十六年前の真実(1)

 ――夜陰が轟くような気配がした。いや、気配などと生易しいものではない。それは明らかに物量を持った、何ものかのうごめきであった。

(とうとう来たか……!)

 ゾント王ソロンは寝台で上半身を起こした。その不穏をはらんだものの気配を探るまでもなく、何が起こったのかを察し苦悶の表情を浮かべた。そして真っ先に妻と産まれて一年半の娘のことを想った。

 裸足のまま窓まで歩み、露台から屋敷の庭を見下ろした。

 館を囲う塀の向こうでは、いくつものかがり火が揺れている。多くの者が発する殺気立った気配は、ここ王の館を幾重にもとり囲み、今にも押しつぶしてしまいそうだった。

(ハロルドの手の者だけではない……!)

 ソロンは直感して、それが今後この小国ゾントに、どのような苦しみを与えることになるかを想って、歯噛みした。

 しかしソロン王は、瞬時に心を決めた。

「陛下!」

 何人もの内官があせった声をあげつつ、王の寝所に跳びこんできた。

「ハロルド殿下が……!」

「わかっている、やつめ、クリョの手を借りたな……」

「まさか!」

「……妃とエッダを起こせ」

「おふたりを……?」

「逃げられぬ。せめて娘と妻だけは……やつらの手にかけさせるものか……リーグに委ねる」

「逃げるのであれば、あなたもいっしょだ」

 寝所の戸口で声がした。ソロンと内官が振りかえると、一歳半になる娘を片手に抱えた“大地の騎士”がいた。亜麻色の髪のエッダはリーグの胸の中で、すやすやと寝息をたてている。

「……無理だ、リーグ……ゾントは三方を海に囲まれている。逃げようはない」

「あなた……」

 娘とよく似る亜麻色の髪の王妃が不安そうに、しかし覚悟を決めた眼で夫を見上げた。

「私もともにのこります。エッダだけはリーグ殿に委ねましょう」

「奥方」

「お願いしますリーグ殿。あなたおひとりでしたら、たとえエッダを背負っていたとしても、囲みを斬りぬけることもできるでしょう。私は足手まといです」

 驚いたリーグに、王妃は気丈に笑いかけた。ソロン王もまた王妃の意を汲みとった。

「リーグ、エッダを頼む……」

「……承知した」

 リーグはすべての想いを呑みこみ、小さくうなずいた。

「お急ぎください。とにかく皆様で逃れることに、すべての力を注ごうではございませぬか。リーグ様、エッダ様はいざというときまで、私めがお預かりいたします」

 内官があせった声を上げる。

「頼む、サイス」

 リーグがエッダを預けると、その内官はこれ以上ない大切なもののように、胸に抱いた。

「王よ、こちらへ……遠回りになりますが、西はまだ包囲が薄そうでございます。隠し門から脱けだすことができるかもしれません」

 一行は灯りを落とした館内から逃走を図る。

 館内は混乱の極みであった。女官たちが血の気を失った顔で慌てふためき走り回り、何人かの衛士たちとも鉢合わせしたが、内官たちは王たちの姿を彼らの眼から隠し、襲撃者たちを足止めするように指示を与えた。王は彼らから身を隠し、口中で小さく許しを請うことしかできなかった。

 館のあちこちから、王を誰何する声が聞こえる。その声も殺気立っている。内官たちも必死であった。

 回廊の曲がり角で、出合い頭に五人ほどの兵卒とかち合った。

 兵卒は血走った眼で剣を手にしていた。内官が悲鳴を上げた。

 飛びだしたリーグが内官らを突き飛ばし、兵卒たちを斬り伏せた。ひとりが泡をくって背中を見せて庭園に逃げだした。

「見られた、始末してくる。先に行かれよ」

 そう云うとリーグは庭園の暗がりに消えた。

「この者たち、衛士の者ですぞ……」

 内官のひとりが絶望の声を上げた。ソロン王は唇をかみ、王妃は辛そうに顔を伏せた。

「王よ、こちらへ――」

 エッダを抱えたサイスが先に立って歩きだした。一瞬躊躇したソロン王であったが、気を取りなおして脚をすすめる。リーグが気になったが、今は少しでもすすまなければならない。あの剣士なら、すぐに追いついてくれるだろう。

 青い顔のサイスが先に立ち、足早にすすむ。次第に喧騒が小さくなっていくように感じられ、この忠実な内官が人気のない方へ先導していることがわかった。

 ソロン王は剣の鞘を強くにぎりしめている。今剣を遣えるのは自分だけだ。内官たちはあてにならない。その想いが王の表情をこわばらせていた。

 そしてその角を曲がったとき、眼前には兵の一団が彼らを待ち受けていた。

 驚愕のあまり脚が止まった王たち一行。しかしただひとり、脚を止めなかった者がいた。エッダを抱えたサイスであった。彼はおそるおそるであったが、彼らに近づいていった。

 一団の先頭にはソロン王の弟――すなわち王弟ハロルドがいた。

 館のどこかで灯されている灯りで、彼の顔は半分しかうかがえなかったが、怒ったような泣きだしそうな表情をしているように見えた。

 ハロルドの隣には恰幅のよい壮年が、これはソロン王をあざけり薄笑いを浮かべているのが、はっきりとわかる。クリョの公館を差配する公使アウグスティアヌスであった。

 ハロルドがサイスの襟首をつかみ、ひきずるように前で出た。その後ろの兵卒たちも、ソロン王たちを圧するように前進する。

 両者は槍でも繰りだせば届くほどの距離で向かいあった。彼らは皆、クリョの手の者であることが察せられた。

「兄上のやり方では、国を滅ぼします……」

 そう云ったハロルドの顔は蒼白であった。

「サイス……国を売ったか……」

 ソロン王は弟を無視して、裏切った内官を力なく責める。

「私は……国の行く末を……」

 目を合わせぬようにしつつ、サイスが震えながら弱々しげに答えた。

「兄上に縛を」

 ハロルドが低く云うと、アウグスティアヌスが兵卒たちに顎で指示をする。ソロン王の顔面は蒼白で、もはや抵抗する気力もなさそうであった。

 近寄ったクリョの兵卒たちが、不意に腰の剣を抜き、ソロン王を刺しつらぬいた。

「アウグスティアヌス、貴様!」

 ハロルドが、傍らのクリョ公使を振りかえり怒声をあげた。

「約束が違う――? しかし生かしておいては、後顧の憂いとなりましょうぞ。あなた様のためを思ってのことです」

 アウグスティアヌスの答えは慇懃で、しかし冷ややかであった。

 言葉を失ったハロルドの背中に、倒れ伏したソロンは語りかける。

「……わかったか……ハロルド……これが、クリョの……やり口、だ……」

「黙らせろ」

 アウグスティアヌスが命じると、兵卒たちはためらうことなく、床で血に染まるソロンにとどめを刺す。

「陛下!」

 悲鳴をあげた王妃や内官たちもまた、抵抗することもできずにたちまち斬り斃されていった。二十数える間もなかった。倒れ伏し、かすかにうめく者もいるが、すぐに静かになった。

 残酷な静寂が回廊にあった。先ほどまでの館に押し寄せた者たちの喧騒も、不思議に今は静まっている。

「その餓鬼も始末しろ」

 アウグスティアヌスが、血も涙もない口調で命じる。

 サイスは顔面を蒼白にしていたが、云われるまま、震える手で幼子を差しだした。

「待て、それはさすがに……」

 ハロルドがうろたえた声をあげるが、誰も耳を傾けようともしない。兵卒が眠る幼子の顎を上げ、その陶器のようになめらかな喉に剣をあてた。サイスは呆けたようにその情景を見ている。

 次の瞬間、ましらのようなものが兵卒らの背や肩を踏み越えて飛来した。一閃は幼子を抱える兵卒の首筋を斬り裂くと同時に、のこった片手は幼子をすくい上げ、そのまま床を二転三転して片膝で剣を構え――そして初めてハロルドとクリョの兵卒の一団と真っ向から向きあった。

 あまりに瞬時のことであったために、アウグスティアヌスもハロルドも、何があったのかわからなかったほどだ。

「……リーグ……」

 穏やかな剣士であったはずの憤怒に燃えた眼光に、ハロルドが思わず後ずさった。

 躊躇する間もなかった。幼子を片手に抱いたまま、“大地の騎士”の身体が襲いかかった。

「きっ、斬れ!」

 うろたえて叫んだアウグスティアヌスの声に、剣閃のきらめき、兵卒らの悲鳴、そして斬り飛ばされた腕や脚、吹きあがる鮮血とが重なった。

 “大地の騎士”の剣力を身をもって知ったのは、望んではなかったであろうが、彼らであった。しかしその代償はおのれの命であった。

 悲鳴をあげてハロルドは恥も外聞もなく逃げだした。アウグスティアヌスも身を翻した。クリョの兵卒十人ほどが動かなくなるのに、ほとんどときはいらなかった。

 最後に、血しぶきをあびてへたりこんだまま逃げだすこともできないサイスに近づくとと、無造作に喉の急所を斬り裂いた。リーグがエッダを腕に王の傍らに跪いたとき、ようやくこの裏切りの内官の身体は床に倒れ伏した。

 王も王妃も、もはや息がなかった。幼子はこの騒動の中、まだ寝息をたてていた。リーグは王妃の指輪を抜きとる。

 背後で何やらが揺れるのが感じられた。見ると、兵卒が持っていたかがり火が、回廊から隣室に転がりこみ、壁の室礼に燃え移っていた。ほんのわずかな間に、その一室の壁をなめあげるほど炎は成長していた。火の粉が命を失ったクリョの兵卒たちにも降りかかる。

 怒号が響く。クリョと、そしてハロルドの手勢が駆けてくるのが見えた。リーグは燃えさかりはじめた室内に跳びこむ。炎のついた壁掛けをつかむと、部屋の床に放ると、火勢がひといきに増す。

 躊躇する兵卒たちを置き去りにして、リーグの身体は次の間に消えた。

 火勢は衰えず、王の館は燃え広がる。ソロン王と王妃の遺骸も炎の中にあった。

 アウグスティアヌスもハロルドも、退避するしかなかった。炎はもはや手もつけられず、やがて館を無残に燃え崩した。

 リーグとその腕に抱えられた幼子の行方も知れず、焼け跡の瓦礫からいくつも見つかった粉々になった亡骸にひとつがそれであろうと思われるだけであった。

 ソロン王が屋敷の火事で事故死をしたとゾントの民へは伝えられ、王弟ハロルドが王位を継いだ。


(つづく)

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