第2話 夏休みの出来事

 夏休みもお盆が来ると、もう半分は過ぎたんだな。と思ってしまう。毎年の事ではあるが早いものだ。

 僕はそんなことを考えながら、椅子に座ったままの姿勢で大きく伸びをする。

 だいぶ体がなまっているようだ。休みの間はほとんど、というより一度も運動していないことに気づく。

「ちょっとは体でも動かすか……」

 独りごちた僕はそう決意すると、重い体をなんとか椅子から引き離した。


 高校三年になると部活はもう引退だ。体を動かす機会はほとんどなくなる。バスケ部に所属していた僕は毎日部活に出ていた。レギュラーにはなれず補欠だったけど、バスケが好きだったからそれでも楽しかった。去年の夏休みも、お盆以外はほとんど部活に行っていたような——気がする。

 それが今年はない。体がなまるのも仕方がない——とは思ったものの。運動しようと思えばできるのだから、やはり言い訳にしかならないか。


 部屋から出て階段を降りる。

「ちょっと出かけてくるよ」

 キッチンに誰かいるようだったので一言声をかける。もうすぐお昼になる時間だった。母さんでもいるのだろう。返事はなかったが別にいい。黙って出かけたところで何も文句は言われないだろう。もう子供ではないのだから。

「行ってきます」

 それでも玄関を出るときにまた、僕は一声かけて外へと出た。


 夏の日差しが容赦なく照り付ける。その辺をランニングでもしようかと思っていたのだが、この暑さにさっそく決意が揺らぐ。

 散歩するだけにしよう。

 歩くのも運動になるからなと、都合のいい言い訳を思い浮かべ、僕はその辺をぶらつくことにした。


 見慣れた住宅地が続く。いつもの通学路なので当たり前なのだが、なぜか懐かしいような——そんな感じがする。ついこの間まで毎日のように見ていた景色なのだが……。

 僕も感傷に浸れような歳になったのかな。——と、特に気にすることもなく、僕はそれ以上深く考えることをやめた。


 緩やかな下り坂が続く。通学の時は自転車でこの先の大通りまで一気に駆け抜けることができた。その分帰りは立ちこぎ確定だったのだが……。

 部活帰りの疲れた体にはこたえたが、いい追加練習になっていたと思う。


 大通りには十分ほどで着いた。交通量はあまり多くない道だが、お盆期間の今はけっこう車が多い。

 ここから右に行けば商店街、左に行くと僕がいつも利用する駅方面に行ける。


 特に考えることもなく、僕の足は駅の方へと向かった。いつもの習慣というやつだろう。


 やがて目の前にちょっとした交差点が見えてくる。そこの横断歩道を渡り大通りを横切るのが、僕のいつもの通学路だ。歩行者信号は赤になっていた。

 ふと信号機の根元部分に何かがあるのが見えた。——花が咲いている? 初めはそう思った僕だったが、違った。一輪の花が花瓶の様なものに入れられてそこに置かれていた。いや、正確にはそこに供えられていた。といった方がいいだろう。


 その瞬間、体中がざわついた。寒気とは違う感覚。なんだろう……あそこで何か?

 いったいなんなのだろう。

 わからないがこれ以上行く気にはなれない。気分も悪くなってきた。もしかすると熱中症にでもなってしまったのか?

 散歩とはいえ炎天下のなかを動き回るのはよくなかったのかもしれない。おまけに外に出たのも終業式以来だ。思ったよりも体がなまりすぎていたようだ。


 僕はその感覚を熱中症ということにして、家へと帰るため、元来た道を戻ることにした。



 翌日目が覚めたのはお昼ごろだった。カーテンの隙間から日差しが差し込んでいる。

 誰も起こしてくれなかったのか……

 いつもならとっくに母さんに起こされている時間だ。それとも起こされたことに気づかなかったのだろうか?


 ベッドから降りる。昨日は何時に寝たんだっけ? 寝起きの頭はボーっとしていた。

 カーテンを開けると、眩しい日の光が部屋中に広がった。思わず目を細める。

 とりあえず顔でも洗ってすっきりしよう。


 部屋を出て一階へと降りる。やけに静かだ。人の気配がしない。誰もいないのだろうか?

 廊下の奥のキッチンに向かう。いつもならこの時間には、母さんがお昼の準備をしているはずだ。しかし、そこに母さんの姿はない。リビングにも誰もいない。父さんもお盆で仕事は休みのはずだ。弟の姿もない。

 まさかみんなで出かけたのか?

そんなことがあるだろうか。いくら寝坊しているとはいえ僕だけおいていくなんて。そもそもどこかに出かける話など聞いていなかった。


 リビングを出て玄関へと向かう。玄関には誰の靴も残っていない。やはりみんなで出かけてしまったらしい。

「なんだよ。ふざけんなよ!」

 悪態が口をついて出てしまう。

 しかし、いまさら文句を言ったところでどうにもなるわけではない。あきらめた僕は、何か食べようとキッチンへ向かおうとした。そこでふと気が付く。廊下の左側に和室があった事を……。

 そういえばじいちゃんとばあちゃんの部屋だったな……。


 和室は六畳間の小さな部屋で、障子戸で廊下と仕切られていた。

 小さい頃はよくこの部屋で遊んでいたっけ。じいちゃんは僕が小学生の時。ばあちゃんは中学生の時に亡くなっていた。それ以降はこの部屋に入ることなほとんどなくなってしまった。今では仏壇の置かれた仏間となっている。

 なぜ急にこの部屋が気になったのだろう。


 ——そこで、またあの感覚。体中がざわついた。一体どうしたというのだろう。あきらかに熱中症ではない。今度はなにかとても嫌な予感……というか嫌な感じがする。本能的にこの部屋に入ってはいけない、近づいてはいけない——と、頭が警告する。


 わけが分らず僕は、障子戸の前で立ち尽くした。

 なぜこんなことを感じるのだろう。ただの部屋じゃないか、何度も入ったことのある自分の家の部屋だ。

 しかし、僕の頭は警告する。絶対に入るなと。

 なぜなんだ? この部屋に何があるというんだ? 

 

 しばらく僕はその場に動けずにいた——が、僕の手が障子戸に触れる。開けるな! と、僕の頭が警告する。開けてしまうと何かとても嫌なことを思い出してしまうようで……。しかし、開けなければ——という思いも同時に湧いてくる。僕の心臓は早鐘のように脈打ち、額には汗がにじみだした。見てしまったら……それを見てしまったら……僕は……。


 ——はたして僕は、障子戸を思い切り開け放った。


 中は普通の和室だった。どこにでもある普通の部屋だ。明り取りの窓から差し込む光が室内をやさしく照らし出している。

 僕は一歩、部屋の中に足を踏み入れた。

 別段変わったことはない。

 気がつくと、あの感覚も嫌な感じもなくなっていた。激しい動悸もおさまっている。

 

 部屋の中央で立ち止まる。ほんのりと線香の香りがした。顔を向けた先に仏壇が置かれている。見てはいけない。と思ったが僕は、その仏壇に近づいていった。

 線香立てに燃え尽きた線香が数本残っている。香りの元はこれだろう。その上に視線を向ける。じいちゃんとばあちゃんの遺影……そして——。


 ……ああ、そうか……僕は。

 見てはいけないものはこれだったのか……。

 じいちゃんとばあちゃんの遺影に並び、そこにあったのは……だった。


 その瞬間、すべてを思い出した。いや、思い出したわけではない。僕は最初から知っていたはずだ。自分が死んでしまっていることに……。そのことを考えたくなくて、僕は無理やり忘れているふりをしていた。


 去年の夏。僕は死んでしまった。

 夏休みになったばかりのあの日。

 部活に向かう途中。自転車に乗って、あの交差点で……。


 信号機のところにあったあの花は、僕の家族が僕にお供えした花だった……。


 ——お盆には、亡くなったご先祖様や家族が、あの世からこの世に戻ってくるという。僕は全然信じていなかったのだが、まさが自分が当事者になるとは……。


 僕は戻ってきたんだね。

 これは信じるしかなさそうだ。

 そんなことを考えていると、ふと思う。じいちゃんとばあちゃんも戻ってきてるのかな。


 そう思った時だった。不意に漂ってきた線香の香りに後ろを振り返る。

 驚きはしなかった。

 そこにいたのは、僕がまだ小学生だったころのじいちゃんと、中学生だったころのばあちゃんが、ニコニコと微笑みながら僕を見ていた。


 懐かしさに泣きそうになりながら僕は二人に近づいた。

 じいちゃんとばあちゃんは、うんうん。と、笑顔でうなずく。

 言葉を交わさずともわかっている。

「うん、帰ろう」

 僕は言った。


 ——お盆が終われば、この世からあの世に帰らなければならない。

 また来年。戻ってくるよ。



 誰もいないその部屋は、まるで時が止まったかのように静寂に包まれていた。寂しくなんかない。僕はまた、戻ってこられるのだから……。やさしい光で満ち溢れた。この部屋に……。

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