夜の訪問者

 ベルセーヌ大陸の最西方に、セイラムは位置する。リーグが拠点とする街のひとつで、放浪の中もっともよく訪れる。なじみの宿もあり、ジルと歳も近い娘も立ち働いている。

「明後日に、ご領主の館へご挨拶にうかがう」

 宿に着くと、リーグがそう云った。 領主とは二十年来の知己である。

 リーグとアトは同室だが、ジルはひとり部屋だ。寝台があるだけで、身体を横にしなければ入れないほどのせまい部屋だが、夜露に濡れないだけでも充分だ。

 今日はこれから何もすることはない。ジルは荷ほどきをして、街の浴場へ向かう。

 最後に湯を使ったのは、ひと月以上前のことだ。ジルたちの旅はほとんどが野宿だ。ときおり湖や川で身体を洗うぐらいで、ある程度大きな街でなければ湯につかる贅沢などできない。

 素裸になり、湯気のたつ洗い場に腰を下ろす。身体中垢だらけだ。髪も砂だらけのぼさぼさで、指を通せばきしきしときしむ。洗い粉をたっぷりと使って湯箆を使うと、魚のうろこのように垢が落ち、髪や身体から茶色の湯が流れでる。そこはさすがに女子おなごであるジルは、やはり身体の汚れが落ちると幸せな気分だ。垢を落とし、たっぷりの湯につかり身体の芯がふやけるほど温まる。

 湯煙の中、いくつもの人影がうごめいている。今の時分、夜の店に出る女たちが多い。胸も腰も豊満な年長の女たちが、時間をかけて丁寧に身体を磨いていくのを見るのはおもしろかったが、真っ黒に陽に焼け、古いもの新しいものいれ混ざった切り傷やあざ、虫さされの跡だらけの自分の貧相な身体とひき比べると、街の大人の女はきれいなものだと、劣等感を刺激される。

 少女から大人のものへと変貌しつつあるジルの身体であるが、細い腰回りはともかく、腕から肩、背中、さらに尻から腿にかけては、剣の修行と長旅に鍛えぬかれたたくましい肉がついている。街の女とは、身体の造りがそもそも違う。


* * *


「……お師匠様が寝てから、降りといでよ」

 リーグとアトとともに夕餉をとるために階下へ降りたとき、ソリアがこっそりジルに耳打ちする。

 宿はめし処も兼ねている。一杯呑みに来ている者もいる。普段は野宿ばかりだから、たまの街でこのような騒々しさは心を沸きたたせるものがある。そういえば、アトはあまり街の喧騒を好まない。

 腹を満たしたジルが粗末な寝台に寝転がっていると、やがて酔っ払いたちの喧騒は失せていった。街の規則で夜五つの鐘が鳴れば、もう出入りはできない。しとみ戸ごしに伝わっていた街路のざわめきも少しずつ小さくなり、夜警の声、それに野犬やみみずくの鳴き声がかすかに聞こえるだけだ。

 リーグとアトの隣室も静まりかえっている。

 ふたりとももう寝ただろうと見当をつけ、足音をしのばせて廊下に出る。ぎしぎしと床や階段を鳴らしながら、薄暗い階下へ降りる。

「ジル、お久しぶり」

 イーブリーンとソリアの姉妹は卓についており、灯りを落として声をひそませている。

「少しぐらいはいけるじゃろう?」

 ソリアがにやりと笑って酒壺を持ちあげた。

「へへ、少しぐらいは……」

 手早くみっつの酒杯に酒がそそがれる。三人の女は軽く酒杯を打ち合わせる。

 ソリアはジルと同じ歳ごろ。姉のイーブリーンはみっつ上だ。姉妹ふたりは健康そうな丸顔がよく似かよっている。赤褐色の髪は姉の方がやや濃い。ジルが物心ついて以来使っている宿だから、ふたりは遠い親戚のような感覚だ。

 今は姉のイーブリーンが婿をとって、親父を手伝って宿屋を切り盛りしている。そしてソリアの方も、嫁ぎ話がもう固まっている。

「イーブリーン、大きくなったねぇ、びっくりした」

 ジルが姉の丸いお腹を見やり云った。

「秋にゃあ産まれるけんのぉ」

「男の子? 女の子?」

「そねぇなん、産まれてみなけりゃわからんじゃろう」

 ソリアがジルのものの知らなさに、呆れた声を上げる。

 酒杯を傾けながら声をひそめて、歳ごろの若い娘たちのたわいもない話に花が咲く。やがて遠慮のないあけすけな話になってくる。

「それより、あなた、どうするつもりよ? このままずっと、あちこちふらふらと放浪するの? 嫁き遅れてしまうわよ。女子おなごは所帯持って、子を産まなならんのよ。女子が剣術に精を出したって、どうしようにもならないでしょう?」

 年長者らしく、イーブリ―ンが心配げに訊ねる。

 今日のように追いはぎに襲われて、撃退したこともある。自分がとっくに人を斬ったことがあるなどと聞いたら、このふたりは卒倒しかねないだろう。

「女は男に抱かれて一人前よ」

 訳知り顔でソリアが云うと、ジルはふふんと笑う。

「自分だって、まだ所帯も持ってないくせに……」

「あら……ふふふ」

 ソリアが余裕しゃくしゃくで笑みを浮かべる。ジルが愕然とする。

「ま……まさか」

「まさか、何? あら、あなた何を連想したの?」

「まさか、こっ、婚前前に……契った……?」

「皆、そんなものよ」

「……ふっ、ふしだらだ!」

「契るとはまぁ……」

「ジル、あなた意外に助平なのね」

 ジルは顔をおおって卓に突っ伏してしまった。耳が真っ赤になっていた。

「あんたも歳ごろなんやけん、アトと所帯持ってしもうたらええちゃん?」

 ふたりは余裕でジルをけしかける。

「そんな、まさか」

 ジルは本当に驚いて、素っ頓狂な声をあげた。

「そがいに驚くのなぁ?」

「アトは弟分よ、まさかそんなこと」

「血がつながっとったっけ?」

「あたしたちは、ふたりとも捨て子」

「弟? あなたの方がお姉さん?」

「歳ははっきりわからないけど、絶対あたしの方が歳上、間違いない」 

 ふたりは、あきれたように顔を見合わせる。

「アトは顔立ちも悪うないし、あの“大地の騎士”様のお弟子で、剣も遣える。リーグ様のご推挙があったら、ご領主に剣術指南として仕えることぐらい、あながち夢やないわよ。この街にも気にしとる娘も多いわよ」

「まさか」

「うかうかしとったら、鳶に獲物かっさらわれていくわよ。あたしだって、所帯持つ約束した男がおらな……」

「何云ってんのよ。冗談じゃない、あんな、ちび」

 ジルの唇が不機嫌そうに尖る。

「あなたの方が大きいの?」

「薄切りのピェンの厚さぐらい……あいつの方が……今は……」

 悔しそうにジル。姉妹は大笑いする。

「それに、あいつ、お師匠様やあたしから撃たれて、顔中腫らしてみっともなくべそをかいてたのよ」

「そりゃ昔の話じゃろう?」

「アトなんか、たいしたことないわよ」

 悔しそうに云うジルに、姉妹は顔を見合わせる。

「旅中で、ちらとでもお互い気にすることあったんちゃん?」

「ない」

「本当?」

「イーブリーンもソリアも、何でそんなことばかり云うのよぉ……」

 むくれるジル。口調が怪しくなっている。姉妹は酒も出す食堂で働いているだけあって、まるでしっかりしたものだった。


* * *


 そのとき、宿の扉を遠慮がちに叩く音がした。

 三人は顔を見合わせた。もう真夜中に近い。泊り客も皆もどり、めし処も閉めている。

 扉を叩く音はあきらめない。間を開けて執拗に何度も繰りかえす。

 姉妹はとまどっている。このような時刻に扉を叩く者に、警戒するのは当然だ。

 逆に今まではんなりとしていたジルの眼が鋭くなる。座っていた椅子を手にすると扉の脇に潜み、姉妹に動くなと手で制する。

 再度、扉を叩く音がする。

「どちらさまですか?」

 ジルが応じる。

「……リーグ様がこちらの宿にお泊りと……」

 屋外から男の声が返ってきた。声はひそめられているのが感じられた。

 なぜそれを知っているのかとジルはいぶかしんだが、リーグはセイラムでも領主との親交もある。ここを定宿にしていると知っている者はいるだろう。

 ちらりと後ろを見やると、ふたりは強張った表情をして寄り添っていたが、イーブリーンが強くかぶりを振った。

「……泊り客のことはお答えしかねます」

「宿の方ですか? 私は怪しいものではございません。リーグ様にお渡ししたい書簡があります」

 男の声には切迫したものがあった。

「あなたは誰ですか?」

「申し訳ございません。お答えすることはできません」

「もう戸締りをしています。得体の知れない方をお入れすることはできません」

 ジルが低く答えると、屋外の男はあせった声をあげた。

「お待ちください、リーグ様は私の用件をきっと聞かれます……では扉の下から紋章札を差し入れます。それをお見せください。私がどこの者かおわかりになるはずです。ようやく探しあてたのです。どうかお願いいたします……」

 ジルは顔をしかめて迷っていると、ごそごそと扉の下のわずかな隙間から、掌におさまるほどの札が本当に差し入れられた。

 しばし躊躇したが、結局ジルは紋章の刻印された薄い金属札を手にした。円の中に三段の波濤が刻まれたその紋章札は、無論ある程度の地位がなければ持てない代物だ。

 ジルが少し悩んだが、後ろのソリアに手渡し、リーグに見てもらうよう頼む。

「少々お待ちください」

「あぁ……大変申し訳ありませんが、紋章札は必ずお返しいただけないでしょうか」

 屋外の男の声は、ちょっと情けなさそうだった。

 妹は札をもって階段を上がっていったが、待つほどもなくリーグと共に降りてきた。後ろには同室のアトもおり、ジルたちが吞んでいた卓をじろりと見下ろした。

 夜も遅いのに、釦留めの上着をきちんとまとったリーグは、片手に剣を下げている。無造作に扉の閂を開ける。

 屋内の細い灯りが、扉の前にたたずむ男を照らしだした。きちんとした身なりの、小柄の中年の男であった。あたりをはばかるように角灯の明かりを覆いで隠し、ほっとしたような表情を浮かべていた。

「戸締りをしたのはわかるが、この者入れてかまわぬか? 迷惑はかけぬ」

 リーグは振りかえると姉妹に訊ねる。

「さほどかかりませぬ」

 屋外からも男が云いそえる。姉がとまどいながらも、うなずく。

 リーグが男を従え、階上の部屋に上がっていった。後にはジルとアト、姉妹がのこった。

 アトは頑丈な扉をわずかに開けて顔を出すと、鋭く左右に眼を走らせた。このあたりは風紀がいい。通りは闇に包まれている。

「誰かいるの?」

「いや……」

「アト、あれは誰?」

 ジルが訊ねても、アトも知っているわけがない。かぶりを振るだけだ。

 

 ――さほどときはかからずに、男はひとりで階段を下りてきた。

「皆様、大変お騒がせをいたしました」

 安堵したような表情で丁寧に会釈をし、屋外に消えた。

 アトが閂をかける。

「アト、ジル――」

 階上からリーグが顔をのぞかせた。

「予定が変わった。明日の朝、発つぞ」

「え――明後日は、ご領主様へのご挨拶では……?」

 ジルが驚いた。

「ご領主には断りの書簡を出す――ふたりとも、申し訳ないが明朝、宿を発つ。宿代は約束どおり五日分払う」

 リーグは最後はそう姉妹に伝える。


(つづく) 

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