野宿
トカラの港の石段を登りきったわずかな平地に、王の館は建っていた。ちょうど港を見下ろすような形である。
王の館の周辺は重臣たちの館もあるが、その先は開けた台地であった。膝までの青々とした下草、こんもりとした灌木の疎林、ところどころに灰白色の岩が突きだしている。こぢんまりした集落も彼方に見てとることができる。黍やカーシュが育つ畑も広がり、特産の渋みの多い茶葉も採れる。塩気のある草を喰べた豚や羊はうまいが、何分狭い土地であり多くは育たない。ゾントの者もめったに口にはできない。
台地の端から海面が見える。台地は南に向かって、はてしなく延びている。もう陽は大きく傾いていた。
ふたりは王の館を大きく迂回して、後背の草原まで脚を踏みいれた。
街でふたりは、なけなしの小銭で古びた毛布と干し魚を買っていた。イーステジアの小銭が使えるかどうか不安だったが、質のよい銭に、かえって喜ばれた。腰の革袋には、港の井戸でくんだ水もある。
ふたりは特に困っていない。普段から行旅の毎日だ。夜天での野宿は、一年のほとんどがそうである。
乾いた灌木の根元に枯れ木を集め、アトは火打石で火をつけた。ジルが干し魚を枝に刺しあぶると、香ばしい匂いが立ちあがった。
その間にも、台地の西の縁に陽が沈みつつある。あたりは薄暗くなりはじめている。
陽の周囲の熾火のような朱、その反対の東の空は早くも夜の帳がおりはじめている。中天はまだ青空の名残をとどめている。イーステジアでは、
「夜は寒くなるぞ」
ジルがつぶやく。夜風に潮が匂っている。アトやジルがこれまで嗅いだことのない夜の海風だ。ジルの短い亜麻色の髪まで執拗に巻きあげようとする。
やがて干物が焼きあがったようだ。ふたりは枝を手に取り、熱々のそれを少しづつむしり口に運ぶ。
「しょっからい」
ジルが顔をしかめた。
「トカラでは干し魚を毎日食べると云っていた。焼いて砕いて粥の中に入れたり、ソップの具にしたりとか」
むっつりと答えるアト。
「誰が言っていたの?」
「棒手振りの婆ちゃん」
「でも、しょっからい」
ジルが苦笑する。
「これしか買えなかったんだ」
「明日はお師匠様のところへもどらなくっちゃなぁ……」
ジルはぽつりとつぶやいた。銭がなくったからでも、不安になったからでもない。リーグに無断で飛びだしてしまったことを気にしていた。
「お前が考えなしだから」
「うるさいなぁ……」
ジルがアトをじろりとにらみつける。
* * *
月は新月に近い。見上げると、
一枚は敷き、のこりのもうひとつの毛布にいっしょにくるまる。接してはいないが、それでも寒さに震えるほどではなく、互いの体温を感じさせる近さに背を向け合っていた。
夜の闇に、焚火のかすかに熾火がほんの狭い範囲をぼんやりと薄明るくしていた。互いの背中ぐらいまでなら見えるが、それ以上離れると鼻をつままれてもわからないだろう。
「……アト、もう寝た?」
隣からは静かな寝息が聞こえてくるが、それが嘘の寝息であることぐらい、ジルにはわかる。
「ねぇ、アト、起きている? 話したいことがある。昼間、あの王という人から聞いたこと……ねぇ」
「何だ?」
執拗に話しかけるジルに根負けしたのか、アトは渋々答えた。
アトの背中にジルの背中は語りかける。
「……この国は、どうやらあたしの産まれ故郷らしい。しかもあたしはその王の姪だそうだ」
「……」
「驚いていないな。お師匠様から事情を聞いた?」
「……いや」
「聞いたのね」
嘘が下手、と心の中でつぶやくジル。
「あの人の云うことが正しいのなら、あたしはこの国の領主か王族? とにかくそんなものの血筋らしい……」
「お前、意外にお嬢様なんだな」
からかう風でもなかったが、アトは感情のこもらない声音でつぶやくように云った。
「まったくだよ、このあたしがだぞ。どんな顔をしたらいいかわからない。あの王はあたしにこの国にのこれと云った。のこって、自分を助けろと」
憤慨するようなジル。聞いたアトの背が、とまどうような気配を発した。ハロルド王が、自分の息子といっしょになれと迫ったことは、ジルは黙っていた。
「無茶だ。あたしはこの歳まで、お師匠様と一緒に旅をして剣を習っただけだ。こんな小さな国だけど、まつりごとを手伝えなんて云われたって、できるはずもない」
ジルの言葉は、いらだちととまどいが複雑に混ざりあっていた。
さくっと小さな音がした。熾火が崩れたようだ。
「……正直に云うと……」
長い沈黙の後、ジルは口を開いた。
「この国が、あたしの産まれ故郷と聞くと……不思議だけど、何もかもが違って見える。草原も、空も、それから初めて見た海……いや、あたしは幼いころ見ているのかな……とにかく街も、そこに住んでいる人たちも、全部がこれまで見てきたものとは違って見える……」
言葉を選びながら、ぽつりぽつりとつづける。
「やめておけ、未練になるぞ」
「未練って、何よ?」
「この国から出ること、できなくなるぞ」
アトの台詞には硬さがあった。ジルは暗闇の中で、強く唇をかんだ。
「……確かに、あたしはこの国に惹かれている。あたしの産まれ故郷と思うと、この国が特別のもののように感じる……」
ジルは言葉を切った。長くためらいがちな沈黙があったが、やがておそるおそる口を開いた。
「……でも、あたしがいくらそう想っても、産まれ故郷であっても、あたしにとってこの国はあたしの居場所じゃないと思う。あたしは“大地の騎士”の弟子だ……この国にはのこることはない」
今度は、アトの沈黙が長かった。ジルにはその沈黙が、とまどっている時間のように思えたが、やがてアトは口を開いた。
「お前は……別にそうしなくてもいいだろう?」
「……どういう意味?」
「お前は女だ。いつまでもお師匠様に従って放浪する必要はない。いつかどこかに腰を降ろせばいい」
「……それ、どういう意味?」
ジルが上半身を起こす。
「あたしに、この国にのこれってこと?」
「そうじゃない。別にこの国であってもいいだろうし、そうでなくてもいいだろう……」
「アト、あんた、あたしが女だからどこかで所帯を持てと云いたいの?」
「……できるのなら、そうすればいい」
そう答えたアトの声音は、どこか変調をきたしているかのようだった。
冷たい氷の塊が、ジルの胸の奥に突然生じたような気分になった。なぜ急にアトがそのようなことを云いだしたのか、理解できなかった。
「……ばかにするなアト、あんた、あたしが女だから剣に生きることなんてできないって云っているの?」
「ジル、よく考えろ。お師匠様だって、いつまでも放浪をつづけることなんてできない。俺たちだって、いつかは……」
「そんなこと、聞きたくない。アトはあたしが女だから……そう云ってるんだ」
アトの台詞をさえぎった。アトは依然、彼女に背を向けたままだ。そのよそよそしさに、ジルの怒りは増す。
「ジル、お前だってうすうす気がついているはずだ。それは無理なんだ」
「なら、アト、あんたはどうする? 仮にお師匠様が亡くなられて、あたしがどこかに落ち着いたら、あんたはひとりでどうするつもり?」
「……」
「答えられない、そうよね。あんたは、お師匠様のように生きることができると思っている。“大地の騎士”の名を継ぐことができると思っている。あたしは女だから無理だ、そう思っている。だからあたしに、そんな偉そうなことを云えるんだ――ばかにするな!」
こらえきれない怒りをぶちまけると、ジルはアトに可能な限りの距離を取って背を向け、再び横になった。
ふたりの間に夜の寒々しさが忍びこんできたが、ジルは距離をつめようとはしなかった。ジルはアトの背中に強い言葉を放った。
「……明日、お師匠様のところへ帰る。そしてすぐにこの国を出ていく……あたしはあんたのこと、許さない……」
わざとらしいアトの沈黙が伝わってくる。寝ているのかと錯覚するような沈黙だが、しかしそれが偽りのものであることを、ジルは感じていた。
(つづく)
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