十六年前の真実(2)

「お起きください……」

 耳朶をうつ、かすかな声。ひょっとしたら何度目かだったのかもしれない。

 うっすらと眼を開けたハロルドの首筋に、冷ややかなものがあてられていた。

 のしかかってる人物がリーグであると知り、寝台に横たわるハロルドは愕然とした。同時に背中に怖気が走るのを感じた。

「……まさか生きていたか……エッダは……」

「息災でございます。今宵は連れてきてはおりません」

「そうか……」

 ハロルドが背負っていた重たいものを下ろしたような声をあげた。王位を継いで半歳ほどがたっていた。

「リーグ、そなたは信じてくれぬかもしれぬが……あの幼い姪の命が失われなかったことは……それは安堵している……」

「それを俗にふかのそら涙と申しますぞ、どの口が云われます?」

「……私を、怒っているのか?」

「無論」

「……私を、殺すつもりか?」

「いかにも。ソロン王を弑した報いをお受けになるときがきました」

 リーグの言は冷たい怒りに満ちていた。ハロルドはこの剣士のもの云いが、本気であることを感じた。

「良心は痛みますか?」

「私は……間違ってなど、おらぬぞ……兄がクリョの支配から脱却しようとしたことから、ゾントの立場は非常にまずいことになった。国を護るにはあの方法しかなかった……私はゾントのためを想って、ことを起こした。」

 ハロルド王は呻く。

「勝手でございますな」

 リーグはあざけるように云う。

「私にときをくれ、リーグ」

 呻くように云うハロルド。

「私はこの国を立ち直らせねばならん。そなたは兄王の親友であったからわかるであろう? 今、私が死ねば、ゾントは立ちいかなくなる……私は……私はこの国ために生きる責務がある。報いを受けるときが来るかもしれぬが、それは今であっては困る。頼む……殺さないでくれ……」

 ハロルド王は恥も外聞もなく、懇願する。その眼からは滂沱と涙が流れていた。その涙が真のものかどうかは、誰にも判断ができないだろう。

 リーグはその様を冷ややかに見下ろしていたが、やがて疲れたように短剣を引いた。あるいは本気でハロルドの命を奪う気などなかったのかもしれない。

「結構です、私にはご政道などわかりはしませぬ。あなたのなさり様がゾントのためであろうと思われるのであれば、そうなさればよろしいでしょう」

「リーグ……感謝する……私はきっと、この国を……」

「それはもはや、私には何の関係もないことでございます。それと、エッダは私が育てます。ゾントの醜い王位争いなど無縁のまま。よろしいですな」

「あぁ、そなたには感謝している。本当だ。私のできうるかぎり、そなたらへ援助はする」

「無用でございます。あなたから、びた一文いただくつもりはありません」

「……リーグ、そなたはベルセーヌ大陸を放浪していると聞いている。いつか、そなたにつなぎをつけたいときが出てくるかもしれぬ……」

「そのようなことはございますまい。ハロルド王、あなたも私たちには会いたくもないでしょう?」

「脇卓の上の紋章札を持っていけ。将来、同じものを持ってそなたの前に現れる者がいるかもしれぬ」

 なぜか執拗にこだわるハロルド王。懇願するように剣士を見上げる。リーグは根負けしたように脇卓の上の紋章札を手にした。この哀れな男の良心を満足させてやるだけのことだと思いながら。

「あなたの姪っ子は、もうゾントなどと何のゆかりもございません。私も出自は話すことはしません。二度とこの国に脚を踏みいれることいたしません。よろしいですな」

「……すまぬリーグ」

「あなたのためではありません。エッダのためです。ハロルド王、よろしいか、私があなたを赦したわけではありませんぞ、それを肝に銘じておいてください。よろしいですな、忘れてはなりませぬぞ」

 その冷ややかで怒りを内包したような台詞に、ハロルド王は背筋を震わせた。自分の身体のそばにあった、死神のように冷酷な気配がじょじょに薄れていった。

「あなたは、あなたのなさったことを忘れては困ります。よろしいですか? 私は剣を手にあなたの寝所にまで来た。その気になれば、あなたのお命をいただくことなど容易ということです。あなたは私の恩情で生き永らえていらっしゃるのですぞ。私の気が変わればどうなるか、それをお忘れになりませぬよう、よろしいですな……」

 台詞とともにリーグの姿が、常夜灯が灯しきれぬ屋内の闇と同化していくように感じられ、やがてハロルド王は、屋内に自分ひとりであることにようやく気がついた。

 苦悶のうめき声が、やや遅れてあがった。リーグの去った寝所の闇の中で、ハロルド王は、自身の身体が水をかぶったような脂汗をかいていたのを知った。


 これが十六年前の顛末であった。


* * *


「そのようなことが……」

 ジルは唇をかむ。

「ジル、そなたが首から下げているものを見てみなさい」

 リーグに云われて、ジルははっと気がつき、胸元に手を入れる。首に下げた皮ひもに通されている護り袋を引っぱりだす。さかさまにすると、中から女ものの古い指輪が掌にころりと転がった。

 古いものなので文様がすっかりすりへっているが、よく見るとあの夜、リーグらの宿を訊ねてきた者が見せた紋章牌と同じく、三本波の文様が刻まれていた。あまりに見慣れていたもので、気にも留めていなかった。

「ゾントの王妃に代々伝わる指輪だ。そなたの母が亡くなった折、私が持ち去った」

「あたしの、母……?」

 ジルがぽつりとつぶやいた。しばし古びた指輪を凝視していたが、やがてぐっと強く握りしめ、顔を伏せた。

 アトには彼女が泣いているように思えた。

 長い間伏せていた顔を上げたジルの眼は赤かったが、それ以上に表情には激しい怒りがあった。

「ハロルド王……あの、嘘つき!」

「どうした?」

「あの人は、先王を弑する動きがあったなどと……不慮の事故だなどと云っていた。やむを得ず自分が王位を継いだなんて……嘘ばかり、何て汚いやつだ!」

「自分の行いを隠して、都合のよい話に仕立て上げたのか……」

 アトも呆れたようであった。

「あたしが政争の道具になるかもしれないので、お師匠様に託して逃がしたとも云っていました」

「そうか……」

 リーグも顔をしかめる。

 あの夜、ジルまで害することにハロルドはためらいはあったかもしれないが、それでも結局流されるままであった。幼子であったジルを想いやったなど、呆れる。

「卑怯です。あのような方が国王など、臣民も不幸極まりありません」

 ジルはののしった。

「そなたが事実を知ったことなど、云わなくともよいぞ」

「なぜですか?」

「あの方に良心など、さほど期待できぬ。それに内緒にしたところで、私から伝わってしまうであろうに……」

 最後のひと言は、あきれたような同情するような気配があった。

「ならばなぜ、そのような嘘を?」

「もはやまっとうな判断もできぬほど、病が篤いのか……」

 リーグは茫然とつぶやいたが、やがてあきらめたように軽く頭を振った。

「ハロルド王は意志の弱い方だ。それに放っておいても、間もなく死ぬ。赦してやる義理は、そなたにはなかろう?」

「ありません」

 そう答えた後、ジルは急に早口になった。

「……あたしは、お師匠様の弟子です。この国とは何の関係もありません」

 まるでリーグから、これからどうするのかと訊ねられるのを恐れるように、意思をはっきりと示した。アトがかすかに顔を曇らせた。

「お師匠様といっしょに、あたしは国を出ます。正直、あの王にはうんざりです。関わりになりたいとは思えません」

「……そうか」

 うなずいたリーグの脳裏には、あの夜のことが不快なほどはっきりと映しだされていた。

 あの場に駆けつけたときリーグが見たのは、息絶えたジルの父と母と、その喉元に刃を突きつけられた幼子、そしてクリョの兵卒たちであった。すべてが手遅れであった。ソロン王たちから離れたばかりに、彼らは無残に命を落とした。リーグは何度も悔やんだ。

 あの夜以降のハロルド王のこと、ゾントの動静に、はるか遠いイーステジアでもひそかに耳をそばだてていた。

 うまくクリョとの関係を保つ、国を立て直す――兄王を弑してまで手に入れた地位であったが、ハロルド王の理想は無惨にも粉々に砕け散った。

 王位を得るために手を借りたのだ。ハロルド王の決意など、クリョのしたたかさには手も脚も出なかった。ゾントはかつてよりはるかに悪く、クリョに喰いものとされて久しい。

(何が、私はこの国ために生きる責務があるだ、それがこの体たらくだ)

 リーグの失望と憤りは深い。

 ならば……

「アト、ジル――」

 しばし沈思していたリーグが弟子を呼ぶ。

「私はしばらく、この地を離れる。ふたりはのこりなさい」

「どちらへ?」

 驚いてジルが訊ねる。

「今は云えぬ」

 穏やかなリーグの物云いであったが、それ以上訊ねることができないものがあった。

「私がもどってくるまで、王の館に仮寓できるよう話をつけている。どれほどの期間になるかはわからぬ」

「あたしを、ゾントに置き去りにしようということではございませんか?」

 ジルがこわばった声で訊ねる。アトはばかなことを云うなと、肘でつつく。ジルはすぐにしゅんとなる。

「申し訳ございません。ですが、この国に来てから、訳のわからないことばかりが立てつづけで……」

 リーグは優しく弟子に笑いかけた。

「必ずもどってくる。ジル、そなたを置いていくようなことはせぬ」


(つづく)

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