第3話

「ご苦労さん。悪いな、こんな遅い時間に」

 明るい口調で話す男性の声が聞こえる。こんな時間にもかかわらず、疲れを微塵も感じさせない。その声に少しだけ安心感を抱く。

「お疲れ様です。大丈夫です。先ほどは電話に出ることができず、申し訳ありませんでした」

 丁寧に返事をする。

「いやいや。こっちこそ悪い。急な出張を頼んだ俺のせいだ。それに社用車も今日は使ってもらうことができなかった。申し訳ない。ところで、今も高速か?」

「謝らないでください社長。大丈夫です。今はパーキングにいます」

 社長の謝罪に見えるはずもないのに、手を横に振ってしまう。それでもせずにはいられなかった。

「それならよかった。遅くなることはわかっていたが、無事を確認できてよかった。今日の出張分の経費は後日出社した時に提出をしてくれ。高速とガソリン代になるが、出させてもらう。動いてくれたおかげで、先方からも感謝の連絡が来ている。本当にありがとう」

 社長の申し出はありがたかった。

 今日の突然の出張が、全て自分持ちになるとかなりの出費になる。なにせ県を二つ、いやしばらくの間だけ入った県も含めれば三つも通っている。決して安くはない料金となかなか下がらないガソリン代の両方が経費として認めてもらえるのは本当に助かる。

 それに先方が喜んでくれているというのも嬉しかった。車を飛ばしただけのことはあるというものだ。

「ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきます」

「ああ、そうしてくれ。だが、くれぐれも気をつけて帰ってきてくれ。何かあって受け取れないということになったら、キミの親御さんに顔向けできない」

 社長の言葉で、再び母のことが思い浮かんだ。

 今の母は以前とはかなり違っている。年を取ったといえばその通りなのだが……。

「お母さんは今も家でお一人だろう? キミに何かあってはお母さんは生活に困ってしまう。確か、足が悪いといっていただろう? だから、気をつけて帰ってほしい」

 つくづく社長は家の事情を理解していくれていると感じた。

 以前、社長には足が悪い母がいることを伝えていた。その母のことも気づかってくれること、それも嬉しく思えるものだった。

「ありがとうございます。気をつけて帰ります」

 社長が、よろしく、といって通話を切る。通話終了と表示されたスマホの画面を見ながら、ぼんやりとしていたことに気づく。

「ふあぁぁ」

 気が抜けたのか、あくびが溢れるように出てくる。スマホを持ったままエンジンをかけっぱなしでライトをつけたままの車を降り、光を放つ自販機の方へと向かう。

 日付が変わったせいか、あるいは人がいないからか。肌寒く感じるパーキングエリアの中を足早に進んでいく。自販機の向こうには光は見えず、何本もの木が並んで立っていることだけがわかる。しかし、その暗闇は深く、灯りらしいものは自販機とトイレ以外はまったくなかった。

 自販機の前にたどり着き、コーヒーを探す。できればホットがあればいいが、冷たいものでもいい。眠気を覚ますだけなのだから、とりあえずコーヒーが飲めればいい。自販機のラインナップは三段にわかれていた。上からペットボトル、二段目に小さなペットボトルと缶ジュース、一番下の段がコーヒーになっていた。

「これにするか」

 スマホ決済が可能な自販機だったらしく、読み取り装置がつけられていた。スマホを決済画面に操作し、装置へと近づける。短く軽快な音楽が響き、自販機の押しボタンが点灯する。その中の一つを押すと、取り出し口に何かが落ちる音がした。

 取り出し口に手を突っ込み、中に落ちたものを取り出す。目的のものを取り出す。ひんやりとした感触の缶コーヒー。ボトルキャップタイプのもの。その場でキャップを回し、缶を開ける。コーヒーの香りが立ち上るが、それを楽しむこともせず口の中にいれる。鈍った感覚を叩き起こすように、冷えたコーヒーが体の中に入り込んでくる感覚に襲われる。頭の中に溜まっていたはずの眠気が洗い流されていく。

 半分ほど飲んでキャップを閉める。ここで飲み干してしまって、途中で眠気に襲われたり、トイレに行きたくなっても高速の中では簡単に車を止めることもできないからだ。

 車の方へと戻ろうとする。風がふいた。夜の風は冷たく、ヘッドライトで照らされた木々を大きく揺らしている。誰もいない駐車場でぼんやりと浮かび上がるようにして揺れるその木を見ていると、寒気のようなものも感じて仕方がなかった。まるで木々が手招きして呼んでいるようにも思えてならなかった。きっと冷えたコーヒーを飲んだからだ。眠気覚ましにはなっても、余計なものまで感じるようなことをするつもりはない。

 煌々と光る車の方へと戻る。急に酷使した軽の自家用車だったが、洗車をして出たからか、いつもよりもライトの光が強く感じる。汚れがすっきりと落ちた証拠だろう。そう感じながら、ふと愛車の周りを回ってみる。洗車されていても、夜間の高速を走ったためにいろいろなところに小さな虫がくっついている。

「って、おいおい。洗車したのにまだあんのか?」

 見つけたのは手形だった。助手席側のボディにいくつも手の跡があった。ものによってはつながってまるで伸びたようになっている手形もある。

 いつも母が車をつたって歩いているのは知っていた。足が悪いから家の中でも家具と壁とかに手をついて歩いている。時にはつかまるとかえって動いてしまうようなものにもつかまることがあり、その時には転んでしまうこともみられている。幸か不幸か家の中で転んでも大けがにはつながってはいない。

 車の後部のほうへと移動する。バックドアのマフラーの近くにへこみがあり、マフラーも少し変形している。このへこみができた時のことは今もはっきりと覚えている。あの時いったい何がおこったのか、すぐに理解することはできなかった。

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