な感情は経験がない。

 そのせいで、処理しきれなかった感情が頭痛として現れたのだろう。

 ならば、とレイラは歪に歪んだ口角を更にきつく釣り上げる。


「貴女が私の邪魔をするというのなら、感情を繰り出せないほどまた貴方を喰らい尽くせばいいのよね。そうでしょ、本物の私レイラちゃん?」


 止めどなく溢れ出る感情を前に、表情を満面の笑みに変えたレイラは意識の底を〝彩〟っている感情に手を伸ばす。

 そして端を掴んで力任せに引きちぎると、手の中の〝彩〟は瞬く間に暗く黒い〝彩〟に染め上げられ、レイラの体の中へと取り込まれていく。

 しっかりと自分の物になるのを確かめたレイラは、五体という身体カタチの概念すら投げ捨て、暗闇に溶け込むように身体を広げ、意識の底を覆い尽くす。

 更に感情が湧き立つ源である魂の根源へと、その範囲を狭めていく。




 そして触れた端から喰らい付き、噛み砕き、染め上げ、取り込んでいく。

 悲鳴を上げるかのように、更に激しく吹き出る感情にも構わず激情の本流を奪い取っていく。





 轟々と湧き出る感情を溢れ出る端から取り込んで行ったレイラは、程なくして魂の根源の間近にまで辿り着く。

 そこで再び魂を包み込むように広げた意識の身体カタチを本来の人の身体カタチに戻し、レイラは湧き出す感情を掻き分けて淡い光を放つ魂を鷲掴む。

 弾き飛ばそうとする魂に燐光に喰らい付き、意識の底に根を張っていた"それ"を引きちぎる。

 するとあふれ出していた感情の波は瞬時に掻き消され、静けさと暗闇だけに支配された意識の深層でレイラは手の中に納まった物を見下ろした。


「なるほど、これが貴女レイラちゃんの今の姿だったのね」


 それは月明かりのような淡い燐光を放つ一輪の花――――月陰花。

 鍛錬と称して意識を沈めていた際、いつも手にすることが出来なかった灯の正体。

 八歳にして死に掛け、死の淵で柏木 誠という男の意識に飲み込まれた少女の自我の残滓。

 その残り粕。


「こんな姿に成り果ててもまだ生にしがみ付いていたとは、流石は本物の私と言うべきかしら? でも残念、貴女の執念もここまでよ」


 レイラは抵抗するかのように反発する月陰花を力のままに握り潰す。くしゃりと音を立てた後、手の中にカサついた感触が広がっていく。

 ゆっくりと拳を解くと一瞬だけ小さな光の粒が散らばり、手の中へと吸収されていく。

 全ての光の残滓が吸収されたのを見届け、レイラは自身の意思で意識を浮上させた。









「……ッ!! 流石に深く潜りすぎたわね、こんな下らないことで死んでたら笑い話にもならないわ」


 意識を沈めている間、呼吸が止まっていたのか、息を吸い込むと芳醇で新鮮な血腥い空気が肺を満たす。

 更に鼻から噴き出していた多量の血を拭い、レイラは立ち上がる。

 頭に僅かな疼痛が残っているが、それも時間と共に弱まっていく。

 その上、瞑想をしていた時よりも遥かに上回る魔力が全身に行き渡り、脳裏を覆っていた霞が晴れたかのような清々しさすらあった。


「長いこと潜っていた気がするのだけど、時間はそんなに経ってなさそうね。しかし"あの子"を完全に取り込んだ影響を確かめたいのだけど、流石にこの状況で呑気に自己診断をしている暇はない、ってことかしら?」


 レイラは周囲を見渡すと、地面に刺さった手斧が作る影は意識を沈める前と形は変わっておらず、火の手が上がっていた家屋の燃える勢いも変わりない。

 手の感触を確かめるように指先を動かして感触を確かめたレイラは手斧を拾い上げ、振り向きざまに投げつける。


「体の調子は良好……というより、これは絶好調と表現したほうがいいわね。意識もしっかりしてるし、一先ずはこれだけ分かれば十分かしら」


 背後の建物の物陰から顔を覗かせていた遊鬼の脳天に手斧が突き刺さったのを確かめ、頭蓋を二つに叩き割った得物を回収するレイラの口元は鋭利な弧を描いていた。

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