ゾントへ
翌朝、イーブリーンとソリアの宿を発った師弟は、まっすぐ西へと向かう。
「お師匠様。どちらへ参るのですか」
「ゾントだ」
道中、ジルが訊ねると、リーグは簡潔に答えた。ジルもアトも首をかしげた。聞き憶えはない。
セイラムの街ではリーグは固く口を閉ざし、行先を教えなかった。初めて行き先を伝えられたが、どのような用件で急遽予定を変えたのか、リーグは教えようとしない。ひどく用心しているように、ふたりには感じられた。
師弟の脚は早い。わずか四日でオーフの分水嶺を越えると、そこから先は西域であった。ベルセーヌ大陸でも警戒されている東方諸国とは異なり、西方諸国との関係は良好であり商いも盛んだ。そのため、ものものしい関所も少なく、すんなりと出国できた。
そのまま十日ほど街道を歩きつづけ、とある峠の頂にいたると不意にリーグは脚を止めた。
リーグの視線の先を追ったアトとジルが、大きく眼を見開いた。
連なる峠と峠の先に、大きな湖があった。はるか遠くであるのに、峰がとぎれた一帯が、陽の光を反射してきらきらと一面銀の草原のようであり、その先は深い青で果てが見えない。ふたりがこれまで見たこともない大きな湖であった。
「大きな湖……」
思わずつぶやいたジル。
「あれは海だ」
「海! あれが海?」
リーグの答えに、ジルは興奮して叫んだ。アトも呆然としている。
耳にしたことはある。だが本当にあるとは思ってもみなかった。
「大きい……」
ふたりがこれまで見た沼や湖など、くらべものにならない。
「ベルセーヌ、ノイマンド、ふたつの大陸を合わせたよりも、もっと広いと云われている」
「まさか?」
ジルは眼をみはった。彼女たちが産まれて十数年歩き回ったベルセーヌ大陸よりもまだ大きなものがあるなど、とうてい信じられなかった。
「本当に、水がしょっからいのですか?」
恐る恐る訊ねるジルに、リーグは笑いながらうなずく。ふたりは、塩辛い水など想像することもできなかったのだ。そのような水、飲むこともできなければ、畑にまくこともできないだろうに。
それはふたりにとって初めて見る海であったが、まだいくつか隔てた峠の彼方で、本当の大きさを眼の当たりにすることはできない。
ふたりはリーグにうながされるまで、我を忘れて遠くはるかに見える海を凝視したままだった。
* * *
師弟の旅路はそのあたりから、南へと向きを変える。峰に隠れて、いつか海は見えなくなった。
人家が多くなりはじめた。石造りの家屋が目立つ。
「お師匠様、このあたりは?」
「クリョという国だ」
歩きながら訊ねるジルに、リーグは言葉少なに答える。リーグは少しでも早く先に行きたいようであった。それが珍しく感じられた。
広大な――などという言葉では表すこともできないほど広いベルセーヌの大地を歩いてきたジルたちにしてみれば、これらの国々は小領ぐらいの規模ほどしかないように感じられる。
さらに三日ほど脚早に一行はすすむと、また人の姿がまばらになっていく。
やがて関所が見えてきた。木柵が街道をさえぎるように幾重にも巡り、ふたりの兵卒が木戸前に刺又をついて屹立している。通過しようとする者は皆、並んで順番を待ち、その木戸内に通されて詮議を受けているようだ。
「何やら、物々しいですね?」
列に並んだジルは顔をしかめる。リーグも無言でうなずく。列は少しずつ動き、ようやくリーグたちは木戸の中に通された。
詮議所は薄暗く、幅広の卓が中央にすえられ、ふたりの役人が椅子に座していた。四隅には剣を手にした兵卒がひかえている。
「手形」
横柄な様子で役人が命じる。リーグは黙って、かくしから手形を卓に置く。
役人は疲れきったような顔でとじ紐を解き、記されていることがらに眼を通す。
「名」
不要なことを口にするだけで損だとでも云いたげな様子である。もうひとりは口を開こうとすらしない。
「リーグ。こちらはアトとジル」
「何をしに国を出る」
「行商だ」
「ゾントになぞ何もないぞ、干した魚だけだ。猿のような連中しかいない」
役人はそのときだけ、かすかな嘲るような笑みを口元に浮かべた。
「そのような所に、商売人が何をしに行く? 大体、貴様ら歩きではないか、そのようなことで商売になるか」
「商売をする者には、商売をする者なりのやり方がある」
「何もない所に行くはずはなかろう。何をしに国を出る、不審だ」
役人は疑り深い、いやな眼付きになった。リーグの後ろでジルが顔をしかめた。
「国を出るのではない、通過するだけだ。私たちはイーステジアの臣民だ。手形にも書いている。不審とは、イーステジアの臣民に疑いをかけるつもりか? クリョの役人に咎められるいわれはないぞ」
いつになく、リーグの言はきつかった。ジルもアトも、内心驚いた。師は普段、このような権高い物云いをすることはない。
役人もかすかに表情を変えた。他国の手形を持っている者に、ひるみをおぼえたものらしい。四隅の兵卒にも緊張が走った。
わずかな沈黙の後、リーグはかくしから何かをつかむと、そっと卓にすべらせた。それは幾枚かの銅貨であった。
途端に詮議小屋の中に、ほっとした安堵の空気が流れた。
役人はちらと銅貨を見やったが、まるで興味のないふりをして手形を卓に置き、押しやった。
「どうやら不審なことはなさそうだ――行っていいぞ」
その白々しさは、ある意味見事であった。
* * *
「あのような木っ端役人にわいろを渡すなんて、信じられません」
ジルは憤慨していた。関所を通過するのだから、当然関税は払っている。さらに袖の下まで渡すなど、ばかばかしいとしか思えなかった。
「もめごとは避けたかった、少しでも早くクリョを出たかったからな」
「それにしても、あのようないやな関所はめったにありません」
ジルは唇をとがらせる。ジルはリーグに連れられ、あちこちの関所を通っている。国境を越えるときですら、あれほど高圧的な対応はされなかった。おまけに袖の下が堂々とまかりとおっている。
関所が見えなくなったころ、人の姿が再びまばらになる。
荷車のわだちの跡がまっすぐ延びる道が南に向かう。リーグたちがすすむのは、平原であったが、あちこちに疎林がみられ、膝までしかない草地のところどころには、ごつごつした荒々しい岩が顔をのぞかせている。このような土地は地味がよくないので、作物の根付きも悪い。だからこれほど閑散としているのだろう。
平原はゆるやかに登っていく。
関所を通過して、およそ半日も歩いたころであろう。アトとジルは、空気が変わってきたのに気がついた。風が強くなる。
そして登りきった場は、いきなり開けた。
ジルが思わず声をあげた。
視界の左半分は青々とした海面であり、右半分には草原や森林が広がっているのがみとめられた。とたんに、風にのって不思議な匂いがした。それが潮の匂いなどとはふたりは知らない。
平原はまたゆるやかに下っている。その先は左手が刃物で切りつけたような湾であり、その斜面に無数の家屋がへばりつくように密集している。その斜面を上がりきった所に館がみとめられ、その周辺には比較的広い屋敷がある。さらにその先には延々と延びる草原と木立であった。
「トカラの港街だ」
とリーグが云う。箱庭のようなこじんまりとした街であった。
「この国はゾント。そしてこの街がその中心トカラだ。あそこに見えるのが――」
リーグは斜面が登りきった場所の大きな館を指さすと、ひどく感慨深げにつづけた。
「ゾントの王が住まう館だ」
ひときわ風が強まり、ジルの短い髪までも激しく乱した。
(つづく)
風の道しるべ 衞藤萬里 @ethoubannri
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