魅了魔術(2)

 人の物音も途絶えた深夜。

 部屋には姉の声と、近づいてくる足音だけが響く。


「あなたが嘘で築き上げた立場が崩れるから? みんなが私を信じるから? ……でも、これは全部あなたが私にしてきたことよ。あなたは自分でしたことが、そのまま返っているだけ」


 姉の声は落ち着いていて、だけどどこか上ずっている。

 表情も平静を保っているように見えるけど、琥珀の瞳は感情に揺れている。

 どこか狂気じみた気配をまとう姉に、私は無意識に扉の先を見た。


 ――人を……。


 呼ぼうとして、私は声を出す前に口をつぐむ。

 そもそも、今外にいる人間は頼れるのだろうか?


 そんな私の迷いに気付いたのだろう。

 姉はまた笑みを深くする。


「人を呼んでも無駄よ。あなたの味方は、もう誰もいないわ。私がみんなに真実を伝えたもの。あの追放は卑劣なあなたが企てたもの。私を追放したのは間違いだった――って」

「…………」

「ちゃんと話して、わかってもらったわ。あくまでもあなたの味方をしようとする人たちにも、全員」

「…………それは」


 扉から目を離し、私は姉に視線を戻した。


 今の姉は、昼間よりもさらに簡素な格好だ。

 飾りのない寝間着めいたドレスに、軽く垂らしただけの髪。化粧をしている様子もなければ、宝飾品の類も一切ない。よく見れば履いている靴も、室内用のものらしい。


 まるで、寝起きにちょっと部屋を出たというようにしか思えない。

 こんな格好で王宮を歩いていて、見咎められないはずがない。

 普通なら、すぐに部屋へ連れ戻されているはずだ――――なら。


「それは、魅了魔術を使って自分を信じるようにさせたということですか」

「そう、わかっているのね」


 私の問いに、姉は驚くくらいあっさりと頷いた。

 魅了魔術は伝説級の古代魔術。それ一つで国が傾くと言われるほどのものだ。


「私は魅了魔術を発現させたの。もう使える人間はいないと言われる、古代魔術を」


 そんな魔術を、発現させてしまった。

 その事実が、本人の口から聞いた今でもまだ信じられなった。


「ねえリリア、私の言いたいこと、わかっているでしょう。これがどういう意味かわかるでしょう?」

「…………お姉様」

「魅了魔術で、私はこの国をあるべき姿に戻す。テオドール様と一緒に、私がみんなを助けてあげるの。――だけど」


 そこで、姉は一度言葉を切った。

 口を閉ざし、無言で私を見据える一瞬。

 燭台の明かりの下に、姉の顔が浮かび上がる。


 細められた目。つり上がった口角。引きつるように歪んだ頬。

 あまりにもいびつな――笑みとすら呼べない表情に、私は無意識に足を引いていた。


「あなただけは魅了しない。他の誰を魅了しても、絶対に。――――あなただけは、正気のまま私たちを見ているのよ」

「………………」


 言葉は出なかった。

 体がかすかに震えていた。

 息を呑み、拳だけをきつく握りしめる私を見て、姉はふっと嘲笑うように息を吐いた。


 それで、話は終わりだった。

 姉は用が済んだと言いたげに私に背を向け、やはり悠々と部屋を出て行った。


 その肩にある、魔術を発動させた証である赤い紋様を、私に見せつけるようにして。

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