一年前の再演(14)

 ――――魅了は。


『好き』という気持ちを乗っ取る魔術だと、ジュリアンは言った。

 もともと好きな相手がいる場合は効きやすい。恋人や片想いの相手がいるのであれば、その想いが魅了をかけた術者への想いへとすり替わるのだ――と。


 心が弱っているほどに魅了への抵抗力は失われ、相手への想いが深いほどに魅了の効果は強くなる。

 好きであればあるほどに、大切であればあるほどに――その喪失が大きいほどに、心は捕らわれ戻れなくなってしまう。




「――――あ、ああ……あああああ……!!」


 静まり返った大広間に、か細く震える悲鳴が響く。

 姉は卿を見上げたまま、現実を拒むように頭を振った。

 瞳を潤ませ、両手で体を抱く姉の姿は、まるで幼い子どものようだ。

 ずっと張り続けていた意地も虚勢も、今の姉からは剥がれ落ちていた。


「知っていた、知っていたわ。私、殿下の話を聞いたのよ……!」


 気丈な琥珀の瞳が、今は弱々しく揺らぐ。

 虚勢の落ちた彼女の顔に浮かぶのは、もはや隠しようもない悲しみと、後悔の色だった。


「隣国で。オルディウスで。私のせいだって、わかって……私があのとき、あんな態度を取ったからだって!」


 だけどそのときには、もう取り返しはつかない。

 なにもかも、終わってしまったあとのことだ。


 姉は国外追放され、卿は王太子の座を失った。

 戻ろうにも戻れない。会おうとしても会うことはできない。言い訳の言葉も、謝罪の言葉も、後悔さえも届かない。

 失意の底で、姉には嘆くことしかできなかった。


 きっとそれが、姉が魅了に落ちた理由。

 自分が追放されたことではなく、尽くした国に捨てられたことでもなく――。

 自分のせいで、王太子であった卿が失墜した。その事実こそが、姉を打ちのめしたのだ。


「なのに、どうして私、忘れて……! どうして、ああ……ああ!!」


 卿を映す琥珀の瞳に光が戻る。

 長く正気を失っていた、暗い影の落ちた目が、燭台の火に照らされて光る。


 その光は、すべてを思い出した姉からあふれた、涙の反射だ。

 強情で意地っ張りな姉の本心が、頬を伝って零れ落ちる。


「……ルシア」


 だけど、涙に濡れた姉の姿はすぐに隠された。

 姉の前でヴァニタス卿が足を止め、膝をつき、姉を守るように抱き留めたからだ。


「いいんだ、ルシア。もう過ぎたことだ」

「でも、ですが、私は――――」

「君は後悔してくれた。これほど、深く嘆いてくれた。……私には、それで十分だから」


 姉を抱く卿の顔も、私からは見えない。

 きっと、姉以外の誰にも見ることはできないのだろう。

 ただ、卿の静かな声だけが大広間にこだまする。


「だから――もう大丈夫だ、ルシア」


 その声も途切れたあと。大広間を満たすのは、すすり泣きの声だった。

 疲れたように、力を失ったように、姉は今度こそ卿に縋り付いて泣いていた。


 一年前と同じ大広間。一年前と同じ顔ぶれ。

 一年前のあの日をもう一度やり直すような光景に、息を呑む音さえ途絶えた。




 ただ――――。


「――なんだこれは! なんだこの茶番は! 僕は聞いてないぞ!」


 たった一人、この男を除いては。


「フレデリク王子だ!? どうしてここにいる! み、魅了……くそっ! くそくそくそ!!」


 もはや態度を取り繕うことも忘れ、テオドールは声を張り上げた。

 魅了もおそらく、今の姉には効かなかったのだろう。焦りもあらわに立ち上がると、テオドールは逃げ場を探して大広間をぐるりと見回した。


 視線が順に、大広間にいる人間をとらえていく。

 壇上にいる、ジュリアンと側近たち。

 隣室の前に控える、リオネル殿下と護衛たち。

 大広間の左右をふさぐ重臣たち。

 それから――。


 大広間の中央に一人立つ私を見て、その視線が止まる。


「――――リリア!」


 はっとしたようにジュリアンが叫んだ。

 声を上げたときには、もうテオドールは駆けだしていた。


 私のさらに背後にある、大広間の入り口を目指しているのだろう。

 テオドールは迷わず壇上から飛び降り、まっすぐに私のもとへと駆けてくる。


「どけ、邪魔だ!」


 逃げ道に立つ私へ、テオドールの手が伸びてくる。

 なりふり構わない乱暴な手つきに、周囲の人々がざわめいた。リオネル殿下の護衛やフィデルの兵たちが、私を守ろうと慌てて飛び出すのが見えたけれど、間に合わないのは明らかだ。


 血相を変えたテオドールの手は眼前。

 逃げる余裕などない。誰かが割って入る時間もない。

 テオドールの手が私を掴む、その寸前――――。


「リリア――――!!」


 ジュリアンの、彼らしくもない絶叫が大広間に響き渡った。





「やってやれ!!!!!!!!!!!!」





 ――――もちろん。


 返事の代わりに、私は握り続けたこぶしに力を込める。

 そのために、こんな損な役回りを引き受けたのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る