第4話 絲綢之路
「西域へ行くのだから、あの駱駝がいた商家から出発するはずよ!」
言うより先に小環は飛び出していた。崇仁坊を出て、過日見かけた商人の屋敷を目指す。陽は傾きつつあるが、まだ多くの人で賑わっている往来を、行き交う人々をすり抜けて急ぐ。小環の後を真成もついて行く。息が切れるが、顔を真っ赤にしながらも辛抱する。柳絮が雪のように舞う。
追いつけるのか。追いついたとして、引き留めることができるのか。
悩みは尽きない。が、悩む時間すら無い。まずは瓊華に追いついてもう一度話をするのが優先だ。
真成と小環の二人が、長安の街を走る。最近の真成は小環と長安内を縦横無尽に駆け回ってばかりだ。
「あっ! くまーっ!」
小環より幾分遅れて、息を切らせながら真成が到着した時に、小環は屋敷から出てきた三人を指差して叫んでいた。一人は太っていて顔中髭だらけで熊を髣髴とさせる容貌、一人は背が高くて髭無し。もう一人は両者の中間で没個性。
「くまーっ、がなぜここに居るのよ?」
「居て悪いかよ! 俺達は隊商の護衛としてちょっと遠くへ行くんだよ」
「遠くとはどこですか? 海南へ茘枝を仕入れに行くわけではないでしょう」
追いついた真成が問う。南へ行くのに必要なのは駱駝ではなく早馬だ。
「行き先は、部外者には言えねえよ。てかお前、父親じゃねえか。暴れ馬の手綱くらい握っていろよ」
本日の三人は素面ではあったが、真成と小環の関係を勘違いしたままだった。訂正する暇も惜しいので、真成は問題の核心に迫る。
「楊瓊華という女を知っているでしょう。この小環の姉なのです。どこへ行ったか教えてくれませんか?」
「えっ、この子供があの女の妹なのか? 似てねえな」
言ってから「しまった」という表情をした熊男だが、口から出た言葉はもう元に戻らない。瓊華を知っていると暴露してしまった。
「しょうがねえな。あの女なら、長安の見納めということで、晋昌坊へ行ったよ。これだけ言えば分かるだろ?」
「分かったわ! ありがとう、くまーっ」
「だから熊って言うんじゃねえ」
「真成! 行くわよ!」
いつの間に手に入れていたのか、小環は手に持った柳の枝を鞭のように振るって真成の尻を叩いた。馬扱いだ。
情報を得た小環は水を得た魚のように元気に走り出した。真成も追う。
離れた場所からでも一目瞭然で分かる、晋昌坊に聳える背の高い塔。
大慈恩寺の大雁塔。天竺への旅から帰唐した玄奘三蔵が建立した塔である。
瓊華は仏教信者ではなさそうだが、三蔵法師のことは、志を果たして故郷への帰還を果たした人物、ということで自分の境遇と重ねているのか、尊敬していると言っていた。
大雁塔は、長安出発前に最後に訪れるに相応しい場所だ。
南に向かってかなり長い距離を駆けて、真成だけでなくさすがに小環も疲れ果てた頃、やっと晋昌坊に入る。
大慈恩寺の敷地に入る。酔う程に牡丹の香りが強く強く漂っていた。大慈恩寺は長安随一の牡丹の名所として名高いのだ。境内の真ん中で立ち尽くし、高い大雁塔を見上げている若い女の姿があった。流れる豊かな紅毛は光を受けて、牡丹よりも鮮やかだ。背後から見ても一目で分かる。
「瓊姉!」
「あ、あなたたち……どうしてここへ」
「瓊姉に……これを」
恐らく小環は泣いて姉への恨み言を並べ、行かないように引き留めるだろう。そう真成は予想していた。だが、小環の行動は意外なものだった。懐から、細長い物を取り出し、最愛の姉へと差し出した。若々しい緑色が目映く芽吹いている。
「柳の枝?」
先程鞭として使ったものだ。
「お別れの時には、柳の枝を折って名残を惜しみながら見送る、というのが風流な習慣でしょ。瓊姉の旅立ちを止めることは誰にもできないから、せめて最後にきちんとお別れをしたかった。だから、皇城の堀端の御柳を折ってきたの」
九歳くらいの童女とは思えぬ、大人びた口調と内容の言葉だった。
瓊華が、言葉に詰まった。何かを言おうと口を開くが、声が出てこない。
ようやく、真珠のような歯の間から、吟じ手としても優れた瓊華が美声を紡ぎ出す。
「小環の顔を見てしまったら、別れが辛くなって旅立ちの心が揺らぐのではないかと恐れていました。でも、小環の顔を見て思い出しました」
「え、何?」
「あなた、妾をお手本としていますが、踊りの方針が素質に合っていないのではないでしょうか。妾は痩せた体形で速さと切れを重視した胡旋舞を得意とします。ですが小環は、もっと成長したら、今の世の好みに合う豊満な美女になりそうな感じです。虹霓のような美麗な裳裾や羽根の衣がふわふわと靡くようなゆったりした動きこそが、小環には合っていると思うのです」
「瓊姉とは違う、自分だけの、独自の路線を行けということですか?」
「それだけのことです。小環は天賦の才を持っています。妾を見習う時期はもう過ぎています。吟唱も楽器も舞も、もっと大きく羽ばたきなさい」
「はい。分かりましたわ、師匠」
瓊華は破顔一笑した。
「素直な良い返事です。最後の最後に小環に助言ができて、良かったわ」
皆それぞれ悩みを抱いていた。瓊華は自身の決断により故郷へ帰ることを選択し、小環は姉の言葉を受けて迷いを払った。
「まだ迷っておられますわね、真成さま」
風の中で瓊華は的確に言い当てる。
「ご自身の目的は何で、そのための手段が何なのか、考え直した方がよろしいかと存じます。進士科及第を目指すという目標は尊いものではありますが、明経ではなく進士でなければならないのでしょうか? 進士でなければ、官吏として栄達は不可能なのでしょうか? 進士に及第した人は必ず良き官職を得られるのでしょうか?」
「あ……」
快刀乱麻を断つが如き言葉に、真成は胸を打たれた。
「そうだ。私は、進士に及第したいのは確かだが、それが最終目標ではない。官職を得て唐に仕えて、その中で色々学んで、成果を故国に持ち帰るのが目的だ。進士はそのための手段でしかないのだった」
進士及第者だからといって、必ずしも官僚として出世できるわけではない。四書五経の知識や詩作の素質や技術があっても、実務能力が優れているかどうかは、また違った素養や努力が必要になる。長安に来て進士落第を繰り返す年月の中で、いつしか目的と手段を混同していた。
明経科を受けよう。真成はそう思った。進士程の格は無いが、官吏登用試験であることに違いは無い。大事なのは、任官してから努力して実績を残すことのはず。明経は主に儒学の知識を有していれば良い。進士と違って真成の苦手とする詩賦の出題が無いので有利だ。
「真成さまも清々しい表情になられましたから、ご自身の進む道を見つけることができたようですわね」
優しく微笑む瓊華は、長安中のどんな牡丹よりも美しい。真成もまた笑顔を咲かせた。
「瓊華さんと出会えたことで、私の進む道が照らされた。感謝します。名残惜しいですが、道中、お気を付けて」
真成は周囲を見渡した。渭水の畔ではないので、手折るのに丁度良い柳は一見しただけでは見つからなかった。皇城を囲繞している御柳を手折って来るとは、小環は用意周到だった。
「妾は玉門関を出て万里の長城の向こう、西域へ行きます。絲綢之路を旅します」
「絲綢之路……」
古来より絹の道とも呼ばれた悠久の交易路。なんという、遠い響きを持った言葉であろう。
「絲綢之路というのは、もの凄く長い道です。西は、妾の故郷よりも更に西のローマという街まで続いていると聞いたことがあります」
「羅馬というと、大秦国の都でしたでしょうか。水晶でできた宮殿があるという」
東の国の出身である真成には、西は謎に満ちた未知の領域だ。
「長安の都だって、絲綢之路の途中です。長安に住む者は皆、絲綢之路の旅人なのです」
「じゃあ私も、旅人なの?」
「勿論小環も歴史の中の旅人です。絲綢之路は長安より東は洛陽まで続いています。一説ではその更に東、海を渡って真成さまの故国である日本国のナラという土地の都にまで続いているといいます」
寧良ならば真成にも良く分かる。平城京は長安をならって建設された都だ。
「卓文君作と伝えられる『白頭吟』に『溝水東西に流る』とあるように、この長安では人もまた堀川の流れのように西と東に分かれ行くのです。妾が西域に帰り、真成さまがいずれ日本国へ帰り、小環が長安に残る。それでも三人とも、同じ道の途中です。一本の道で繋がっているのです」
「ずっと長安に住んでいても、私も旅人なんだ。えへへへ」
小環は未来の傾国の美女の片鱗をうかがわせつつ完爾と笑う。
「それでは元気でね、小環。いえ、楊玉環。真成さまもお元気で。無事に故郷の土を踏めることをお祈り申し上げます」
歌うような優しい声で言って、瓊華は小環と真成に背を向けた。大雁塔を一人で見上げ、振り返ろうとはしなかった。
三人それぞれの絲綢之路、本当の旅路はこれからだ。
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