夢と、履きつぶしたスニーカー

 帰り道の自転車、押して歩く。

 乗って帰れば良いんだけども、なんとなく、ゆっくりひとりで、歩きたい。

 もう夜の十一時になろうとしている。それでも、一人の家に帰るまでの時間を稼ぎたくなったのだ。

 それくらい私は珍しく考え込んでいる。

 勉強が得意ではなくて特に好きなことがあるわけでも、なにかに秀でているわけでもない私は、それでも毎日なんとなく楽しく自分の人生を生きているつもりになっていた。

 けど、その言葉――夢を持つことは自分の人生の手綱を握ること――が、じっとりと、夏の夜のむさ苦しさにかく汗みたいに背中にまとわりついた。



 水泳の授業終わり、疲れてあまり働かない頭で受ける授業は、総合だかなんだかよくわからないやつで、その日の内容は『進路を考える』というものだった。

 配布されたプリントを四つ折りにして、スクールバッグのポケットに入れて帰宅して、すっかりその存在を忘れてしまう。

 提出期限当日、私はもう一枚そのプリントをもらって、適当に県内の短大の名前を書いて提出した。

――と、言う夢を見た。

 起きぬけ、あのプリント、カバンに入れたんだっけ、と思いながら、いや、自分は果たして高校生なんだったか? と自問。ややあってじわじわとよみがえる現実の感覚。私はその進路調査のプリントに書いた短大も卒業して、今はスーパーのアルバイトをしている。

 只今午前十一時。今日のシフトは、午後三時から十時まで。

 外は結構な大雨。平日だし、今日のお客さんは少ないかもしれない。退屈だったら嫌だな。

 録画していた金曜ロードショーを見ながら、朝昼兼用のご飯を食べて出かける準備をする。

 この前買った防水仕様のローファーに合わせて、この夏ヘビロテしている古着のワンピースを着る。服が濡れたときに備えて、リュックにTシャツと短パン。それにタオル。

 何度見たか分からない展開にハラハラして、海賊ドーラの人情に胸を熱くし、ラストの『君をのせて』で目頭も熱くして、簡単にメイクを済ませて準備万端。

 ゆっくり歩いて行くために、いつもより三十分早く家を出る。

 十分ほど歩いていると、強かった雨脚がゆるゆると弱くなってきた。もう更に五分くらいすると、傘もいらないくらいの小雨こさめになり、店につく頃には雲の切れ間から光が差して、空にうっすらと虹がかかっているのを見つけた。

 いつも通りタイムカードを押して、急いで着替えて、朝礼を済ませる。今日は店長じゃない、別の社員さんが朝礼担当だ。

 ふと私は、自分が前に立って朝礼の音頭を取るのを想像する。


 午後三時過ぎのフロアは少し閑散としていた。

 何人かこなしたうちのレジのお客さんの中に、昨年サラダ油を余分に買っていこうとしたお客さんがいた。

 当たり前にお客さんはお節介店員の私のことなど覚えてもいなさそうだったけれど、去年よりも曲がった腰をさすっていたので買い物かごをサッカー台まで代わりに運ぶと、ニコニコと「ありがとうね」と言ってくれた。

 四時が過ぎ、五時になり、少しずつお客さんは増えてきた。

 六時になると、すっかり天気はよくなったようで、水色にオレンジが混ざった空がヴィチナートの窓からも見える。


 もう少し時間が経った頃合いくらいの空の色みたいな、ネイビーのジャージを着たお客さんが、カートも使わず、重たそうに買い物かごを持ってきた。

「久しぶり、カップ麺くん」

 驚いた私は何となく彼の名を呼ぶのをはばかられて、妙なあだ名で呼んでしまった。もうカップ麺は買い物かごの中にないのに。

「翔だよ、僕の名前。竹田さん」

 知ってるよ。と言いたくなるのを我慢する。

「今日は、カップ麺じゃないもんね」

 少年の目を覗き込む。背筋をピンと伸ばしているのか、いつもより少し背が高い気がする。

「そうだよ。今日はカレー作るの」

 確かに買い物かごの中には、玉ねぎ、人参、じゃがいもなど定番の野菜に、鶏肉と、カレールーの箱。

 胸の中が、柔らかくて温かいもので満たされるような心地がする。

「食べろ食べろって言ってた野菜も入ってるよ。それにお肉も。今日はチキンカレーにするんだ」

 そう言う少年は、年相応の無邪気な笑顔を見せた。

 私は少年の頭をワシャワシャと撫でてやりたくなる気持ちを抑えながら、商品を一つずつ、いつもよりゆっくりとレジを通す。

「でも、ルーは中辛なんだね」

「今日はお母さんの誕生日にカレーを作るんだ。だから、お母さんの好みに合わせて、中辛」

 ふーん? とニヤニヤしながら、以前より少し大きく見える少年に視線を放つ。

「翔くん、その格好は?」

 私は、いつものブカブカのブレザーではなくて、指定の体操服らしきジャージを指して訊ねる。ああでも今は夏だから、もうブレザーではないのか。

 胸元には刺繍で「正木」と入っている。

「これは……」

 突然バツの悪そうな顔をするので、私はまさかと思った。

 制服を隠されるいじめとか、そういう古典みたいなやつ? 令和の今でもあるの?

 頭が良くて、家庭環境が特殊なこの少年はけれども確かに、ターゲットになりやすそうだ。

「……最近部活に入ったんだ。美術部。絵の具で……ブラウス汚しちゃったから……」

 安堵あんど。そしてなるほど。

 さしずめお母さんに悪いと思ってしょんぼりしているのだろう。しかもよりにもよってお母さんの誕生日に。

 賢い少年だから、お母さんの仕事を増やしてしまって申し訳ないと思ってるんだろうな。なんて健気なんだろう。

「翔くん、大抵の汚れはウタマロ石鹸で落ちるよ。固形のやつ。たーっぷり泡を作って洗うんだよ」

 私は渾身こんしんのドヤ顔で知識を披露する。悪態をつかれるだろうかと思っていたけれど、翔くんの反応は想定外だった。

「落ちるんだ! よかった……。うたまろせっけん、このお店にもあるの?」

 翔くんはつかの間安心したように胸をなでおろし、それから目をキラキラさせて私をみつめてきた。

 ――これが守りたい笑顔ってやつか。胸がきゅんきゅんする。

「あるよ。そこ右行って、四つめの通路の左側。あ、でも、隣のドラッグストアのほうが三十円安いからおすすめ」

 平静を装ってそう教えてあげると、翔くんは「竹田さん、ありがとう」と照れ気味に言った。

 それから、カレーの材料分のお金を支払い、ネットスーパーのチラシを指さして破顔はがんした。

「最近はよく、お母さんとネットでお買い物するんだ。だから僕がお買い物に来る必要もあまりなくなったんだけど、また来るね」

 来なくても大丈夫だよ。そんなことより、お母さんと、アレが良いコレも食べたいってたくさんおしゃべりするんだよ。

 言う代わりに、レジを離れゆく履きつぶしたスニーカーを見送った。

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