ゾント王ソロンと王弟ハロルド

 逃げだした翌日の夕刻、何ごともなかったかのようにすました顔をして、アトとジルは王の館にもどってきた。夜が明けてから館にもどるまで、ふたりはひと言も口をきいていない。

 リーグは別に軟禁されているでもなく、前にアトとともにあてがわれていた客間におり、案内されてきたふたりを、当たり前のように迎え入れた。

 黙っていてすまなかった――とリーグが穏やかに云う。この国ゾントが彼女の産まれた国であり、かつ先王が彼女の父親であるということをだ。

 ジルの方がばつの悪そうな顔をしている。

「あたしはお師匠様……気にしていません」

 傍らにアトがいるため、ジルの口調はぎこちなかった。アトはむっつりと黙ったままだ。

「王から事情を聞いたと思うが、私はゾントのことなど関係なくそなたを育てるつもりであったし、話すつもりもなかった。醜い骨肉の争いに巻きこまれないようにと思っていた」

「ではなぜ……あぁ、ひょっとしてあの使いの者ですか?」

「私は二度とゾントに脚を踏み入れるつもりはなかった。あの使いはハロルド王からのものだった。もう長くはないことと、死ぬ前に一目そなたに会いたいとのことであった。迷ったが受け入れた。」

「昨日、王とどのようなことを話されたのですか?」

「そなたをこの国にのこしてもらいたいと懇願された。私の一存で断った。だがそなたは、もう子どもではない。一度はきちんと王の話を聞くべきだと思った。しかし甘かった。まさかハロルド王があのようなことを考えていたとは……」

 リーグは顔をしかめる。師がそのような表情を受かべるのは、珍しいことであった。

「お師匠様のなさり様に、不平など申しませぬ」

「すまぬ、私はハロルド王の執念を見誤っていたようだ」

「お師匠様、十六年前、一体何があったのですか? あのハロルド王の云っていることは信用できません。ご存じなのでしょう?」

 真摯な表情のジルを、リーグは凝視する。十六年の間に背も伸び、自分の言葉ではっきりと意思を表せるようになった愛弟子を。リーグは大きくうなずいた。

「話をしてやろう。あの夜、何がおきたのか……」


* * *


 ゾントが建国されてから二百年近くがたつ。今のハロルド王は八代目である。ハロルドが王位についたのは、今から十六年前のことである。

 それは――兄王を武力で廃しての即位であった。

 兄に恨みなどなかった。

 十も年長の兄ソロンは、ハロルドが物心ついたころからすでに成熟した存在で、彼にとっては兄であるとともに、国政にたずさわる者として先達であり、深い敬愛があった。

 ふたりの間にはまだ何人かの兄弟がいたが、幼児に死亡している。成人したのはソロンとハロルドだけであった。母親も同じである。ゾントのような小国では、王ですら側妾を置くこともままならない。それゆえ王家といえ親子間、兄弟間の情は細やかだった。

 すれ違いが生じはじめたのは、いつのころからであったろう。


 ゾントは、ベルセーヌ大陸の西方に位置する半島の先端の、三方を海で隔てられている小国であった。そのため古来から大陸の動乱とは無縁であったが、それ以上の発展は望みようがない。

 小国ゆえ大陸への憧憬が強く、ことにゾントとの間の周縁の国を経由して流入する途方もない大国イーステジアの生みだす文物には、千金の価値があるように感じられていた。

 イーステジアからはゾントへ至るには、海路以外は隣国クリョを通過せねばならない。ゾントにとっては、クリョは大陸への窓口であり本来、もっとも近く親しい隣国であるはずなのだが、その関係は微妙であった。

 クリョは、俗に西方二十カ国と呼ばれるベルセーヌ大陸西端の諸国の中でも、もっとも力のある国のひとつであった。ゾントは、西方二十カ国にも数えられていないほどである。

 イーステジアの一皇家が辺境に近い領土を拝領し、それが独立独歩の意欲に燃えて国を出、長き流謫の末に今の地にいたったことがクリョの始まりであると王家伝にはある。それゆえ、ベルセーヌ大陸西端の諸国とは、出自自体が異なり、ふたつの大陸の半ば以上を統べる高貴な民の末裔である――と信じる自負の強さ、気位の高さは他国の追随を許さぬ。

 しかしいかに気位の高さを見せようが、しょせんは辺境の小国にすぎず、それに見合っただけの大きさの国でしかありえない。カタラの枝は園の大きさに従ってしか伸びないとのたとえどおりである。

 気位の高さとそれに見合わない国力は、他国を貶める高慢さとなった。それはことに属国扱いしているゾントに向かいがちであった。実際はベルセーヌ大陸の西端にちんまりと存在する両国の間にどれほどの差もないし、クリョの王族ですらイーステジアの都へ赴いた者などいない。 

 だがクリョはそのほんのわずかな地勢の差異でもって、文化の中枢たるイーステジアに近く、その明化もゾントよりはるかに上である――とする。それゆえ大陸の優れた文物は、クリョを経なければゾントの元へは届かぬ。ゾントが大陸の恩恵を受けるも受けないも、クリョの腹づもりひとつである。ゾントを人たらしめているのはクリョの温情であり、いわばクリョは兄であり、ゾントは劣る弟である。ゾントはその大恩を忘れず、深い敬意を以って遇せよ――というのが、クリョ王家の思うところである。


* * *


 ゾントは貧しい国だ。国力は伸びようもなかった。

 ゾント王ソロンと王弟ハロルド。

 ふたりの意識の齟齬は、クリョとの接し方にあった。

 立地上、そして国力の差から、否も応もなくゾントはクリョに依存せざるをえないいびつな関係であった。交易でも主導権を握られ、その意向に左右されつづけた。

 それはゾントが一国として立ちゆくために、やむをえないことであり、これまでの代々の王がそうであった。

 ソロン王はその関係を変えたがっていた。

 周辺には海をへだてて、いくつもの国がある。パエシダ、イルゼーツ、大カヤなどは、クリョと西方二十カ国の主導権を争っている間柄である。ソロン王はクリョとの関係を薄め、それらの国々に接近していくつもりであった。

 一方、ハロルドはそのような兄王のやりかたが危ういもののように思えていた。クリョに主導権を握られたままの国政は五十年以上におよび、重臣たちの中にはゾントではなくクリョに忠誠を誓っているような者すらいる。その関係を崩すことなど、国を危うくする行為にしか思えなかった。

 ――そのような関係だからこそ、変えていかねば、いつかゾントはクリョに呑みこまれてしまう!

 ソロン王がそう強く主張した。それはそうかもしれないと首肯しつつも、ハロルドは反論する。

 ――しかしクリョの力が強い今、クリョとの関係を断つことなどできませぬ。クリョあってこそのゾントでございます。兄上のお気持ちもわかりますが、クリョを敵に回すことは、ゾントを危うくすることに他なりませんぞ。

 ――今、関係を断つことなどできぬ? ならいつならできる、五十年先か百年先か? 我らの子や孫の代にまで負債を押しつけるつもりか? そのようなときがくると思うか、このままではいずれ、ゾントは滅ぼされるぞ。

 ――いつか必ず、機会はまいりましょう!

 ――ハロルド、そなたは街の者の声を耳にしたことがあるか? ゾントの産物はクリョの商会が安い値で買いたたいているのだぞ。国どころではない、民の暮らしもままならなくなるのは眼に見えている。

 ――クリョなくして、ゾントは立ちいきませぬ、どうか軽々にクリョとの関係を悪化させるようなことはおひかえくださいませ!

 ゾント王ソロンと王弟ハロルド。

 両者の主張は、いつもすれ違いだった。結局、かみ合わないまま終わる。いや、かみ合わないのではない。兄王もハロルドも、もはや互いが互いに歩み寄ることができなくなっていた。

 そしてその夜――


(つづく)

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