第10話 夜襲
小屋の外からは子供の悲鳴のような音やバタバタとした大きな音が聞こえている。
「おい、ヒカル! 起きろ!」
その声が、眠りという甘い誘惑からヒカルを引き戻した。クリップの声は、焦燥と不安に満ちていた。それがクリップの中に生じている緊迫感を物語っていた。
「んむぅー、クリップ……どうしたの? 畑仕事はもう終わったよ?」
ヒカルは目を擦りながら目を覚ました。小屋の隙間から月明かりが差し込んでいる。夕飯だろうか。日が暮れる前には目覚める予定だったが、寝過ごしてしまったらしい。
「いいからよく聞け! 外が騒がしくて何か様子がおかしい」
クリップの目には明らかな恐怖と焦燥が宿っていた。それは普段彼の顔には見られない表情で、彼の心の中で何かが起きていることを強く印象付けた。
異常とも言えるクリップの表情にヒカルはハッと我に返った。
(ユースティティア。外で何かあった?)
ヒカルはすぐに頼りになる新たなパートナー、ユースティティアに問いかけた。
『………………』
しかし、ユースティティアからの反応はなく、ヒカルは背筋がゾクリと凍りつくような感覚に襲われた。
(っ!!! ユースティティアどうしたの!? 返事をして! ユースティティア!)
ヒカルは心の中で再び必死にユースティティアを呼びかけたが、静寂だけが返ってきた。その反応のなさは、何か異常な状況が進行していることを物語っていた。
その時、外に出て周囲の様子を見て来たジンがバタンとドアを開けて帰ってくると、再びバタンとドアを勢いよく締めた。彼は息を荒げていたが、その顔は血の気が引いて青白く、その眼には恐怖に満ちていた。そして、息を落ち着かせるために深呼吸を繰り返すと、ジンは周囲の恐怖の現状を語り始めた。
「暗くてよく見えなかったけど、何人かの男達が近くの小屋を回ってるみたいだ。しかも、みんな剣みたいなのを持ってる。奴らが入った小屋から悲鳴みたいなのも聞こえたかと思うと、急に静かになる。ここにいたらマズイ! たぶん殺されるぞ!!」
ジンのその引き攣った声と言葉、表情は、部屋の空気を震えるほどの寒さに変えた。ヒカルとクリップの顔から色が消え、彼らの中にある全ての活力が奪われてしまったようだった。
「急いで逃げるぞ!」
ジンの怒鳴るような声が小屋に響き渡り、クリップはその声に応えて立ち上がった。しかし、ヒカルはガクガクと足が震えて立ち上がれなかった。
殺される。
それを意識した瞬間、ヒカルの全身を恐怖が走り抜け、力が瞬時に奪われ、立つことすらできなくなった。
「大丈夫か? ヒカル。今は怖いかも知れないけど、このままじゃマズイ。早く逃げるぞ!」
クリップの手が弱ったヒカルの肩にを無理やり持ち上げ一歩ずつドアへ歩みを始めた。二人のその後ろ姿には、一線を画した緊張と絶望が混ざり合っていた。
そして、ジンがドアを開けるとそこには見知った顔の男が立っていた。
「よお〜ガキども……元気か?」
ドメフだ。右手には大きな剣を持っており、その剣先からは何かがポタリ……ポタリ……と
雫にようなに落ちていた。
血の匂い。
それはハッキリと分かった。しかし、これほど濃密な刺激臭は前世でもあまり嗅いだことはなかった。脳を刺激する生臭く、鉄臭く、腐臭の籠った匂い。よく見ると返り血だろうか、ドメフの顔や鎧にも血がこびり付いていた。
それを見たジンは震え上がり、その場で動くことができなくなった。その次の瞬間、ジンの腹をドメフが思い切り蹴りつけた。
ジンは吹き飛び床を転がった。気を失ったのか、ピクリとも動く気配はない。
「ジン!」
クリップが悲痛な声をあげた。ドメフの笑みが一層広がる。
「おいおい、すぐに気絶するとは腰抜けだな。……次はお前達の番だ」
ヒカルの頭が真っ白になる。世界がゆっくりと回転し、まるで水中に沈んでいくような感覚が全身を包んだ。彼の視界にドメフの野獣のような顔が迫ってくる。酒の匂いと血の臭いが鼻を突き、吐き気が込み上げてきた。
「どこへ逃げるつもりだったんだ? ここから出られるとでも思っていたのか?」
ドメフの低く嗄れた声が彼の耳に響く。ヒカルは言葉を出すこともできず、ただ目の前の恐怖に思考は完全に停止していた。
しかし、心の奥底では怒りが湧き上がってきていた。目の前で友人が蹴られ、自分たちは殺されると脅されている。それなのに、自分はただ静かに見つめるしかなかったのか? どうしてこんなことになってしまったのか?
彼は涙と共にこの世界に抗議の叫びをあげた。しかし、その叫びは口からは出ず、心の中に留まり続けた。
突如としてドメフが大声を上げた。
「さあ、始めるぞ! お前たちの命はもうオレのものだ!」
その怒声によりヒカルの停止していた思考は、急速に動き出した。
(どういう事だ。なぜジンが倒れている? ドメフのあの格好はなんだ? なぜ剣を持っている? 鎧なんて今まで着ていた事はなかっただろう? それにこの濃密な血の匂いはどういう事だ? そして、なぜドメフは……笑っている?)
疑問が次々に湧き上がり、答えが出ずに積み重なっていく。
状況を上手く整理できない。心臓の鼓動は高鳴りやけに大きく聞こえる。酷く喉が渇く。
その時、耳元でクリップが囁くのが聞こえた。
「ヒカル、俺がドメフの右腕に飛びつくからその隙に外に逃げろ」
クリップの言葉にヒカルは動揺した。
「えっ! ジンとクリップは?」
「ジンはあのザマだ、しばらく動けないだろう。俺はジンを置いていけないし、仮に2人で逃げるとしても外に出るのは難しい。誰かが時間を稼がないとな。3人の中じゃ俺が一番体が大きい。俺が適任って事だ」
恐らく聞こえてはいないはずだが、ヒカルとクリップが会話しているのをドメフはニヤニヤしながら余裕の表情で見つめている。
「でっでも……」
「でもじゃない! 良いか? ヒカル。俺とジンにとってヒカルは弟みたいなもんだ。実を言うとなジンは最近お前の様子がおかしいのをかなり心配してたんだ。それは俺も同じだった。兄貴達が男見せようとしてんだ、少しくらいカッコつけさせろよ!」
ヒカルは自然と涙が溢れ出した。
「良いか? タイミングは一瞬しかない。俺がドメフに飛び付いたら迷わず逃げろよ? 絶対にチャンスを無駄にするんじゃないぞ!?」
そう言い残すとクリップはドメフ目掛けて突っ込んで行った。
「おっ? 相談はもう終わりか? でもただ突っ込んでくるだけじゃつまらねな!」
ドメフは小馬鹿にするようにクリップに言い放つと剣を片手で振り上げた。クリップはそれを気にせずそのまま突っ込んで行くと剣が振り下ろされた。次の瞬間、悲鳴が聞こえた。
「ぐあああっ!」
野獣のような驚愕と絶望、そして、強い怒りに満ちた悲鳴が鳴り響いた。ドメフが片手で右目を抑え、苦痛に身を捩じらせている。
振り下ろされる剣の行方を読み、クリップは体をひねって紙一重で剣をかわし、同時に手に隠し持っていた小さな木の枝をドメフの右目に突き刺したのだ。
「ヒカル! 今だ! 逃げろ!」
クリップの声は、魂を削るような叫びだった。
ヒカルは目の前の状況に戸惑い、一瞬だけ世界が止まったかのように感じた。しかし、クリップの全力の行動に凍り付いていた体と心に火が付いた。足が自然に動き始め、怖さを押し込めて小屋の扉を飛び出した。
外は微かな月明かりだけで、視界は限られていた。狭い視界の中で、目指すは壁の外に続く門。しかしジンが言っていたように、そこには彼以外にも男たちが見張っている。
恐怖を味わいながらも、見つからないようにヒカルは遮蔽物を探し、慎重に移動の方向を決めた。
移動しながらもヒカルはクリップとジンは無事だろうか? と言う疑問が消えなかった。一度頭を少し整理するためにも少し立ち止まって考えるべきだろう。
ドメフの右目には細い枝が突き刺さっていた。クリップは藁布団に紛れ床に散らばっていた枯れ枝を武器にしたようだ。
剣に対して小枝で挑んだクリップの勇姿がヒカルの目に鮮明に刻まれている。一時的にでもドメフを無力化できれば、クリップがジンを助け出すことが可能かもしれないと、ヒカルは希望を持っていた。
そんな時だ。
「だれ!?」
突如として甲高い声が夜を引き裂いた。ヒカルはびっくりして声の方を振り向いた。
ヒカルの背丈ほどもある木箱が無秩序に横たわっている一角の木箱と木箱の間から声が聞こえた。
暗くて良く見えないが、二人の少女たちがひっそりと肩を寄せ合い、まるで猛獣から逃れる子羊たちのように震えているようだ。
そして、次第に目が慣れ、二人の少女と目が合った。少女たちは、ヒカルを警戒の目で見つめていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます