アトとジル、トカラを歩く
王の館から脱したふたりは草原を駆け、やがて磯への急な一本道を降りはじめた。潮騒と風の音、海鳥の声が岸壁に反響する。
あの王が醸しだす泥のような空気の館から離れて、ジルは清々した気分だった。海風が、ことさら心地よく感じられる。
「ジル、お前、あのハロルド王ってやつから何を聞かされた?」
道すがら、アトはついてくるジルに問う。
「うん? 別にたいしたことじゃないよ」
ジルは素知らぬ風で答えた。王から自分の姪だと聞かされたことなど、なぜか云いたくなかった。
「そうか」
アトも別にこだわらなかった。
「お師匠様をのこして、逃げだしてしまった」
ジルがぽつりと云う。このような形でふたりきりになるのは、めったにない。
「お師匠様のことは心配いらない。無理に帰ってこなくていいと、云っておられた」
「どういう意味?」
ジルは首をかしげる、アトも同じ気持ちだったが、本気で心配しているのではない。リーグがこの国の衛士に後れをとることなど考えられない。ただ、帰ってこなくてもよいなどと云われても、まさかそういうわけにはいかない。
「勢いにまかせて飛びだしてしまったけれど、どうする?」
「考えなしに飛びだしたのは、お前だろう、ばか」
呑気な話をしながら歩をすすめると坂はゆるやかになり、足元が少しずつごつごつと尖った荒れた黒い石となりはじめ、歩きにくくなった。
潮の香りがますます強くなり、広々とした磯に至る。海鳥の鳴き声で互いの声も聞こえないほどだ。
黒白の大きな海鳥が磯の岩場に群れていた。一羽や二羽ではない。ほぼ垂直に海から切り立っているように見える岩壁の下の磯には、数えきれないほどの海鳥が羽を休めている。磯は黒っぽい岩盤と海鳥、そして糞とで、彼方まで黒白のまだらだった。
アトもジルも、その様を呆然と眺めていた。遠くから見ればさわやかな海の色も、近づいてみると浅い海底の岩盤を映しているのか、浅黒くまだらになっている。波のうごめきは意外に荒々しく、一瞬たりとも静止することはない。吹きつける海風が強い。
そこにひっきりなしに降りたち、あるいは大きく羽ばたき飛びたっていく海鳥の声は波の音とは異なる騒々しさだった。
トカラでの港湾風景でしか間近に海を見たことのないふたりには、想像したこともなかった光景だった。
「遠くから見たらきれいだったけど、近くで見ると……何か騒々しいな」
耳をふさぎながら、ジルが云った。海鳥の鳴き声は思わぬ大きさで、凶悪に聞こえる。
「こいつら、おいしいのかな?」
「鳥だろ? 焼けば喰えるさ」
アトが答える。ふたりには、この鳥たちが食べることができるかどうかにしか興味がない。
だが白い面貌に黒の隈取をした海鳥のふてぶてしい意外な大きさは、容易に手が出せない雰囲気を持つ。
かつて、空の半分を覆うような薄桃色の渡り鳥の群れを見たことがある。その数は数十万、数百万、いや数千万羽かもしれない。朝から昼になるまでその群れは途切れなかったが、一羽々々は掌に乗るほどの大きさだった。
ふたりの眼前の海鳥たちは、それよりもはるかに大きく猛々しく見えた。それが尽きるところも見えないほどに集まっている様子は、そら恐ろしいほどだ。
「潮の匂いって、思ったよりも強烈だな」
ジルはぽつりとつぶやいた。
ハロルド王から姪だと伝えられ、だがよく考えてみると、この国は自分が産まれた場所なのであろう。そう考えると、入国したときには感じなかった感傷が、ジルの胸に湧きでていた。
改めて考えてみると、そう……この小さな国は、自分の故郷だったのだ。
* * *
ふたりは手元には、ハロルド王の館から逃げだした折に、かくしに入っていた小銭しかない。あとはアトが手にしている剣だけだ。
「何でちゃんと準備して逃げださないのよ。考えなし、アトのばか」
「お前が云うのか」
怒ってみせるアトに、ジルはむくれた。
「今夜どうするのよ」
「我慢しろ」
「追いはぎでも、しようか?」
そう云ったジルの頭を、アトは思いきり叩いたものだ。
「“大地の騎士”の弟子だぞ、俺たちは」
「……冗談だ」
ジルは頭をさすりながら、ばつの悪そうな顔をした。
「冗談にもほどがある」
アトはあきれたように云った。
ふたりは磯づたいに、王の館へいたる際に通過した港街トカラへ向かう。足場の悪い磯であったが、旅と剣の稽古で鍛えぬかれたふたりは、ものともしなかった。
逃げだしたものの、ジルには特に思惑があったわけではない。勝手なことを云うなと居丈高に怒鳴られて意地になったのだ。第一、リーグを置いてゾントから逃げだすことなどできない。結局、師がまだいる高台の王の館へ戻るはめになるだろう。
しかし一度街に出てみると、見慣れない風情に自然と足取りは軽くなり、王の館にもどる気など薄れていった。きっと館の衛士たちが探しているだろうが、それも気にならない。
* * *
北の隣国クリョとの国境に近いトカラ港は――後に知ることになるが――半島の先端に位置する小国ゾントでほとんど唯一の街と云える。ここに王の館はある。実質、ゾントの都であると云ってよいだろう。
岸壁は巨人の鋤で絶ち落とされたかのように切り立ち、伸びすぎた豆のさやのように鋭く細長い入り江の最奥が丸ごと港であり、港を中心にトカラの港街は扇状に広がる。港から見上げると、家々が連なり、あたかもひとつの王宮がそびえているようにも見える。
ふたりはトカラの港街を歩く。独特の長衣を腰でしばるゾント風の装いとは異なるチュニックとズボン姿のアトとジルに誰もが眼を向けるが、ふたりは気にもとめない。
港には一本柱の小型船がほとんどだが、中には二本柱の貨物船と思われる波に強いがっしりした幅広の大型の船も係留している。船乗りたちは粗末ではあるが、潮にもみしだかれたような、粗末だが頑丈な麻の仕事着をまとい、荷を肩に担ぎ桟橋を渡っている。彼らが重い荷を担いで移動するたびに、桟橋や船は揺れ、ちゃぽちゃぽと軽快な波音を奏でる。
彼らはいずれも肩も胸も腿にもごつごつとした筋肉をまとい、真っ黒に陽に焼け、潮風にさらされ汗でてかり、あるいは乾いた汗が真っ白の塩をふいている。
港では船主であろうか、他の者とくらべてわずかではあるが身なりのよい者たちが、木版の伝票を手に、官吏のような明らかに船乗りとは異なる装いの連中と話をしている。見ると彼らは、背負い子や天秤棒を手に列をなしている荷担ぎの者たちを差配しているようであった。港湾組合の者たちであろう。
港の端では、天秤棒一本の物売りや屋台が並んでいる。ちぢれた白髪の、しわだらけでなめしたように真っ黒な顔の老婆が、低い椅子に腰かけ通る者をじっと見つめている。手元には持ち運びのできる炉にかかった鍋がゆらゆらと湯気をあげているが、それも潮風で流れる。
港仕事をしている者が時折、脚を止め小銭を渡す。見ていると、老婆は鍋の中の何やらどろっとしたものを椀に注ぎ、男に手渡す。男は匙を片手に、その湯気の立つ中身をせわしなくかきこむと、そそくさと去っていく。後で知るが、磯の魚や蝦や貝をごった煮にしたもので、体がきしむほどにきつい作業の男たちにとって、小腹をみたすものである。
喰い物だけではない。青臭い茶も売っている老婆もいるし、天秤棒で担いだざるに魚の干物を並べている老婆もいる。
港で働く男たちの、時折怒声もまじる威勢のよい声、人夫を差配する男たちの権高いもの云い、屋台でかわされる会話、潮風や波の音、ひっきりなしに響く海鳥の甲高い鳴き声、そしてどこにいっても消えることのない潮くさい匂い――これまで海の街を訪れたことのないふたりには、とてつもなく珍しく、活気のあるものに感じられた。
船を降りてわずかな広場を百歩ほどで横切ると、すぐに街の斜面に無数に延びる石段に脚をかけることとなる。港からあちこちに延びる石段は急で、うねうねと複雑に曲がりくねり、入り江に面した急な斜面を蟻のように這い登らなければならない。
住み暮らす家屋はその斜面、そして登りきった馬の背のようにわずかな平地に集中する。ささやかな土地を活かすため、上を上を目指してきたトカラの民だ。
路地は石段そのものだ。王の館へ向かう幅の広い大路はともかく、それ以外の路は斜面から生えているような家の漆喰壁がせまり、すれ違うだけで肩がふれ合うほどの狭さだった。
荷車を使って物を移動させることは無理だから、棒手振りの魚売りが身体を斜めにして汗をかきかき石段を登り、家々の間をぬって売り歩くのもトカラで見慣れた光景だ。
石段で斜めに眠ることができる者だけがトカラで暮らせる、トカラの者がまっすぐ寝ることができるのは墓に入ったときだけである、などの俚諺もある。
(つづく)
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