4 その少女、狩猟中につき――
家族団欒の朝食を終えたレイラは一人、森の中にいた。
鬱蒼と木々が生い茂り、昼も間近だというのに陽の光が薄っすらとしか入らない暗い森。
開拓村の人間ですら足を踏み入れる者の少ないこの場所で、レイラは露出した岩の上に腰掛け、背筋を伸ばし、座禅を組んで瞑想の体勢を取っていた。
かつて、柏木誠として生きていた時には一度として価値を見出してはいなかった行為に今のレイラは没頭していた。
周囲の音や気配、普段は目まぐるしく動いている思考すら捨て去り、レイラは体の奥底へと意識を向けていた。
まるで暗い暗い底なし沼へ沈んでいくような息苦しい感覚に襲われるのも厭わず、時間の感覚すらあやふやになりながらもひたすら意識を深層にまで沈めていく。
息苦しく、窒息してしまいそうな辛さを味わいながらも、魂を砕かれる痛みに比べて優しいとすら思える苦痛に躊躇いはしなかった。
そうしてどれほど経ったのだろうか。
腰に提げた手斧やナイフ、小道具を入れたポーチといった身につけた物の重みも、頬を撫でるそよ風の感触すら分からなくなるほど深い場所にまで到達したレイラの思考。
夜闇よりも深く昏い意識の底。
ただただ昏い意識の底に、ぼんやりとした淡い光が差したような気がした。
その光は球体のようでいて、四角形のようにも思える不確かな存在。
されど意識を更に光の元まで沈めていくと、朧気ながら光の輪郭が見え始める。
それは、花だった。
月明かりのような淡い燐光を放つ一輪の花。
二年前、初めてレイラとしての新たな生を受けた深層心理の場で見た大量に咲いていた月陰華そのものだった。
だがレイラは一度として実物を見たことは無い。
それにも関わらず、意識を奥深くに沈めると必ずと言っていいほど月陰華がそこに咲いていた。
自身の姿すらあやふやになった状態で、レイラは手を伸ばして光を掴もうとする。
だか指先が触れる直前、弾かれるようにして意識が急激に浮上し、陽だまりにいるような柔らかい暖かさが体を包み込む。
更に心臓を中心にして、全身に溢れかえりそうな程の力が漲っていた。
爪の先、髪の毛の端、体を構成する細胞の一つ一つに至る全てを自在に扱えそうな全能感も合わさり、レイラの口元には自然と笑みが浮かんでいた。
それは取り繕ったものではなく、本心からの笑みを浮かべながら力の漲る指先に視線を落とす。
そのまま全身を覆う力を意識して瞳に集めれば、指先だけでなく掌や手首を包み込む淡い湯気ような不確かな揺らめきが見て取れた。
「こうして毎日訓練をしてきたお陰で随分と増えたわね。最初は魔力とか魔法なんて信じてなかったのだけど、やってみるものね。そういえば営業の小林さんがこういう状況を題材にした小説を好きだったのよね。きっと彼だったら今頃狂喜乱舞していたのでしょうに」
レイラの手を覆う揺らめき――それはこの世界では魔力と呼ばれる超自然的な力であった。
また魔力とは生きとし生けるもの全てが備える力であり、その力を使って起こされる現象を魔法と呼び、ここレイテシアでは生活に深く根付いた存在であった。
一応前世でも話題に上がる事からサブカルチャー全般にも精通していた。
ただあくまで話題に入るためであり、魔法の概念も知っているに過ぎなかった。
まさかそんな空想上の力を自分が扱うことになると、誰が思うのだろうか。
父親から魔力の扱い方を教わった時は何を巫山戯たことをと内心鼻で笑っていたが、実際に魔法を目の当たりにすると認識を改めた。
水筒もなく水を作り出し、ライターもないのに火を出現させ、道具を使わずに土を自在に操るさまは摩訶不思議であった。
幸いにして魔力を作り出しているのは根源たる魂であり、魂自体を奪い取った今のレイラにとって、魔力を十全に扱えるようになるのにそれ程時間は掛からなかった。
そしてレイラは実際に魔力を扱う事でその有用性を認め、日常生活に根深く関わっている理由を理解した。
それからと言うもの、毎日のように意識を奥底に沈め、魂から魔力を引き出しては自在に扱える魔力量を増やす事に勤しんでいた。
しかし――――
「惜しむらくは、私が精霊魔法を使えないって事なんだけど……こればっかりは仕方ないわね」
――――レイラが指先に火が灯るイメージで魔力を集中させるが、集まった魔力は現象化するでもなく霧散していく。
どんなにイメージを強くし集める魔力の量を増やしても、小指ほどの火も灯らない。
原因は『死の淵から生還できたが、死に近づき過ぎたせいで魂から死の匂いがするんだろう』と辺境の村々を訪ねて回っている宣教師の司祭が言っていた。
なんでもこの世界の魔法とは、基本的に精霊と呼ばれる目に見えない存在に魔力を渡して事象を顕現させる精霊魔法と呼ばれる物が主流らしいのだが、その精霊魔法の根幹たる精霊は陽気を好み陰気を嫌う性質があるとのこと。
そして陽気とは生きている物全てまとっている活力の事を指し、陽気の対極にある陰気とは死や死にまつわるもののことである。
死に掛けた程度では精霊が敬遠することはない筈だと宣教師は首を傾げていたが、レイラ自身はなるほどと一人頷いていた。
なにせレイラの体は死に掛けていた上、中身は死を経験した誠である。
そのため、ただ瀕死になった人間よりも濃密な死の臭いを発しているのだろう。
これも初めて聞かされた時は馬鹿な事をと鼻で笑っていたレイラだった。
しかし目覚めて以降一度としてまともな魔法を使えないとなれば宣教師の言を信じる他なく、自分が地球の常識とは掛け離れた世界で二度目の生を受けた事を実感したのだった。
また誰もが扱え、息をするように使いこなす魔法が使えない事実に流石のレイラですら苦笑いしか浮かばなかった。
そんなレイラを周囲は痛ましげにしながら、空虚な励ましや隠しもしない蔑みの言葉を口にしていた。
「魔法を使えないのは残念だけど、やりようはいくらでもあるもの。それにこの程度のことで文句を言っていたら、身体をくれた
だがレイラは周囲の憐れみや侮蔑など、意に介すことはなかった。
前世では魔法や魔力といった物など存在しない世界で生きてきた上に、魔法の全てが使えない訳ではないからだ。
精霊を介在させない魔法は扱えるのだから、レイラにはそれで十分だった。
更に言えば、この程度の
溢れるように纏っていた魔力を全能感と共に終息させたレイラは垂らしていた髪を一つに纏め、岩から飛び降りながら周囲を見渡す。
時計などは無いが、太陽の位置や腹の空きぐわいから三十分ほどしか経っていないと判断すると、地面に放り投げていたズタ袋を引っ掴む。
「今日は夕方から隊商が来る予定だったわね。午前中には狩りを済ませられればいいのだけど……」
再確認の意味を兼ねて今日するべき事を呟きながら、手近にあった握り込めるサイズの石を拾ってはズタ袋の中に放り込んでいく。
ずっしりと重みが手に伝わるまで石を集めたレイラは脚に魔力を集め、駆け出した。
一歩目で数メートルを進み、二歩目にはその倍の距離を進む。
明らかに少女の脚力を超える踏み出しと加速であったが、それは全て魔力がもたらす恩恵であり、レイラが扱える数少ない魔法の一つだった。
確かにレイラは魔法が使えない。
だが体内を循環する魔力を集めることで肉体は強化され、その身体能力は飛躍的に向上する。
この現象を身体賦活と呼び、多少の魔力があれば誰もが扱える魔法の一種であった。
とはいえ、レイラほどに身体能力を引き上げられる者は少ない。
精々頑張って多少足が早くなるか、少し重い物を楽に持てるかどうか程度だろう。
魔力の扱いも結局は運動と同じで、日々の練習と努力を必要とするからであり、日常を漫然と過ごすのであれば火や水を少し作り出せれば十分なのだ。
それでもレイラが魔力を扱うのは、ひとえに前世で叶わなかった夢を実現させる。
ただその一つの為だけに、レイラは日々欠かさず訓練を続けていたのだった。
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