第31話 甘い誘い
音がする方に歩いて行くとリビングに辿り着いた。
「着替えた?やっぱダボダボだったか。」
笑いながらそう言ってくる推しはマグカップにお湯を注いで何やら作業をしている。湯気は彼を包み込んでそれすらもかっこよく見えてしまう。
入った部屋は自分が住んでいる部屋よりもずっと広くて、綺麗に片付けられていた。生活感はいい意味で感じられない。それに家具の配置、色合いも統一されてシックな雰囲気でまるでモデルハウスのような部屋だった。
「ほら、遠慮無くどうぞ。」
マグカップを両手に持ちながらきっちりとおもてなしをされた。それでも緊張と申し訳なさから立ち止まることしかできない。
推しはローテーブルにマグカップを置き、ソファに腰掛けた。そして、その隣を二回易しく叩いて「ほら、ここ。」と招いている。その手に招かれるように恐る恐る近づく。そんな至近距離に座るなんてありえない。近づくごとに心臓の音がボリュームアップしていくのがわかる。
「なんでそんなに挙動不審なの?」
笑いながら問いかけてくる推しに対してさらに心臓がうるさくなる。
「そんなに緊張しなくていいよ。」
そう言われてしまうとさらに緊張してしまうようなきがするけれど、もうそこは無視してしまおうと招かれたソファにそっと体重をかけた。
「はい。これ。」
渡されたマグカップからは暖かい湯気と甘い匂いが漂っていて、その甘い誘いにまんまと引っかかってしまう。
横を見ると冷ましながら一口ぐっと飲む推しがいて、その横顔はとても美しかった。それに誘われるようにマグカップに息を吹き込んで飲むとココアの甘い味より熱さが先に来た。
「あつっ。」
小さく囁いた言葉は推しの耳にもしっかり届いていていたようで、その言葉に反応してこちらをじっと見つめていた。その眼差しが恥ずかしくて耳が赤くなるのがわかる。
「あ、ごめん。なんかかわいいなって思って。」
かわいいと言われてさらに恥ずかしさが増す。こんなことをナチュラルにしてくる推しはもう罪で、私という人間の心をまんまと誘拐してしまう。今までだって散々心を奪われてきたのに、こうやって直接でも私の心を盗み取っていくのはずるい。
「ドライヤーしちゃおう。そこ座って。」
指差されたのはソファの下で言われた通り地べたに座った。推しはドライヤーにコンセントを差してスイッチをオンさせると風が吹き出て自分の髪の毛がなびくのがよくわかる。
「自分で乾かせますから。お構いなく。」
「いいの。やらせて。」
人に髪を乾かして貰うなんて美容院に行くぐらいで、その美容院だって1年以上に行ったきりで久しぶりの感覚に緊張する。しかも、美容師ではない推しということにさらに緊張が上乗せされる。
そのまま数分座り続けて、心臓はうるさいまま髪を乾かすと水分で重かった髪も軽くなって本来の状態を取り戻した。
「よし、完璧。我ながらに上出来だわ。」
乾かし終わって上機嫌な推しは用意されていたマグカップを手に取って口に含ませた。
「今日は連絡くれてありがとう。」
その言葉で初めて推しの顔をまともに見れた。彼はソファに座っていたのにも関わらず、地べたに座って一緒な目線の高さになる。
「普通に考えて数回あっただけの男にそんな簡単に相談とかしずらいのかなって思ってたけど、今日連絡が来たときちょっと安心した。」
安心したということはそれまで私のことをどこかで心配していたということ。でも、なぜという疑問が頭に真っ先に出て来た。たった数回会っただけ、それでここまで心配する理由がわからない。それにこんな一般人の女に簡単に連絡先を渡してしまう理由を知りたくなってしまった。
「あの、なんで教えてくれたのですか?その、連絡先を。」
「祖母の知り合いの関係で会ったってことが1つ。あとはファンだって言った割に冷静だったからかな。」
私は記憶のなかからあの日の出来事を必死に思い返しながら話の続きを聞いた。
「初めて会ったときどこか暗い顔してたのが気がかりだったというか。何かに縛られているように見えた。それであの君のおばあさんが『料理ができて』とか『いい子で』とか言い出して、それでこの子はそういう考えに縛られてそのレールを歩かされてきたのかなって思って。それで何となく勘づいたというか。」
まさに言っているとおりだ。察しがいい。
「でも、あのあとに『ずっと応援していた。』って聞いて、ファンだったんだって。それなのにそんな素振り一切見せなくて、この子なら連絡先渡しても大丈夫だって確信した。」
思い起こしてみれば確かに推しが目の前に現れたことは驚いた。一瞬はこれが夢だって思ったし、こんなことで遭遇なんてありえないとも思った。でも、自分が置かれている状況を考えるとそれは二の次。祖母が私を売り込んだとき“推し”ではなく“部外者”と見てしまった。祖母が勝手に選んで、勝手に次のステージに行かせようとするために必要とされる人。だから推しとして、今まで応援をしてきた好きな人としてあの日は見られなかった。
「俺、こんな職業だし、特に女性関係は気をつけないといけない。それなのになんでかな。決めてたんだよね。次会ったら連絡先を教えてあげようって。なんでそう思えたかはっきりとはわからないけど、放っておけなかったのかも。なんかどこか似ているような気がした。」
私が知る限り今まで大きなスキャンダルはなし。特に女性関係はゼロ。誰がどこから見ても完璧なアイドル。そんな人が私のためにここまですると言うことは相当なことだと思う。
推しが言っていることもわからなくはなかった。他人が見ている自分とそうじゃない自分の境が明確ではない。今まで私が置かれてきた状況もそうだ。自分と言う存在はみんなに知れ渡っていて、私が何も言わなくても私の情報を知る術はあちこちにある世界。そして、みんなが気になっている。他人がどうやって生きているのかを。そして、アイドルは自分の全てを出していく。それが需要があるから。それを考えると似たもの同士だと言いたい気持ちはわかった。その反面、自分が商品だという言葉に胸がチクりと痛んだ。
「何があったか聞かないけど。」
その言葉で頭によみがえる。今までの就職活動のこと。地元に住んでいたときの窮屈さ。やっとここまで出て来たこと。それでも押しかけた祖母。決まらない仕事。それが私を襲うようにどんどん溢れてきた。その時にはもう遅くて、私の目から静かに涙が頬を伝っていく。
「何かあったらいつでも連絡していいからね。」
そして、私は彼の甘い装いにどんどん惹きつけられていた。
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