第7話 まろやかな苦み

 こんな形での推しとの遭遇があっただろうか。少し後ろを歩いているのは完全に森田涼真。ちょっと天然さもあるがこれはさすがに誤解以前にストーカーみたいじゃないかと不安になる。


 真面目さと天然さを掛け合わせたような人。自分の意思や考えはかなりしっかりと持っていてその真っ直ぐさに惹かれた。でも、普段はかなりの天然で少年っぽい部分も持っている。そんな人間性に惹かれるファンは多い。

 そんな人が今後ろを歩いている。そんなのおかしい。そう思っていれば店まであっという間についてしまった。


「あの、山口です。着物返しに来たので。」

「こちらへどうぞ。」

 歩いて5分ぐらいにあった場所に1時間半ぶりに帰ってくる。


「早かったですね。」

「ちょっと急用ができまして。」

「そうですか。残念ですね。それで上手くいきましたか?」

「なにがですか。」

「一緒にいらしてたお婆さまが結婚相手なんだとそのようなことを言っていましたので。」

 やっぱり私の勘は当たっていた。食事会と言う名のお見合いみたいなもの。これは相手の人にも悪いなと思う。

 そうやって言っていたのかと思うとさらに気持ちは沈むが、相手が推しだから嫌だという感情を抱くのも変な気がする。


 帯の締め付けがなくなるとすごく楽でさっきまでの苦しさが嘘のよう。夏の夜に着物を着て歩いたせいでかいた汗を持って来ていた制汗シートで拭き取る。これで苦しさからも汗の気持ち悪さからも解放された。


 店を出ると外はすっかり暗くなっていた。少し離れたところから近づいてくる推し。

「このあと予定ある?」

「特にないです。でも―」

 ここで予定がないからと一緒に過ごすのはさすがに心臓が持たない。でも、嘘は吐きたくない。

「でも―?」

「でも、明日早いのなら休んだ方がいいのでは?」

 なんて上から目線なんだと内心焦る。推しの大切な時間を奪いたくない。その気持ちが勝ってしまってそんなことを言ってしまう。

「そんなの気にしないで。俺、ショートスリーパーだしなんとかなるよ。」

 確かに言われて見ればゲーム配信を朝まで続けていたことなんて山ほどあったなと思う。

「いいから、こっち来て。」

 言われるがままついて行く。私は何をしているんだと内心ずっと思い続けている。ライブだって行ったことあるけれどこんな距離でしかも会話だなんて。そんなことされたことない。


「何か飲む?」

 道路に面したおしゃれなカフェの看板を見ながら聞いてくる。これは夢だからと思いながら会話を続ける。

「じゃあ、カフェオレで。」

「わかった。ここで待ってて。」

 店内に入って注文をしている。こうやって見ると同じ人間なんだなと思う。

「はい、カフェオレ。」

 渡されたのはカップにストローが刺さったカフェオレで氷もたくさん入ってまだまだ冷たい。

「ありがとうございます。」

「あそこで飲もうか。」

 指差した先の広場にあるベンチに腰掛けた。2人で1つのベンチ。しかも相手は推し。もう意味がわからない。


「あっ。お金。いくらでしたか?」

「そんなのいいよ。大丈夫。」

 会話は長く続かない。顔を見られない。俯いたままカフェオレを一口飲んだ。口の中に広がるコーヒーの苦さがミルクでまろやかになっている。


「ごめんね。なんか。」


「何がですか?」

「暑かったでしょ?着物着るの。」

 さっきの食事のことを気にしているんだ。でも、どちらかと言うと悪いのはこっちで勝手に着物を着ていっては途中で抜け出す私の方が悪いと思う。


「いえ、私の方こそ。途中で抜け出したりなんてして。」

「無理しないで抜け出したんだ。何も悪いことなんてないよ。でも、琴葉さんよく似合っていましたよ。せっかくなら写真の1枚でも記念に撮ってもらえばよかったですね。こんな写真しか撮ってないですけど。記念にいります?」


 スマホ画面には後ろ姿を撮った私の写真が映し出されていた。さっき返しに行く途中に後ろから撮っていたのだろう。こんなにフォローされてしまってもう視界がぼやける。気遣いと優しさが傷ついた心に染みる。しかも、名前で呼んでもらって。でも、名前を言った覚えはない。


「なんで、名前知っているんですか?」

「あ、あなたのお婆さんが“琴葉”と読んでいたのでそうなのかなと。違いました?」

「いえ。合ってます。」

 こんな形で推しに認知されるなんて最悪だ。全然嬉しくなんかない。もう恥ずかしさと申し訳なさから顔は上げられない。


「あの、森田涼真さんってあのアイドルの方ですよね?DREAMERSって言う。」

「そうそう。何だ気づいてたんだ。」

「いえ、あの。ずっと応援してました。いつも元気もらって、救われてきました。だからこれからも頑張ってください。」

 そう最後に勢いだけでそう言い残してその場を去ろうとした。


「待って。」


 呼び止められて振り返る。自分より15センチぐらい高い彼に今まで感じたことのない男らしさを感じた。画面越しの彼はグループのなかでも小柄。勝手にかわいいと思っていたが、実際は小さな私より大きいんだ。わかっていたはずなのに、今やっとちゃんと理解した。


「このあとはどうするの?」

「ホテルに行きます。明後日の夕方には地元に帰ろうかなと。」

「タクシーでホテルまで送るよ。もう暗いし、女の子1人で夜道は危ない。」


 タクシーが来るまで無言を貫いた。いきなり目の前に推しが現れて話せと言われても無理だ。緊張と嬉しさと恥ずかしさで埋め尽くされるだけでそれ以上は何も考えられない。

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