本物の夏

 自転車でヴィチナートまでの道を走る。

 風を切って自転車をぐと、涼しくて気持ち良い。急いでいるわけでもないのに、ついスピードを上げたくなってペダルを踏み込んでしまう。

 だから信号待ちで足を止めると、汗がどっと吹き出てくる。

 太陽は高いところでさんさんと輝いていて、雲に邪魔されることなくじりじりと私の首の後ろをく。

 暑さで息をするのもしんどくなる直前くらいの気温。七月。二十四歳フリーターの私は今年も、夏休みみたいな毎日に本物の夏を迎える。


 従業員用の入り口を通って冷房の効いた事務所に向かう。

 タイムカードを切った瞬間から、私はヴィチナートの店員になり、この街みんなのおとなりさんになる。

「おはようございまあす」

「竹田さん、おはようございます」

 昼の二時だけど、朝の挨拶を爽やかに交わす店長と私。

「あれ竹田さん、また昨日も遅くまで飲んでたの?」

 店長はどうしたって迫力のない優しい顔をしわしわにして私をとがめる。

「いやまあ、たしなむ程度に……」

「ふうん……。あ、そうだ竹田さん、ちょっと 」

 手招きされて、店長の座るパソコンやら資料やらが置いてあるデスクに近づく。

 店長は、パソコンのモニターに映した、お決まりの『お客様の声管理シート』というファイル名のエクセルを指差した。

「今度はお褒めの言葉?」

「これ、読んでごらん」

 そう店長が指し示すセルはだいだい色に塗りつぶされている。私に見せるために目印をつけてくれていたらしい。

[先日、若い女性の店員さんに、ネットスーパーがあることを教えていただきました。仕事などであまりスーパーに寄る時間がなく、食べ物は近所のスーパーで毎週末買いだめをしていたのですが、荷物も多く大変でした。それが、家まで品物を届けてもらえるネットスーパーを教えていただいたおかげで、とても楽になりました。あれから何度かネットスーパーを利用させていただき、子どもと何が食べたいかとかの話をしながら、楽しく買い物しています。教えてくださって、ありがとうございました]

 これって……。

「お客様の個人情報だから、ここだけの話なんだけど……。先月くらいから、二週間に一度くらいの頻度で、正木さんのお宅からネットスーパーの注文が入るようになったんだ」

 小柄な女性の、ハッとしたような顔を思い出した。あのときの表情、あながち気のせいでもなかったのかもしれない。

 あれ以来、少年と出会うことは格段に少なくなっていた。たまに来ても、前みたいに毎回私のところに並ぶわけではなく、他にいているレジがあれば、そちらに並んでいる様子だった。

 なるほど。お母さんと楽しく買い物しているから疎遠そえんになっていたということか。

「竹田さん、お手柄だね」

「店長こそ」

 友達にするみたいに肘で小突くと、店長は少し苦笑いをした。

 口ではそう言いながら私は、ちょっぴり寂しいな、などと湧いてくるエゴを押し込めている。

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