アタランテvsヨハン・ゲオルク・ファウスト 4

 王は後継ぎを求めていた。

 だが王妃が生んだ子は女児であったため、王は我が子を山に捨てた。

 食い殺されるが先か。凍えて死ぬが先か。どちらにしても死という結末しかなかった女児の元に現れた一頭の雌熊が、女児に自身の母乳を与え、狩人に殺された我が子の代わりに育てた。

 だが狩人らは遂に雌熊の命さえ奪い、女児まで奪い取った。

 以降、狩人らによって育てられた子はアタランテと名付けられ、狩人の女神アルテミスを信仰して彼女の在り方に倣って生きた――本当に?

 雌熊が射殺された時、幼き女児は全てを見ていた。

 自分達を追い立てる狩人達。問答無用で矢を放ち、追い詰められていった先、女児を守る様に自らの体を盾にして守ってくれた雌熊の最期。その時の断末魔を。

 ヘラヘラと笑う狩人らが自分の存在に驚いて、自分が熊に食い殺される寸前で助けられて良かったなどと言っている様を。

 何を言っている。

 馬鹿か阿呆かこいつらは。

 母が一体、誰から私を守ってくれたと思っているのか。

 沸点を超えるには充分だった。何人いたか数えてなかったが、自分達を取り囲む狩人らに、女児は兎が如く跳ね、狼が如く駆け抜け、猪が如き力で、熊のように殺した。

 首に噛み付いて食い殺し、弓を奪って矢を脚に突き立て、倒れた狩人の眉間に矢を突き立てて殺し、放たれた矢を躱して股間を蹴り上げ、股を押さえながら悶絶する喉に矢を突き立てて殺し、棍棒を振り回して襲い掛かって来た奴には、叩き付けられた棍棒の上を走って首に両脚を掛け、腰と胴を捻って首を一八〇度回して捻り殺した。

 全ての狩人を狩り殺して、女児は母に縋り、泣いた。

 声を押し殺して泣いていると、背後に気配を感じられて。

「その熊のために、戦ってくれたの?」

 泣きじゃくりながら、女児は頷く。

 そうかと返した手は女児の頭を撫でてくれ、それがまた女児の涙腺を刺激した。相手が誰かもわからぬまま、女児は誰かに抱き着き、泣き続ける。

 誰かは少女を抱き上げ、自分の胸の中に顔を埋める女児の頭を撫で、優しく抱擁した。

「どうやら、他に行く所がないみたいね……では、私が面倒を見ましょう。狩人の咎は私の咎。今日から女神アルテミスが、あなたの母です」

 母を仕留めた野蛮な狩人ではなく、狩猟の女神に育てられた女児は、後にアタランテと名付けられた。その時に、約束したのだ。

「もしもあなたが私と同じ純潔を守り抜き、誰とも交わらぬ誓いを立てると言うのなら、あなたに私と、我が兄アポロンの加護を授けましょう」

「……うぅ」

「フフ、まずは言葉から教えなければいけませんね」

 最初の母に捨てられ、第二の雌熊ははに育てられ、第三の女神ははによって世界の仕組みを教えられて、女狩人アタランテは生まれた。

 常人離れの駿足を鳴らし、人も獣も逃さない。

 並の女性より屈強な体躯は男にも力負けせず、中性的な美貌は男女問わず人々を魅了した。

 彼女の心を射止めようと多くの男が挑み、死んで逝った。最後には不正をさせてようやく手に入れさせたと言うが、それもまた確証はない。

「たかだかリンゴ三つ程度で、我が誓いを奪えるものか」

 好物のリンゴを抱え、齧るアタランテは男を見下ろす。

 女神アフロディーテより授かった黄金のリンゴを齧る姿もまた凛として美しかったものの、次に待ち受けている己の末路を考えれば、見惚れてなどいられなかった。

 すぐさま逃げようとするが、どんな体勢からも、アタランテは獲物を逃がさない。

 完全武装で重かろうが、数秒後から走り出そうが、彼女は如何なる状況下でも必ず相手を追い抜き、その頭を穿って来た狩人だったのだから。

「待ってくれ……!」

 男を殺そうとすると、島の長が駆けて来た。

 よろめきながらも辛うじてアタランテの目の前に跪いた彼は、深々と土下座した。

「これ以上、男達を殺さないでくれ……! このままでは、この島から男がいなくなってしまう……! 何卒、何卒頼む……!」

 非力な男はただただ頭を下げる。

 が、アタランテは男の首を抱えてへし折り、下顎を持って首を引き千切った。

「ではこうしよう。これが最後の首だ。私はゼウス様の下へ赴き、獅子にでも変えて貰う。それでも私を手に入れたくば来るがいい! 私は誰の挑戦だろうと受け付けるとな!」

 こうして、アタランテは姿を消した。

 噂はそのまま伝播し、何処かでアタランテが負けた事に変わり、ゼウスの下で失礼を働いて獅子に変えられたという逸話となってしまったが、彼女は気にも留めていない。

 何せその気にさえなれば、誰のどの首だろうと、逃す事はないのだから。

『アタランテが派手に被弾! 誰がこの状況を想像出来ただろうか! 今までまともにダメージを受けた事の無かった駿足の狩人が、片膝を突かされているぅっ!!!』

「……そうか。反射か」

その通りさコレクト・アントワート。この数秒でよくぞ導き出したと、素直に褒めておこう。だがしかしアバー・アバー……それでどうする。反射神経なんて介入しようのないものに、君が出来る事などあるのか? あるはずがない。私自身困っているんだ。これではますます、神だの悪魔だのを信じてしまう輩が増えてしまうから!」

 繰り出された蹴りを腹で受けず、間に入れた手で受ける。

 だが体はずっと高く蹴り上げられ、飛翔距離を見たファウストの体が反射的に肉薄。矢を得物に繰り出して来た刺突をまた反射で躱し、アタランテの腹の中央に両手の刃を突き立てた。

 が、刺さらない。手応えがない。

 見ると両手のガントレットから伸びる糸が両刃の先端に絡まり、アタランテに辛うじて刺さらない紙一重手前で止めていた。

 更に体を捻って刃を躱し、ファウストの背後を取ったアタランテは両腕を絡め、ファウストの首を絞め始めた。

 共に立っている足場はない。跳躍時の跳躍力も失われて、共にただただ落下していく。

「まさか……このまま共に自由落下かい? そんな粗末な……っ!」

「粗末で結構。戦いに綺麗も汚いもあるものか。あるのは結果。狩ったか狩られたかだ!」

 凄い力で締め付けられる。

 厳しい環境で育ち、レスリングでも男相手に負けなかったと言われるだけの筋力は伊達ではない。これでは確かに、反射のしようもないが――ならば、他の手段を取るだけの事。

 アタランテのガントレットを掴み取り、握り締め、屈強なまでに膨れ上がらせたファウストの腕と手がガントレットを握り砕き、更にアタランテの腕をも潰そうとした。

 そこまで来て、共に落下。

 地面に叩き付けられた二人は別の方向へ吹き飛び、倒れ伏す。

 暫く両者は動かなかったが、アタランテの悲鳴じみた絶叫が響き渡った。

 見ると、地面と衝突する直前までファウストに絞められていたガントレットが割れ、両腕が握り潰されていた。一部骨まで見えている個所があり、観客席からも悲鳴が上がった。

 対して、ファウストは鼻血を噴いていたものの、ゆっくりながらしっかりと立ち上がった。

 片方の鼻を押さえて鼻血を噴き出し、呼吸を確保してケタケタと笑う。

「意識はあるかな? 咄嗟に頭を守ったようだね。お陰で、私も反射的に頭を守る事が出来たよ。しかし、もうその腕では矢は撃てまい。そも、数ある武器の中から弓矢を取るとは、君は本当に滑稽だね。狩猟の女神と弓の神より加護を受け取ったからと、

 アタランテが立ち上がろうとしたのを見て、反射的に体が動く。

 アステリオスや弁慶にも匹敵するほど太くなった右腕を振り下ろし、叩き付けた。

 決まった――誰もがそう思ってしまった中で、手応えの無さからファウストだけが舌を打つ。見上げると、アタランテが自らを丸めて跳び上がり、浮遊する瓦礫の上に着地。砕け散るガントレットを見下ろし、異形に曲げられて震える事も出来なくなった両腕を見つめ、深々と胸の中の空気を吐き尽くした。

「そうだな……確かに、私は囚われ過ぎていたのやもしれない。狩猟の女神より賜った狩りの技術。太陽の神より授かった弓の技術。この二つで以て、今までの私は最強だった。が……おまえ相手に、最強では不足らしい……!」

「なら、どうする? 君に、手段があるか」

「確かにキツい……が、それだけだ」

 曰く、アフロディーテの悪戯により、ゼウスの神域で情事に励んだアタランテは雌の獅子に変えられた。

 その逸話からか、アタランテは転生した世界で獅子の獣人として第二の生を謳歌した。

 百獣の王と聞けば雄の獅子を想像するだろうが、だからと言って雌を侮ってはならない。群れの中で、狩りを行なうのは主に雌。そして、雄を負かす雌もいる。故に時と場合によって、百獣の王は雌に成り代わる。

『これは一体……! アタランテの姿が、金色に輝き始めた!!!』

 赫と蒼の異色双眸ヘテロクロミアが、揃って金色に変わる。

 ガントレットから生じていたと思われていた糸がアタランテの髪から伸びて、彼女の両腕を再構築。再生させ、力強く握らせる。

 両脚と胴が一回り大きく膨らみ、身長もまた五センチほど伸びる。

 臀部から生えた獅子の尾が揺らめき、二本の犬歯が鋭利に尖る。

 美しく伸びていた髪は柔らかさを帯びて、より獅子のたてがみを思わせる姿へと変貌を遂げて、アタランテは獅子の獣人と化した。

 誰にも、今まで見せた事の無い姿。だが、敢えて名付けるのなら――“獅子転身之業メタモルフォセス・リオン”。

「今度こそ見せよう……世界最速の力を……!」

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