まっぴらごめんだ

 ジルは無言で手元の茶をすすった。王の云ったことの意味はわかった。わかったが、すぐにはその本当の意味は理解できなかった。

 長い沈黙の後、王は再び口を開いた。自分の云ったことが、伝わらなかったと思ったのかもしれない。

「そなたは私の兄であった、先王のひとり娘だ」

「……そんなはずは、ありません」

 ようやくジルは、答えた。

 誰の子であった……ということよりも、仮にその話が本当であるなら、眼前のハロルド王が叔父にあたるということに、どうやら自分はとまどっているようだ。無残に老い、病んだこの人物と自分の間に血のつながりがあるなど、まるで信じられない。

「あたしは捨て子でした。お師匠様に育てられました。ゾントなどという国は、これまで耳にしたこともありません」

「そなたをリーグに預けたのは私だ。そなたに出自を伝えぬと約定させた」

 ジルの拒絶にあって、王は弱々しげにつづける。

「……私の兄は、先代の王であった。英明なお方であったが、十六年前に不慮の事故で正妃ともどもお亡くなりになった。そなたは兄のたったひとりの忘れ形見だ。先王亡き後、私が王位を継いだ。やむを得ぬことだ。そなたはまだ一歳半の赤子であったから、国政などに携わることなどできぬ」

「それがなぜ、お師匠様に……?」

「……代替わりはしたが、先王の娘であるそなたを担ぎあげようとする不埒な者がいたからだ。赤子であったそなたをだ……そなたの存在は政争の道具となりかねなかった、場合によっては命の危険もあった……そこで、そのころゾントに滞在をしていたリーグへ、そなたを託した。身の危険があるので、ゾントへは決して近づかぬように約定させてな……」

 ところどころつかえながら説明をする王。

「その不慮の事故とは……?」

 ジルの問いに、王はじっと硬い眼で彼女を見すえた。

「それは少々こみいった話だ……そなたには辛い話だぞ」

「構いませぬ」

「……先王を、兄を弑するたくらみがあった。王の館もその際、一度焼け落ちた」

 館へ入る前、妙に新しいと感じたことを憶いだした。イーステジアでは数代にわたって土地に根付き、住まう館も二百年も三百年もたつものも少なくない。

「私が王となり、ようやく国は落ち着いた……兄夫婦の犠牲があってこそだ。しかしまつりごとの世界は、いつ何が起きるかわからぬ。ここ十六年の間、私の心労たるや……まして今、このように病で床についてしまった……」

 そこまで話をしたハロルド王は、深く嘆息した。額に脂汗が浮かび、大きく肩で息をしていた。

 しかしジルは、王の話を聞いてもしっくりとこなかった。どことなく腑に落ちない感じがつきまとう。

「それで……? 陛下はあたしにそのような話をお聞かせになって、どうしようとお思いなのですか?」

 ジルの問いに、ハロルド王は奇妙な表情となった。理解できていないジルをいぶかしむような表情だ。

「そなたは帰ってきたのだぞ、祖国に。為すべきことは決まっておる。王族のひとりとして、務めをはたしてもらう」

「務めとは?」

「王族のひとりとして、この国のまつりごとに参与せよ」

「何ですって?」

 思わず大きな声が出てしまった。

「そなたは私の息子と婚姻をしてもらうぞ。王族同士の結びつきにより、ゾントはより強固なものとなるだろう」

 ジルは呆れた。いきなり何を云うのだ、この王は?

「エッダ、よくぞ帰ってきた。そなたの不在を責めはせぬぞ。今までリーグの下で貧乏暮らしであったろう、これからは何の苦労もいらぬぞ。長き放浪の日々は終わりだ。これからはゾントのため生きよ」

「……エッダ?」

「そなたの名だ。二代目王の正妃の御名から頂戴した。ジルなど田舎娘のような呼び名はもう必要ない」

「あたしの名は、お師匠様からつけていただいたものです。エッダなどという名こそ不要です」

 ジルはむっとした。リーグからもらった名を田舎娘や必要ないなど、王にしてもあまりにも失礼だと思った

 驚愕はジルから去っていた。のこったのは、苛立ちだった。この王が語ることに、少しも共感できなかった。

「陛下、仮に陛下がおっしゃっていることが、真実であろうと、あたしには何の関わりもございません」

「……何だと?」

 ハロルド王は眼をむいた。

「あたしは“大地の騎士”と讃えられるリーグの弟子であり、それ以外の何者でもございません。あたしを育ててくれたのはお師匠様であり、陛下ではございません」

「そなたはゾントの王族だぞ、勝手なことなどできはせぬぞ!」

「勝手なことを、おっしゃっているのは陛下でございます。そのようなことを云われても、あたしには何の恩義もありません」

「そなたは……自分の産まれた国を見捨てると云うのか、ここゾントはそなたの国なのだぞ!」

「あたしの国ではない、あなたたちの国だ!」

 ジルも怒鳴りかえした。

「いきなり呼びよせて捕まえようとして、失敗したら猫なで声で、お前はこの国の王族だ、この国のために生きろなど勝手すぎる! この国がどうなろうと、あたしの知ったことじゃない!」

「……何?」

 ハロルド王の顔は怒りでどす黒く染まっていた。息は荒く、肩が大きく上下していた。まさかそのままぶっ倒れやしないだろうかと、ジルが一瞬心配になったほどであった。

「そなた……」

 ハロルド王はそれ以上言葉も出ない。ジルがこれほど怒り、拒絶するなどとは想像もしなかったのであろう。

 その様子に、ジルは心底うんざりした。

 リーグについて歩き回り、数多の土地を巡り、ときにはその土地を統べる立場の者とも出会い、言葉を交わしたこともある。しかしこれほどみっともなく身勝手な君主には、出会った記憶がない。

 そしてこれが自分と血がつながる叔父であると思えば、なおさら情けなく感じる。

 このような人物を王として崇めなければならないゾントの民に、同情したくなる。王の館にいたるまで眼にした、港町で忙しそうに立ち働く彼らの懸命な表情や汗びっしょりの身体を憶いかえす。

 不愉快そうな表情で黙りこくった王に背を向け、ジルは露台に出た。

 とたんに潮風が強くなった。ジルの亜麻色の短い前髪も揺れる。

 庭園を見下ろす。木立の先に、人の背丈よりもある館壁がめぐる。その彼方は岸壁であるので、その程度で充分なのであろう。塀ごしに鮮やかな海面が眼に入った。

 ジルの後姿をハロルド王は凝視しているのが感じられた。どのように説得しようかと頭の中で考えているのに違いない。

 ちらりと室内を見やったジルは、露台の手すりをひらりと跳びこえた。

 驚愕したハロルド王がよろよろと露台へ駆けよると、ジルはけがひとつなく降りたち、上階を見上げていた。

「……そなた!」

「まっぴらごめんでございます」

 幼児のようにジルが舌を出した。

 王があせって警護の兵士を呼ぶ。ジルは身を翻す。


* *  *


 騒ぎを感じとったアトが、露台から庭園を見下ろした。彼方に走り去るジルの姿が見えた。館内のあちこちから衛士が駆けつけはじめている。

「お師匠様、ジルが逃げたようです、あのばか……」

 声音には特にあせったものはない。

「なぜジルに王の話を聞かせようと思われたのですか?」

「確かに、本当にジルのことを考えるなら、何も知らぬ方がよかったかもしれぬ。しかし、私はジルを孤児と偽って育ててきた。そなたたちには何もない。だからせめて出自だけでも知らせてやりたいと考えたのだが、裏目にでたようだ」

「お師匠様、俺もジルも何もないなど、思ったことはございません」

 アトはそう云うと、再び庭園に眼をやった。

「俺も行きます」

「ふむ……」

 リーグの方もまったく落ち着いたままだ。少しの間首をひねって考える。

「そうだな……無理に、すぐには帰ってこずともよい。アト、私のことは気にするな」

 そのもの云いに、アトはちょっと不思議そうな表情をしたが、それ以上は深く考えずに小さくうなずき、手すりを軽々と乗りこえた。

 庭園に降りたって見ると、一室の露台からハロルド王が衛士たちにジルを捕らえるように命を下している。アトたちの部屋とジルの部屋は、それほど離れてはいなかったようだ。

 アトにはハロルド王のそのような醜態が、ばかばかしいものに思えたが、すぐに興味を失った。

 ジルは小鹿のように脚が速い。甲冑をまとっている衛士たちはとうてい追いつけそうにない。それでも、もたもたしていると一角に追いつめられて捕縛されかねない。

 アトはもっとも手近の館の塀目がけて駆けだした。ジルもアトをみとめてこちらへ駆けてくる。

 塀は人の背丈以上ある。はしごでもなければ、飛び越えることなどできないだろう。しかしおあつらえ向きに、壁のそばには古木がそびえている。

「ジル!」

 アトが壁を背に両掌を組んだ。ジルは一瞬で察した。駆けよると、その掌を踏み台にして跳ぶ瞬間、それにあわせてアトもジルを跳ね上げる。山猫のようにしなやかに、ジルの身体が宙を舞い、塀の縁に手をかけると、たくみに身体を引き上げた。

 つづいてアトが壁を蹴り、さらにそばの古木を踏み台にして猿のように身を躍らせた。わずかに届かないアトが伸ばした片手を、ジルがしっかりとつかむ。

「重たい!」

 ジルが文句を云いながら、腕を引き上げると、アトはのこった片手を縁にかけ、一気に身体を塀上に乗り上げた。

「お前の方が重たかったぞ」

「失礼ね!」

 ふたりは館の外を見下ろすと疎林と草原、そして海面であった。館内では衛士が口々に叫ぶが、上がってくることはできない。館から出入りするための門も遠いだろう。

 ジルはおかしそうに笑った。

 ふたりはそのまま身を躍らせた。

 リーグはそのあり様を、離れた部屋の露台から見守っていた。愛弟子ふたりが王の館の塀を軽々と乗り越えたのを見て、満足そうにうなずくと、室内にもどり部屋の扉に手をかける。思ったとおり鍵はかけられていない。廊下は騒然としていた。

 リーグは悠然と廊下をすすみはじめた。


(つづく)

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