絲綢之路、旅程未だ半ばなり

kanegon

第1話 長安の春

 長安の都には、酔う程に牡丹の香りが漂っていた。

 長くない顎髭を撫でながら、真成は春風駘蕩とした長安の通りを彷徨っていた。

 唐の六代目皇帝である玄宗の開元一五年。西暦紀元でいえばAD七二七年にあたる。

 真成は朝から自棄飲みをしていた。今年もまた大勝負に失敗したので、飲まずにはいられない。

 泥酔できぬまま、真成はほろ酔いで街を散策していた。日輪は南の大雁塔の真上を通り過ぎた辺りだ。

 詩人駱賓王が「山河千里の国 城闕九重の門 皇居の壮なるを観ずんば 安んぞ天子の尊きを知らん」と詠んだ長安は、失意の真成をよそに殷賑繁華を極めている。

 今年中に決着せねばならぬ問題が真成の傷心の脳裡に思い浮かぶ。来年は齢三〇の路に入ってしまう事実。一時でも嫌なことを忘れたくて飲んだのに泥酔できなかった。

 雪の如く真っ白な馬に跨り巡邏中の金吾衛の兵士が、哀れな酔客に一瞥だけを残して通り過ぎて行く。この時期には、真成だけではなく、昼間から酔い潰れている若者も多いのだ。

 昨日、今年の進士及第者の名前を揚げた竜虎榜が出された。本名の面影を残しつつも漢人らしい名はそこに無く、大雁塔に自らの名を記すことはできなかった。

 向かい風が吹く。真成の脇をすり抜けて流れ行く。

 その風に乗って甲高い狂騒的な声が耳に入ってきた。

 そちらに目を向ける真成。八歳か九歳くらいの童女一人が、むさくるしい男三人相手に口論している。男の一人は太っていて顔中髭だらけで、一人は背が高くて髭が無い。もう一人は両者の中間でこれといった特徴が無い。

 言い争いは始まったばかりなのか、まだ周囲の人は誰も気づいていない。

「あの三人の方が私よりも溺れているな」

 三人の男達はかなり酔っているらしい。少し離れた場所に立つ真成の所まで、熟柿臭さが漂ってくる。三人とも呂律が回っていない。唐で生まれ育ったわけではない真成の方が明瞭な発音ができている。真っ昼間からみっともない程の泥酔っぷりだが、今の真成には寧ろ彼ら三名が羨ましいくらいだった。

 童女は、あと一〇年もすれば、胸や腰などにまろみを帯びて豊満な美女になりそうな雰囲気を漂わせていた。長い緑の黒髪は、真夏の夜空に帯となって横たわる銀漢のように煌めきに満ちている。

 一〇〇万人も人間が犇めいていれば、諍いは必ず起こる。気にしてはいられない。自分のことで精一杯な真成だ。見て見ぬふりをして通り過ぎようとした時だ。

 突如。童女が「父上!」と叫んだ。

 近くに童女の父がいたのか、と一瞬思った真成。だが、童女は真成の濃緑色の衫袖を掴んで、潤んだ瞳で真成を見上げている。

「え?」

 真成は三〇歳目前にして独身を貫いていて、子はいない。

「なんら、おめぇ。この子の、父親ぁ、なのがぁ?」

 童女に引きずり込まれて、揉め事に巻き込まれてしまったらしい。

 状況を素早く理解し、どう対処するか考える。

 暴力沙汰に発展するのは良くない。泥酔者とはいえ三対一では不利だし、相手は懐に小刀くらいの武器は隠し持っているかもしれない。

「ついて来い!」

 真成は童女の手を掴むと、駆けだした。反応が遅れた三人の酔漢たちが「待てぇぃ。待つんら!」と叫びつつ追いかけてきた。呂律が回っていない。

 往来の人々を右に左に避けて走る。握った童女の掌が汗ばんでいるのが感じられる。

 交差点に出る。坊の墻壁沿いの溝に従って左折する。長安の街は真っ直ぐな街路が縦横に走っている。真っ直ぐ進んでいては、相手の視界から逃れて振り切れない。

「はぁ、はぁ、はぁ……」

 童女の手を握る真成の息が荒くなっていた。

 今年二九歳。勉強ばかりで運動は不足がち。もう若くはないと思い知る。

 童女の方が持久力に恵まれているらしい。さほど息も切らさずに遅れずに走っている。恐らく真成を巻き込まなくても童女一人で走って逃げることができたはずだ。真成の巻き込まれ損だ。

 酔いどれ達の声はもう聞こえない。振り返っても三人の姿は見当たらない。あっさり逃げ切ったようだ。進士という万里の長城以上に堅固な壁に比べたら、笑ってしまうほどに鎧袖一触の成功だ。

 それでも念のため、ほとぼりが冷めるまで三人に見つからない隠れ場所がほしい。

「ちょっと。いつまで手を握っているのよ。なれなれしいわね」

「あ、す、すみません」

 自分より二〇歳ほど年下の童女にきつい口調で言われ、思わず頭を下げて丁重な言葉で返してしまった。手を放しても、南海の真珠さながらの肌の滑らかさと温もりが、真成の掌に残っていた。

「ねぇちょっと聞いてよ。私、あの太った男に『太ったくまーっ!』と本当のことを言ってやったのよ。そしたら連中、なぜか激怒しちゃって」

 確かに太った男は熊のような容貌だった。だが畜生に例えて馬鹿にすれば、怒って当然だ。ましてや相手が生意気な童女だったら尚更だ。

「そうそう、私、瓊姉に会いに行くんだった。どうも上手く行かないから、今すぐ私の踊りを見て助言してほしいのよ。でも私みたいな美女は、また変な男に絡まれるかもしれないから、あんた、護衛として一緒について来ていいわよ」

 無理はあっても道理は無い物言いだった。幼いので美女というよりは美童女だし、先刻の事例は男に絡まれたのではなく自分から絡んだのだ。出会ったばかりの真成には、名も知らぬ童女の命令を聞く筋合いは無い。が、気になる部分があった。

「姉に会いに行くのか?」

「そうよ。瓊華姉上。私にとっては歌や踊りの師匠みたいな存在よ」

 この童女の姉ならば、さぞかし美人であろう。

 昼間であっても広大な長安の街を童女に一人歩きをさせるのも気が引けるし、美人の姉を一目見てみたいという興味本位の気持ちが勝った。護衛という役割を引き受けることにした。

「こっちよ」

 今度は童女が真成の手を握り、引っ張った。



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