第2話 胡姫

 童女は馨しい香りを漂わせながら、風のように軽やかに急ぐ。

 二人は風にそよぐ御柳に見送られ、皇城の景風門の近くから、京中の諸坊で比べるものの無いほどに喧呼の満ちている崇仁坊に入って行く。

 童女は酒肆らしい大きな建物に迷わずに入った。扁額には唐建国の頃の顔師古を髣髴とさせる溌墨淋漓たる楷書で「資聖楼」と書いてある。尺牘書疏は千里の面目と言うだけあって、上手い文字は輝かしい。

「こんな子供が酒場に……」

 とは思ったが、真成も中に入った。一階は大部屋になっていた。幾つも卓子が並んでいて、それぞれの席で二〇人ほどの客達が静かに飲んでいる。奥は舞台で、琵琶を爪弾きながら紅毛碧眼の美女が詩を吟唱している。臍下丹田から吐き出された澄んだ声が空間に響く。遠き西の国から来訪しこの酒肆専属の妓女となったのだろうか。

 齢は二〇歳過ぎくらいだろう。彫りの深い顔だち。高い鼻。波打つ豊かな髪。西方人の特徴である透けるほどの白い肌。小ぶりながらも深紅の薄絹の衣装を押し上げる二つの乳房。三本の弦の上で踊る繊指。胡姫の美しさは真成の視線を吸い寄せた。

 金髪や青い目を持つ胡人など長安では珍しくはない。それにしても女のあでやかさは際立っていた。座布団の上に座って琵琶を抱えた胡姫の姿は、大輪の牡丹もかくやの華やかさだ。

 客達は、身なりからして上流階級の者が多いか。酒や女の容姿よりも、吟唱の美しさに酔っている様子だった。

 真成も詩吟に耳を欹ててみると、瞬時に胡姫の紡ぎ出す世界に引き込まれた。



未必由詩得(未だ必ずしも詩によって満足を得られないかもしれないけれど)


将詩故表憐(将に詩によって気持ちを表したいのです)


聞渠擲入火(聞くところによると彼は詩を火に擲って入れてしまったとか)


定是欲相燃(きっとこれはお互いに燃えたいと欲したのでございましょう)



 のびやかな高い声。巧みな節調。喉だけではなく、体全体、手足の指の先から気を集めて、詩に乗せている。

 どこかで聞き覚えがある詩だ。記憶を辿ると『遊仙窟』の作中に登場する詩と思い出す。詩などの作品によって気持ちを表現したいというのは、詩吟に限らず芸術の道を志す者にとっての共通の願いだろう。

 胡姫が吟じ終え琵琶を置き一礼すると、最前列に座っている白髪の老人が緩慢な動作で疎らに手を叩く。拍手で称賛したのは顔色の悪いその老人のみ。他の客は、特に何もしなかった。

 吟唱が悪かったからではない。皆、次を待っている。女は再び琵琶を抱く。

 掻き鳴らされてせつない和音を紡ぎ出す琵琶。二句三息で紡ぎ出す声が唱和する。



此地別燕丹(此の地にて別れる、燕国の太子丹と荊軻と)


壮士髪衝冠(壮士荊軻の髪は悲憤慷慨に逆立ちて冠を衝きあげるほど)


昔時人已没(戦国末期の昔時の人はすでに没してしまってこの世に亡いが)


今日水猶寒(今日もまた風蕭々として易水はなお寒々としている)



 駱賓王が『史記 刺客列伝』を踏まえて詠んだ五言絶句、『易水送別』だ。

 荊軻は秦国の王を仕留める刺客として、この地を出発するところだ。燕の太子丹と部下達は喪服で見送る。暗殺に成功してもしなくても、荊軻が生きて帰還を果たすことは無いという壮絶な任務だ。

 結局秦王は生き延び、後に中原統一を果たし始皇帝となる。その秦も滅び、遥かな年月が過ぎた。

 荊軻の悲壮感と四時気が巡り巡る時の哀愁。異国の美女は五音七声の羽声に慷慨の念を籠めた。

 見事な吟唱だった。西の佳人が琵琶を置いて軽く一礼する。観客の間からは拍手や歓声などは起きず、静かに、感歎の溜息が小さく幾つか聞こえるだけ。噛み締めて味わう詩に対して、賑やかな喝采など必要無い。真成もまた、その場に立ち尽くし甘く染まった吐息を洩らした。

 人種の坩堝として世界各地から人が訪れている大唐帝国の首都長安でも、これだけの吟唱の技量を持っている者は、そう多くはないはずだ。そもそも詩の知識、楽器演奏の技術、持って生まれた声の質など、様々な要素が揃わないと、人の心を動かす良い吟唱はできない。

 真成がふと右下に目線を落とすと、童女もまた詩吟に聴き惚れている様子だ。そういえば、童女の姉を探しにこの酒肆に来たのだが、どこに居るのだろう。客席には見たところ男しか居ないようだ。裏手で掃除でもしているのか。

 琵琶を置いた胡女は立ち上がり、座布団を後ろにずらした。

 胡女は数回足で床を突いて拍子を取ると、その場でつむじ風のように回りながら舞い始めた。

 踊っている様子そのままの名前である、胡旋舞だ。

 回る。回る。

 舞う。舞う。

 伴奏は無い。が、女は頻繁に頭を動かしながら、舞台を踏む足で意図的に大きめの音を立てて拍子を取っている。舞いの中に金甌無欠の音楽世界を現出していた。

 舞姫の体の動きに応じて、手首や腰に付けている絹の細帯が空中に優雅な弧を描く。衣装の深紅の煌びやかさもあって、その動きはまさに神聖な炎そのものだった。

 炎は単調に燃えるものではない。時に予想もつかない滑稽な動きが出てくる。胴体や手を震わせてみたり、左右の肩を交互に前後左右させたりと、優雅さの中に諧謔が無理なく同居している。

 座って琵琶を持っている時には分からなかったが、胡姫の衣装は上と下に分かれている。丁度、臍の所は白い素肌が露出している。回り回る動きの中で幾度か臍が垣間見える。波打つ髪が拡がる。金の耳環が小さく輝く。

 小ぶりな乳房も小さく揺れる。お腹がのぞく。炎のように踊る。

 真成は息苦しさを感じた。胡旋舞に没入して、口だけ大きく開けたまま呼吸を忘れていたのだ。

 一際力強く舞台を踏む足音と共に炎は消えた。

 時間も止まった。

 観客からは溜息すら漏れて来ない。皆、真成と同じで一瞬息を忘れていた。

 胡姫が再び座布団に座って琵琶の準備を始めた頃になって、観客は呼吸を思い出す。生半可な拍手や歓声よりも、その反応こそが能弁な評価だった。



帰去来兮(帰りなんいざ)


田園将蕪胡不帰(田園将にあれなんとす。なんぞ帰らざる)


既自以心為形役(既に自らの心を体のしもべとしてきたのだから)


……



 次の吟唱が始まった。東晋時代の田園詩人陶淵明の『帰去来の辞』だ。

 官位を辞して故郷に帰る心境を詠んだものだ。

 未だ進士及第していないし官位も得ていないが、いつかは故国へ帰りたいという念を持つ真成の心にじっくりと染み入る。

 どこか牧歌的な弦の音が六律六呂を和して心を溶かす。真成の視界が少し潤んで滲んだ。舞台上で吟じている女の緑色の目が一瞬真成の方を流し見たようだった。確証は無いが、真成本人は胡姫が自分を見てくれたと思い有頂天外だった。

 本日の舞台は『帰去来の辞』で終了だった。吟唱の春鶯が観客たちに一礼する。夜光杯に残っていた葡萄酒を飲み干して勘定を済ませて店を出る客もいれば、まだ残って新たな酒を注文する者もいる。舞台を降りた胡姫は琵琶を置き、手の甲で軽く額の汗を拭った。そこへ童女が駆け寄る。

「瓊姉! お疲れ様でした!」

「え? この人が瓊華さん?」

 童女は黒髪黒瞳に、少し黄色みがかった肌の色。漢人である。

 瓊華は、名前こそ漢人のものだが、紅毛碧眼に透き通る白い肌。姉妹とは思えないほど似ていないどころか、人種が違う。義理の姉妹ということだろうか。

「ありがとう小環。今日も良い芸ができたわ。隣の殿方は、どなた?」

 吟唱の時よりも、少し低い、落ち着きを感じられる声だ。逆にいえば吟唱の時は、気が入っているということだ。

「この人はね、名前も全然知らない人よ。勝手に私について来ちゃった」

「おいおい」

 確かにお互いに名乗っていなかった。

「瓊姉! 私、踊りの練習をしていて、どうしても上手く行かない気がして、今すぐ教えてほしいと思って来たの!」

 瓊華は深い瞳で真成と小環を見比べる。

「どうも妹の小環がお世話になったみたいですから、あなたのお話を先にお聞きした方が良いですわね。あちらの席にどうぞ」

 説明する前に瓊華の目は真実をほぼ全て見抜いているようだった。

「私の踊りは?」

「後で教えてあげますから。恩人の方に失礼があっては、おじ様に申し訳ないでしょう」

「はい。分かりました瓊姉」

 暴れ馬女児の小環も、姉に対しては素直だった。容姿は似ていなくても長幼の序を弁えて懐いているらしい。

 客達は既に半分が帰っていた。あの老人も億劫そうな足どりで出て行ったところだ。空いた卓子を囲んで真成、瓊華、小環の三人が椅子に座り、店の主人に注文を出す。店では三勒漿、龍膏酒、胡餅など四方の珍奇というべき様々な酒や食べ物を取り揃えているようだが、真成は今更酒を飲む気になれなかった。最近急速に流行し始めて「茶」という字で書かれるようになってきた飲み物を真成は選んだ。瓊華は葡萄酒、小環は茉莉花で香りをつけた茶だ。

 茶で喉を湿らすと、真成は名乗り、成り行きで小環を無頼漢達から助けた経緯を説明した。瓊華は口を挟まず静かに聞いている。小環もまた真成の説明を邪魔せず、茉莉花茶の香りを楽しんでいる。

「そうでしたか。妹を助けてくれて、ありがとうございました。ほら、小環もお礼を言いなさい」

 立ち上がり、腰を折って頭を下げる瓊華の仕草も絵になる。渋々といった感じではあったが、小環も立ち上がって姉と一緒の動作で頭を下げた。

 再び席に着き、今度は瓊華が語り出す。

「妾は楊瓊華といいます。名前は漢人のものですが、見ての通り、西域出身の胡人です。妹は黒髪で瞳の色も黒い漢人ですが、異母姉妹なのです」

 ということは、二人とも母親似だったということだ。

「小環の生まれは蜀ですが、妾は玉門関より楼蘭よりカシュガルよりも遠い西の出身です」

「疏勒より遠くというと波斯国辺りですか?」

「ペルシアより北のクワーリズムという地の生まれ育ちです。アムダリア川がアラル海という塩水の湖に注ぎ込む辺り、砂漠の中の数少ない緑地だったはずです。そこに住んでいたのは幼い頃だけですので、記憶が曖昧ですが」

 異国の美女の話を聞くだけで、真成の心中には広大な砂漠の風景が浮かび上がった。毎年、春になると遙々西から飛んで来て空が曇る霾晦を思い出す。あの黄色い砂塵は彼女の故郷近辺から旅立っているのかもしれない。

「聞いたことがあります。『大唐西域記』の中で『貨利習弥伽国』と記していた土地のことだろうかと」

 玄奘三蔵の旅行記の中で「縛蒭河の両岸に順い東西二、三〇里、南北五〇〇余里ある。物産、風俗は伐地国と同じであるが、言語は少しく異なる。」と記されている地だ。玄奘は塩水の湖である西海の畔までは至っていないが、それなりに近くは通ったらしい。

「さあ、妾は詩に触れる機会は多いですが、『大唐西域記』は未読です。しかし三蔵法師様は、自らの目的のために遥かな長い旅をして、目的を果たし故郷に帰って来た、私にとって偉大な旅人で尊敬している方ですわ」

 窈窕たる美女は目を輝かせた。

 三蔵法師という尊称で知られる玄奘は高名な僧侶だ。教典を求めて天竺まで旅をして、帰国後は大慈恩寺にて持ち帰った梵経の漢訳に勤しんだ。その持ち帰った教典や仏舎利などの宝物を保管するために建立されたのが大雁塔だ。春に健やかに伸びる土筆のように、途中に節のような屋根を六つ重ね、七つ目の屋根は蒼穹を摩するが如く天へと突き出している。広大な長安の中でも特に目立つ格調高い建物だ。進士及第者は記念として大雁塔内の壁に署名をするという風習がある。真成には遠い場所だ。

「妾の故郷の付近は、砂漠の中の少ない緑地を、宗教や民族の異なる者達が激しく奪い合っていて、心が安まらなかったようです。妾の母は、妾がまだ幼い頃に亡くなったのですが、父は私を連れてサラセン軍の侵攻を逃れて移動して、やがて蜀まで至ったのです」

 胡旋舞の華やかさの裏には、苦難の人生が軌跡として潜んでいる。長安には世界中から色々な人が集まる。真成もまた外国から来朝して刻苦勉励しているのだが、真成だけが苦労人ではない。

「妾はここで、琵琶を弾きながら詩の吟唱を主に行っております。幸い妾の芸の実力を認めていただき、良きお客さんが来てくれています。素質ならば、この小環の方が妾などよりも遥かに上なのですけれどもね。最近この子、伸び悩んでいて……それはそうと、こちらのお店が良き演奏の場を提供していただき、大変感謝しているのです。演奏や詩吟や舞いができる実力があっても、場所が無いと困ります。路上では時々不届き者に絡まれる危険もありますし、資聖楼のように安心してはできません。刑部の司門員外郎である張文成さんが身辺の護衛をしてくださるのです。一番前の席にいらっしゃった、白髪のご老人です」

 刑部というと、司法を担当する部署で、司門員外郎といえばさほど高い位の役職でもないはずだ。でも、張文成という老人には何か独特な権威を持つ名士なのだろう。張文成の名前もどこかで聞いたような気がすると同時に、「成」の字が入っているので親近感を覚える真成であった。

「妾は今、自由に琵琶を弾いて詩吟をして、胡旋舞を演じて、可愛い妹の成長を微笑ましく見守って、大変幸せで充実しています。でも幸せであればある程、遠く離れたきり忘れかけている故郷が懐かしく恋しく、情勢が心配なのです」

 遠く離れた故郷が気になる心情は、真成も同じだ。

 茉莉花茶を飲み干した小環が、主人に対して二杯目を注文していた。

 会話が途切れた。

 気が付いてみると、真成も茶を既に飲み干してしまっていた。

 時だけが緩やかに流れる。

 ようやく真成は気づいた。瓊華は概ね語り終えた。次は真成が話す番だ。瓊華は催促しないので、話したくないことは話さなくても良いということだ。

「私は留学生です。今年も進士に落第してしまい、自棄酒を飲んでいました。今後どうするか悩んでいるのです」

 進士落第者。それが、今の真成の肩書きだ。

「私は唐国に来て一〇年になります。国子監の四門学に入って九年。今までは、学費をはじめ住居や生活費など滞在にかかわる時服糧料が唐国の負担だったのですが、今年限りで在学期限が来てしまい、費用も切れてしまうのです」

 進士の試験を受けるのに出身地制限も年齢制限も無い。「明経科は三〇歳でも老人、進士科は五〇歳でも若輩者」といわれるほど、一段階下の官吏登用試験である明経よりも難関であり、花形だ。だが実際に高齢で受験し続けられるのは、裕福な貴族に限られる。

「新羅国も、留学期限は一〇年としていると聞きます。新羅国は地続きですから、費用が打ち切られたら帰国すれば良い。でも私の場合は迎えの船が来なければ帰るに帰れません」

「東の海の向こう、なのですね」

「はい。日本国です」

「東の海の向こうには徐福道士が行った蓬莱の島があると聞きます」

 いつの間にか小環が静かだと思ったら、卓子に伏して居眠りしている。少し横に向けた寝顔が可愛らしい。

「それは伝説ですからね。いや、日本国の中のどこかに不老不死の秘法が眠っているのかもしれません」

 遠い目をして、真成は酒肆の天井を見上げた。少し煤けている。

「でも現実には不老不死の法は無いから、郷里に残してきた父母も、永遠に待っていてくれるわけではない。なんとか期待に応えたいと思っているのです」

 父母、という言葉を聞いて、瓊華は唇を結んだ。

「知人の紹介ならば、下級役人への道はあります。だが易きに流れるのが正しいのか。それに、私は現在二九歳なのです。来年は三〇になるので、そろそろ結婚も考えたいのです。故郷を出る時に父母が、良い嫁を見つけておくから向こうで結婚せずに帰って来い、とは言っていましたが、さすがに帰れるかどうかすら不確定の中では現実味が無いので。と、言いましても、唐国で結婚するにせよ、相手がいなければ話にならないのですが」

「意中の方がいらっしゃるのですか?」

 どこか悪戯っぽい目をして、美女が問いかける。

「平康坊の妓館を稀に訪れる以外には宿舎に引き籠もって進士に向けた勉強ばかりしていましたから。出会い自体がありませんでしたよ。今、こうして瓊華さんと出会ったのが運命的ともいえるくらいです」

 少しだけ、瓊華ははにかんだ。資聖楼には新しい客が入ってくる。瓊華の舞台目的ではなく、酒や料理を楽しむためだろう。

「私はこの二つの問題を抱えて、迷っているのです。在唐一〇年と三〇歳を目前にしてあと一回の機会に賭けて進士に挑むか、諦めるか。それと、こちらも来年三〇歳を迎えるにあたって、結婚をどうするか。独身を貫き、故郷に戻ってからにするか。こちらで良き相手を探すか。どうしたら良いと思いますか?」

 一瞬考える瓊華。葡萄酒の酔いが少し回ったのか、透明感のある白い頬が、わずかに赤く色づいている。

「あと一回機会があるなら、諦めずに受けたら良いのではないでしょうか。試験が行われる秋まで半年、一生懸命勉強すれば及第の芽はあります。諦めないことです。妾だって、故郷に帰ることができる可能性が少しでも残っている限り、諦めてはいませんし」

「やっぱり、努力を継続すべきでしょうか」

「ご結婚に関しては……もし真成さまに好きな方がいらっしゃるのでしたら、一緒になるのも良いのではありませんか。日本から来られた他の方も、こちらで結婚しておられるのでしょう?」

「はい。同僚の出世頭などは、張子寿大夫の三女殿と結婚しましたし」

「張子寿大夫とは、張九齢さまのことでしたか。神味超逸の詩人の」

「はい。張大夫は官吏として栄達しておられるから、そちらの方が著名だと思っていたのですが、やはり瓊華さんの見る目は、あくまでも詩人としてなのですね」

 詩に関することならば瓊華の知識は、進士に向けて勉強をしている真成も舌を巻くほど豊富だ。

「同僚が、家柄が良いこともあって太学に入って五年で進士及第しました。私だって、彼ほどの才知ではないにせよ、時間を費やし努力すれば進士に及第する可能性があると考えたのです。しかし四書五経を覚える勉強だけならまだしも、自分が詩を作るというのは持って生まれた素質も必要で荷が重いです。どうすれば良いのでしょう」

 瓊華はそれについては返答はせず、長い睫毛を煌めかせるようにして瞬きしただけだった。

 再び会話が止まった。瓊華も、真成も、故郷を離れて長安に至った経緯を話し終えた。起きていれば賑やかなはずの小環は、今は夢の住人だ。踊りについて教えてほしいと言っていたのに、このへんが小童だ。

「もう、手のかかる子ですわ。妾は小環を連れて帰るので、本日はこれで失礼します。よろしければ、またここへ観に来てください。真成さまは妹の恩人で、異国出身である妾と境遇が似ているので親近感を覚えますわ」

 瓊華は普段着の胡服に着替えてから、幼い妹を背負い、酒肆を出た。空を舞う蝙蝠の群れと共に家路につく。

 見送った真成は甘い溜息を吐いて、胸に手を当てた。


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