アタランテvsヨハン・ゲオルク・ファウスト 2
奴は悪魔だ。
ドアの裏やベンチの下に聖書を置き、埃を被せる。占星術師であり、錬金術師である癖に、神学者と呼ばれる事を嫌い、医学者と称される事にこそ喜ぶのだから。
無神論者を超えて神仏否定者と呼ばた男は、悪魔と呼ばれていた。
「ファウスト。みんながおまえを悪魔と呼ぶぞ? 何の反論もないのかい?」
ある時、数少ない友人の一人が訊ねた。
彼もまた、十字を切って神を信じる一人だった。ドイツを含め、当時は何処の国も何者かを神として崇め、信じ、崇拝している時代。
その中で無神論者はもちろん、神を否定する行ないや考えを持つ人間は、巷間から切り離されて生きる事を強いられていた。
が、当時のファウストはといえば。
「俺が悪魔?
と、あくまで医学的に話すだけだった。
嘘は言っていない。
アスクレピオスが不死の霊薬を完成させた時、雷霆を放って殺してまで、人が不老不死になる事を恐れたと言うのなら、せめて神の体がどうやって不老不死を成し得ているのか、解剖の一度や二度、させてくれてもいいはずだ。
親はペットを飼いたいという子供に、ちゃんと面倒を看るのよと言うけれど、ならば神だって人間の面倒を看るべき義務があるはず。
もしも本当に神という存在がいて、彼らによって人間が創造されたという妄言を信じるのならばの話だが。
「君は例えホームレスになっても、教会の配給には並ばないだろうね」
「並ぶには並ぶよ。教会が配給してくれないだけさ。悪魔にも神様にも生贄は捧げる癖して、本当にいい性格してるよ、聖職者って言うのは」
「その言葉、間違っても街中では言わない事だ。君だっていつも言ってるだろ? 此の世で最も恐ろしいのは、神様でも悪魔でもない。それらを騙る、人間だと」
人は言う。
もしその身に不幸が起こったのなら、それは神の齎した乗り越えるべき障害なのだと。
もしその身が乗り越えられない不幸が襲ったのなら、それは悪魔の齎した災厄なのだと。
馬鹿馬鹿しい。
幸運も不幸も単なる出来事だ。その出来事が幸運か不幸かどちらで捉えるかは、神でも悪魔でもなく体験した自分自身ならば、神の齎した障害も悪魔の齎した絶望も、結局は人間が勝手な妄想が生み出した虚像に過ぎない。
そうした人々の勝手な想像を神の試練ないし、悪魔の悪戯だと囁き、救いを求めるのならば進行しろと騙る人間をこそ、男は蔑んでいた。
「しっく、しっく、しっく……いいさ。いずれこの俺が実証してみせる。此の世には神も悪魔も無い。此の世における聖も、善も、悪も、等しくそれは、俺達人という害悪なのだと」
と言って実証しようとした結果、運悪く悪魔を召喚してしまった訳だが。
これも人間の性か。
「だから、神様なんていないって。それを今から、証明しよう」
アタランテは弦を弾く。
右手の中に溜めた光を矢に変えて、ファウスト目掛けて解き放つが、鋏を支えに棒高跳びの要領で跳び越えられ、再度指で指された。
「始めに言っておこう! この鋏に異能はない! 異世界とはいえ、凡人の鍛冶師が鍛えて作ったただ大きいだけの鋏だ!」
「――?!」
『こ、これは……?!』
手の内を晒して来た。
と思わせた次の瞬間、ファウストはだが、と切り返す。
「もしもこの鋏が、仮にも神に通ずる者を斬ったとすれば? 果たしてそれは、この鋏が特殊な鋏である事の証明か! それとも神に通ずる者などいないという証明か! さぁ、考えろ。そして、実行しろ! しっく、しくしく!!!」
アタランテほどの速度はない。
が、身体能力はさすがに転生者とだけあって、アタランテよりも高い位置を浮かぶ瓦礫に乗ってみせた。
「弓程度、上を取ったなら躱すも易いか。己惚れるなよ。人と神の間に生まれた半神は、神の加護無しに、太陽さえも落としたのだから!」
右手に掴んだ矢の数は三本。
アニメやコミックではよくあるが、三本同時に矢を放つなんてのは、基本的に到底無理な芸当だが、アタランテは軽々とやってのける。
が、三本同時に放たれた矢は真っ直ぐに突き進み、悉く、ファウストの側を通過した。
言う必要さえない事だが、敢えて言おう。アタランテが外したのではない。脚、左胸、眉間を順に穿つはずだった矢を、ファウストが完璧に躱したのである。
「何を言うかと思えば、当たり前の事だ。太陽は落ちる。そうして夜はやって来るのだから」
「今、何をした」
「見た通りだが? 何かおかしいかね?」
アタランテのガントレットから、光の散弾が放たれる。
しかしそれらはファウストではなくアタランテの頭上へと飛び、矢の形に変形した順に落下。アタランテの手に収まって矢筈にかけられた次の瞬間には、ファウスト目掛けて放たれていた。それを高速で、ノンストップで繰り返す。
曰く――“
『アタランテ! 立て続けに放つ矢の嵐にて、ファウストを攻め続ける! が、ファウストも躱す躱す躱す、躱し続ける! わずかな動きで、しかし確実に躱している!!!』
数で押すだけでは仕留めきれない。ならば――
アタランテは駆け、跳ぶ。浮遊する瓦礫の間を飛び交い、ファウストの周囲を駆け抜けながら放った矢は、歴史上最速のアタランテの脚を以てして、ほぼ同時にファウストへと向かって行く。躱す隙間など、ない。
――“
ずれはわずかコンマ数秒。一秒の中に四本から五本が同時に、多方向から襲い来る。
忙しなく目を動かしたファウストは何を思ったのか、その場で重心を後ろに傾けて踵だけを付けた状態になると、鋏を回転させながら真上に投げ、自身の目の前で拘束で回転させた。
するとどうだ。
鋏が最初に弾いた矢が起点となって次々と他の矢を蹴散らし、回転する鋏と連鎖的に軌道を変えられていく矢とが協力して、全ての矢がファウストからそっぽを向いてしまったではないか。妙な体勢を維持するファウストのすぐ近くを、矢は素通りするばかり。
それがほんのわずかに起こったのだから、アタランテはもちろん、ファウストの行動を目で追えた者達は驚愕するしかなく、他の者は何が起こったのか理解する事さえ出来なかった。
回っていた鋏を取って、ファウストは煽る様に背を仰け反らせる。
「聞き間違いかな。太陽さえも落とした? 違う。太陽は時間によって落ちたのだ。それ即ち、人の時代を指し示さんと」
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