第3話 西域へ

 翌日もまた、長安は朝から晴天に恵まれて、春を謳歌していた。

 空を仰ぐと、絹糸のような細い微かな煌めきが飛んでいるのが見える。虫が吐き出した細い糸が飛んでいる遊糸だ。柳絮と並ぶ長安のうららかな春の風物詩の一つだ。

 本来は宿舎で引き籠もって勉強しているはずの真成は、朝から長安市内を美童女小環と歩いていた。

「本当は勉強したいのだが……」

「留学生っていうのは、唐国の制度とか文化とか色々なことを学ぶんでしょ? 論語だけ勉強するんだったら、海を渡って唐に来ないでも自分の国でできるでしょ?」

「それはそうなのだけど」

「だったら引き籠もってばかりいないで、長安城内を観て回って世の勉強をした方がいいわよ」

 小環の言うことはもっともだ。だが、真成とて長安に来て一〇年近くになる。その間には長安城内のあちらこちらを見物したことくらいはある。

「見て見て真成! 波斯人の剣呑み芸だわ!」

 上半身裸で筋肉質な異国の男が、天に向かって大きく口を開けている。そこに、陽光を照り返して妖しく輝く剣を、刃先から入れて行く。

「見て見て真成! こんな所に、駱駝をたくさん飼っている所があったなんて!」

 大きな屋敷に隣接して柵に囲われた広い敷地がある。その中に一〇〇頭くらいの双峰駱駝がいた。西の砂漠地帯へ大がかりな旅に出る商人だろうか。

「見て見て真成! あの店の人たち、慌てて出荷しようとしているから、たぶんその内、落としちゃうわよ」

 陶器商人らしい。副葬品として使われることの多い唐三彩の壷や置物を慌ただしく運び出している。誰か、ある程度身分のある人が亡くなったのだろうか。唐三彩は模様こそは芸術品として美しいが、脆いため、落としたらすぐ割れてしまう。虎、兎、貴婦人、武将、獅子などの置物を運んでいる。小環の言葉通り、大鳥の置物が地面に落ちて瓦礫になった。

「見て見て真成! あの屋台で焼いているのは羊肉串だわ。買って買って!」

 鉄串に刺した羊肉を、唐辛子と茴香と大蒜で味付けした西域の焼肉料理だ。仕方ないから買った。屋台の胡人の発音はシシカバブと聞こえた。小環は喜んであっという間にたいらげた。美味しい物を食べた時の素直な笑顔は子供らしくて可愛い。

 それにしても、すっかり呼び捨てが定着してしまった。儒教の国は年長者を敬うのではなかったのか。

 午後になると、小環は踊りの練習をするからと言ってまさに旋風のように帰って行った。

 真成も帰って、勉強を再開した。しかしあまり手につかなかった。目を閉じれば瞼の裏に瓊華の華麗な胡旋舞が浮かび上がる。すっかり魅せられている。

 翌朝、小環がまたやって来た。真成はあまり驚かなかったが、少し困惑した。

「勉強に集中したいのだけど」

「瓊姉が、急用ができたとか何とか言って朝早くからどこかへ出かけてしまったの。心配だから様子を見に行きたいんだけど、どこに行っているのか分からないから……真成も一緒に探していいわよ。真成も瓊姉に会いたいでしょ?」

 真成は浩瀚な書を閉じた。小環が来てしまってはいずれにせよ勉強は無理だ。それに真成自身も瓊華に会いたいと思っていた。だが。

 長安は広い。歩き始めてから気づいたことだが、目処も無いまま特定の一人を捜索するのは極めて困難だ。本日も風は優しく暖かかった。

「……結局、遊興か……」

 人捜しであるのを忘れているのかどうか、小環は満面の笑顔で東市の長興里を歩く。真成は朝日を浴びている終南山の残雪に目を留める。あれを題材に五行六韻排律詩を詠むとしたらどうなるだろうか。


八水終南見


残雪白雲浮


……


 続きが浮かんで来ない。最初の二行もいまひとつだ。この先、韻まで合わせて考える余裕が無い。

「それでは全然駄目でしょうね」

 小環にまで貶されてしまった。

 微かに落ち込んで項垂れていると、小環に袖を引っ張られた。

「見て見て真成。あれは抓飯の店だわ」

 掲げた看板には「畢羅」とある。実際に食べてみると、炒めた米に羊肉や胡蘿蔔、玉葱、乾葡萄などの菜蔬を加えて炊いた料理だった。調理人の胡人の発音では、ピラフに聞こえた。

「けっこうお腹いっぱいまで食べちゃった。太りすぎないためには、ちょっと体を動かした方がいいわね。真成に私の踊りを見せてあげましょう」

「この場所でか?」

 東市の往来の真ん中だ。多くの人が普通に行き交っている。

「さっき、真成がちょっと詩を披露してくれたでしょ。今度は私の番だわ。瓊姉ほどではないけど、私の踊りだって大したものよ。そのへんの人々の足を止めさせて称賛を浴びるくらいには良い踊りをできる自信はあるわ」

 力強く宣言した。

 そして、その言葉は決して針小棒大の誇張ではないことはすぐに実証された。

 まだ小さな体を精一杯に動かして舞う。限界まで爪先立ちして両手を天にのばす。優雅さをためつつ、風を切り裂くように鋭く回る。少しよろめく。道行く人は何事かと怪訝そうな表情を浮かべる。それがすぐに、感歎の笑顔へと変化する。

 激しく動いてもさほど息を切らさず、小環、舞う。黒髪が遅れてついて回る。更に加速する勢いで回転する。姉よりはやや単調ながらも、しっかりとした胡旋舞だ。炎よりも風よりも激しく、踊りに没入している。

 最後に小さく跳ねて、両足で地を踏み締めて動きを止める。遅れて、宙で乱れていた髪が落ち着く。見物していた人々から称賛の声と拍手が浴びせられる。得意満面の小環に対し、真成は小さな妹の成長を喜ぶ兄の心境で大きく頷いた。小環は決して大口を叩いていたのではない。実力は本物だ。恐らく、歌や楽器の演奏に関しても、本当に卓越した技術を持っているのだろう。

 異母姉と容姿は似ていないが、芸達者なところは似ている。こちらは父親譲りということなのかもしれない。

「見た見た真成? 私の舞い」

「見た見た。上手かったよ」

 優しい笑顔で褒める。小環は少しくすぐったそうな表情をした。集まっていた人々が解れて行く。

 しかし真成には、小環の師である瓊華が言う小環の伸び悩みについても、なんとなくではあるが感じるような気がした。技術としての観点ならば小児ながらも優れているが、もっと根本的な部分で轍と車輪が合っていないようなもどかしさを抱えているような気がしてならない。

 もうすっかり姉捜しは忘れ去られて、昨日同様に長安城内散策が主目的に変わり果てている。

 真成も勉強は諦めて、小環との逢い引きを楽しむことにする。瓊華は用事があると言って出かけたそうだから、小環と真成が押しかけてその用事とやらを邪魔する必要も無いだろう。

「見て見て真成! なんか、石みたいな見たことの無い果物がある。あれ買って、まず真成が味見してみて!」

 仕方ないから買った。赤茶色の硬い皮の果物だ。大きさは松の実より若干小さい程度。聞くところによると、傷み易いため特別高速便で殖業坊の都亭駅に届けられた南方の珍品らしい。皮を剥くと白い果肉が出てくる。甘くて果汁たっぷりだった。真ん中に大きめの種がある。

「わぁ! こんな美味しい物がこの世に存在したなんて! 大人になったら偉くなって、この茘枝っていうのを飽きるくらい大量に買って食べるんだ!」

 昨日今日と、長安を満喫して楽しんでいるのは、明らかに真成よりも小環だった。

 日本から来たばかりの頃は、真成の目にも長安の街は刺激的に映った。いや、今でもあちこちに新たな発見のある面白い街だが、あの頃とは真成自身の境遇が違う。

「来たばかりの頃は、進士に及第して出世するんだ、と夢を描いていた。今は崖っぷちだけど」

 思わず漏れた真成の独り言が、貪るように茘枝を食べていた小環の耳に入った。

「無理に難しい進士を受ける必要あるの? 唐の制度や文化を学ぶために役人になりたいんでしょ? もっと簡単に役人になれる方法があるなら、そっちを選べば良いでしょ。真成は試験に受かりたいのか、役人になりたいのか、どっちなの?」

 遥かに年下の童女に言いこめられて、言葉に詰まった留学生。考えてみれば、進士は最終目標ではない。高級役人に栄達するという目標のための手段だ。目標と手段を混同してはいけない。

「結婚だって無理にすることじゃないでしょ。真成が故郷に帰って、両親が用意しているお嫁さんを見てからでも良いんじゃない? 両親なんだし、息子の真成のことは良く知っているはずでしょ。その両親が見立てたお嫁さんだから、悪い人じゃないよ。もしそのお嫁さんが気に入らなければ、その時はきっぱりと断ればいいでしょ」

 次々に茘枝の皮を剥いて食べながら、小環は言った。進士についても結婚についても、姉とは正反対の意見だった。

「家柄とか付き合いとかあるから、簡単には断れないけどね」

「んじゃ結婚だけして、好きな人を、おめかけさんにすれば?」

 子供とは思えないほどませた、あっけらかんとした意見だった。

「小環の言う通りかもな」

「天子さまは、正式の奥方である正妃の他に、後宮には星の数の妃を囲っているのは知っているでしょ。自分も、それくらい器の大きな男になりなさいよ」

「そうだな。でも、まず最初に、気になる女性に振り向いてもらえるようになりたいものだ」

 真成は空を見上げた。故郷に帰れば結婚するなら、唐国にいる間にこそ、自由な恋を楽しむのが、人生の得策ではないか、と遅ればせながら思い始めた。

「真成の悩みには、私が簡単に答えを出してあげたわよ。そもそも、真成の悩みなんて私の悩みに比べれば、ちょっと考えればすぐに答えが分かるような単純なものだからね」

 さすがに遥かに年下の幼女に馬鹿にされた口調で言われて憤然とした。そもそも人の悩みなんて、他人と大きさを比較する性質のものではないのではないか。

 小環の悩みとは、先日言っていた踊りに関する伸び悩みだろう。考えて解決する問題ではなさそうだ。

 二人はしばらく無言になったが、すぐに小環が何かに興味を抱き、真成を引っ張る。

 巍巍たる秦嶺の山々と潺湲と流れる渭水をはじめとする長安八水に囲まれ、海棠や桐の花に彩られ、柳と楡と槐の緑が濃くなる、春爛漫の長安。美女と並び歩くのならば、姉の方が良かったのに。そう思いつつも、小環との散策もつまらないわけではない。

「見て見て真成! ……」

 呼び捨ても二日目だ。慣れてしまえば、親近感として受け容れられる。

 小環と一緒ならば、見慣れた風景も新鮮に思えて、時間が充実しているよう感じられた。

 結局、昼過ぎになっても姉を発見することはできなかった。当然だ。

 小環は昨日と同様に、一人で踊りの練習をするから、と言って帰った。

 帰り際に一言、言い残した。

「私の名前は玉環よ。小環というのは小さな妹としての愛称なの。だから真成は、今度から玉環と呼びなさいよね」

 小児扱いを嫌うあたりが小児らしい。

 昨日もそうだったが、今から帰って勉強を始めても、既に気力も削がれてしまっているので捗らないだろう。四書五経を繙いて中身を覚えるだけなら勉強すればするだけ成果は出るだろうが、苦手な詩賦は雪窓蛍机の苦労を重ねるだけでは伸びないものだ。

 真成は開き直って心の洗濯をすることにした。閉じこもってばかりいないで様々な事物を見て感性を育てることが大事なはずだ。

 過日の酒肆に行ってみると、客達は慌ただしくざわめき、不機嫌そうな顔で文句を言ったり、悲しそうな表情で俯いたりしていた。せっかく来たのに早々に帰ってしまう客もいる。

「文成さんが亡くなったのだよ。昨日だけど」

 疲れた表情の店の主人が真成に話しかけてきた。

 張文成老。先日、初めて真成がこの資聖楼に来た時、舞台に一番近い席で瓊華の吟唱に聞き入っていた白髪の老人だ。役職はあまり高くないようだが、何らかの名士らしいので、華やかな唐三彩の副葬品と共に眠ることになるのだろう。

「本日は彼女の舞台は無いよ。彼女もまた文成さんの喪に服している」

 身内ではないから、瓊華が数カ月服喪するということもなかろう。それにしても、先日までは元気そうだった張老が突然亡くなるとは。徐福の不老不死を持ち得ぬ人間は、短い人生を有意義に生きなければならないものなのだ。

「彼女、明日からすぐ舞台に復帰するって言っていたから、また明日来なさい」

 店の主人の言葉に、素直に従う以外に道は無かった。

 言葉を交わしたことは無いが、白髪白髭の張老の酔顔を思い出す。瓊華の舞台を熱心に観覧していた。この広い長安城内でも、最も瓊華の芸の素晴らしさを理解してくれていた人なのだろう。

 翌日は、真成は昨日までの遅れを取り戻すべく、朝から勉強に勤しんだ。儒学の知識を蓄え、時務策について考えを巡らし、有名な詩を模写して素読する。

 充実した勉強をできた真成は、気持ちを改めて資聖楼へ向かった。

 少し遅い時間に着くと、舞台の上では普段着の胡服のままで瓊華が吟じていた。客は少なく閑散としていて、古びた天井の煤けぶりが目に付く。



……


辺声乱羌笛(辺境の歌声は異民族羌の笛を乱し)


朔気捲戎衣(朔北から来る風は軍服を捲る)


雨雪関山暗(雨と雪が降り関所となっている山は暗く)


風霜草木稀(風と霜の寒さで草木も稀だ)


胡兵戦欲尽(敵兵の戦力は尽きようとしているが)


漢卒尚重囲(漢軍はなお包囲を重ねている)


……



 西方の異民族に対して漢人が輝かしい勝利を飾ることを祈念した詩だ。作者は宮廷詩人杜審言。著名な詩人を多数輩出している杜氏の一人だ。

 腹からだけではなく、自らの胸の肋骨を楽器として震わせて声を出している感じだった。力強く、でもどこかせつない瓊華の声。

 瓊華のような若くて美しい女が、華やかな恋愛ではなく、無骨一辺な詩を吟唱することに一瞬違和感を覚えた真成だったが、彼女の境遇を思い出して納得した。故郷が異民族の圧迫を受けていると言っていたはずだ。瓊華の故郷を想う気持ちの強さが表れている吟唱だ。

 杜審言の『蘇味道に贈る』が終わると、次の吟唱も胡旋舞も無く、瓊華は疎らな客に向かって深々とお辞儀をして、舞台から降りた。

 そのまま、茶を飲んでいる真成の卓子にやって来た。

「真成さま、昨日は舞台に立てずごめんなさい」

「事情は店主から聞きました」

「文成さんは、大切なお客様だったのです。胸に黒い穴が開いてしまったような気分です」

 二人、無言。言葉が続かなかった。注文せずとも、店の主人が瓊華に葡萄酒の夜光杯を出してくれる。

「これは、一つの契機なのかと思うのです。妾、故郷に帰ってみたいと思っています」

 瓊華の言葉は真成の胸で雷のように炸裂して煩雑な音を奏でた。

 玉門関の西。黄塵の舞う遠い異国。今、彼女がそちらへ向かったら、もう真成とは一生まみえる機会は無いだろう。真成はただ口を開けて、無様に喘ぐばかりだ。

「故郷を離れたのは、妾がまだ幼い頃です。物心がやっとついたばかりの。記憶の中の情景は段々曖昧になってきています。もう一度、自分の目に焼き付けておきたい」

 寂しげな笑顔を浮かべる瓊華。故郷を離れつつも長安の都で自らの生き方を貫いている姿。そんな眩しい瓊華に真成は惹かれていた。三〇歳になるまでに結婚したいと思い、自分の隣に瓊華が立つ未来図を心に暖めていた。いずれは一緒に日本へ連れて帰り両親を驚かそうとも、漠然とではあるが思い描いていた。

「西の異国人である妾と、東の異国人であるあなたとが、この長安の都で出会えたのは運命といえましょう。しかし、もうお別れしなければならないようです」

「出会ったばかりではありませんか。早すぎです」

「妾の故郷である西の遠方は近年、タージーともサラセンとも呼ばれる者たちの侵略を受けているのです。故郷がどうなっているのか気になるのです」

「そんな物騒な所へ女が行くのは危険でしょう。」

「危険は承知です。でも、故郷を簡単に見限ることはできません」

 真成は一気に茶をあおった……つもりが、間違って瓊華の葡萄酒を飲んでしまった。芳醇な味わいと香りのはずが、妙に苦く感じられた。進士落第の時に飲んだ自棄酒よりも不味く感じた。

「家庭の事情もあるのです。おじ様は良くしてくださりますけど、やはり妾のこの容姿では、嫁に出す先を探しにくいらしいのです」

 店主に新しい葡萄酒を注文しながら、瓊華は自らの髪をそっと撫でた。特徴的な紅みがかった金髪。

「おじ様とは?」

「父は、小環が生まれてほどなく病を得て亡くなっていて、小環まで含めて妾たち姉妹は皆、おじ様の家に厄介になっています。小環から聞いていません?」

 聞いていない。やはり複雑な家庭事情のようだ。

「家の事情に加え、良きお客様であり大変お世話になった文成さまが亡くなられ、喪失感の大きさに苛まれています。聞いた話では、西域へ向かう隊商が駱駝などの準備を整えて近々長安を出発するそうです。本物の商人も随行するらしいですが、隊商の本当の目的は西域情勢を探ることみたいです。妾も、それに加えてもらって西へ旅立とうかと思っているのです」

「そんな急な。そんな危険な任務を帯びた隊商に、芸人の女を簡単に加えてくれるか疑問です」

「それが、本来の目的を隠蔽するためにも、女がいるのは都合が良いようです。おじ様が政治的に力のある方でして、そちらの方に口利きをしてくださっています」

「そんなに良い家柄だったのか」

 ならば、瓊華は資聖楼で吟唱や胡旋舞などをして稼がなくても生活に困ることは無いはずだ。それでもなお舞台に立っているということは、純粋に吟唱や踊りが好きなのだろう。

「妾たちは、高い家柄の方が多く邸宅を構えている宣陽坊に住んでいます。美丈夫として名高い高仙芝将軍もご近所なのです。わが家には妾以外に、漢人の女子が小環も含めて四人いるのです。その内一人でも、天子様か太子様の後宮にお仕えさせるのだと、おじ様は目標を持っておられます。それくらいの力はあるのです。だからこそ逆に言えば、妾のような容姿の女は異端なのです」

 瓊華が長い睫毛を伏せる。真成が今度は間違えずに茶を飲む。苦みを楽しむ飲み物とはいえ、苦さに顔を少し顰めた。

 胡姫の舞台が早々に終わってしまったせいか、客たちは次々に帰って行く。いつの間にか、楼内に残っている客は真成と瓊華の二人っきりになってしまっていた。静けさが寒々しかった。今日は酒を飲むだけの客も来ないのだろうか。

「あとは、妾が西域へ行くか行かないかの決断をするだけ、と言ってもいいでしょう」

 夜空に燦然と輝く北斗七星のように強い光を宿して、瓊華の翡翠の瞳は真っ直ぐに真成を見つめた。

 真成は両膝から力が抜けていくような感触を味わった。折角出会って親しく会話をするようになった西域の美女が、幻のように消える。残るのは未だ幼い小環だけだ。

「そうだ。小環はどうするのです。小環は、楊玉環は楊瓊華という姉を慕っているでしょう。小環が寂しがるのではないですか。舞いや歌など、瓊華さんから教わることも多々あるでしょうし」

「小環は、きっと妾の事情も理解してくれるはずです。あの子は、歌や踊りが優れているだけでなく、頭も良い子ですから。きちんと練習を重ねれば、才能が活きてしっかりと伸びますわ」

 瓊華は一瞬、春秋時代の美女として名高い西施のように眉を顰めた。

「本来ならば文成さまのご葬儀が終わって喪が明けるまで待つべきですが、事情が逼迫しています。またあまり長く留まりすぎると、小環の寂しさが募ってしまうでしょうから、思い立った時こそが最大の好機として出立するのが良い。というのが妾の考えです」

 あまりにも話が急すぎる。真成はついて行けない。

 だが翻って自分のことを思い出してみると、弱冠一九歳という齢にして郷里から送り出され大海へと挑んだのだ。良家に生まれ育った真成が遣唐使に参加する利害については諸々計算済みではある。でも、海を渡り長安に至るだけで命がけの旅に出るというのは、最後は利害云々ではなかった。勢いと勇気、情熱が全てだった。行くか行かないか。二者択一。迷う暇を与えられず、決断しなければならなかった。

 そして真成は船に乗ったのだ。

「そういうことですので。さようなら真成さま。妾は、出立の準備もありますので、これで帰らせていただきます」

 引き留める言葉を持たず、真成はたった一人残った客となった。

 真成は黙って瓊華の飲み残しの夜光杯を呷った。甘い香りの葡萄酒は痛い程に喉を灼いた。気管に入り、大きく咳き込んだ。

「ほらほら、しっかりしなさいよ」

 いつの間にか、小さな手が背中をさすってくれている。息苦しさの中から意識が戻って、薄暗い酒肆の情景に双眸の焦点が合う。小環が心配そうに真成の顔を覗き込んでいた。

「ん、小環。小さい子が、一人で出歩いたら、危険、だぞ」

「小環じゃなくて玉環よ。小さい子扱いしないでよ。それにまだ夜になるには時間があるから。坊の扉も閉じられていないし」

「ところで、さっきまで瓊華さんがいたのだが、来る途中にすれ違ったかい?」

「いいえ。そういえば、昨日も今日も用事があるとか何とか言って瓊姉とは顔を合わせていないわね。時間が合わないのかしら」

 それは妙だ。瓊華の方が意図的に小環を避けているのでない限り、広い屋敷内であったとしても全く会わないのは不自然だ。

 いや、まさに瓊華は意図的に妹を避けているのではないか。

 そう思った真成は、瓊華が長安を辞して西域へ行こうとしていることを小環に説明した。

 本来ならば、当然のこととして小環も知っているはずの話だ。

 劇的に、小環の顔色が変わった。

「そ、そんな、急な話。嘘よ。私にはそんなこと、一言も話していなかったわ。おじ様だって、特に何も言っておられなかったわ。嘘よ、嘘。真成、あんた、嘘つき」

 小環が大きく目を瞠き、戦慄きながら叫ぶ。

 真成は悲しかった。瓊華が最愛の妹に別れを告げずに長安を去ろうとしていることが。

 この場で議論しても何も始まらないので、とにかく二人で瓊華を探すことにした。



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