訪問と偏見

 児童相談所職員の元谷もとや澄江すみえは、通報を受けた翌日に、正木まさきしょうの家を訪問した。

 築二十年余の四階建てアパート。

 澄江は今年で五十一歳になる身体で三階までの階段を一気に登った。

 駅から十五分歩いて汗ばんだ額と首筋をハンカチで押さえ、息を整えてから三〇三号室のインターホンを鳴らす。

「こんにちは。正木さんのお宅で間違いないでしようか」

 二呼吸ほどの間があり、それから応答ボタンが押されたらしく室内の音がスピーカーを伝わる。

 澄江が注意を払っていなければ聞き逃してしまうような、か細い声が応えた。

『はい』

 澄江は、カメラ機能の付いていないインターホンに向かって、ほがらかな笑顔で再度声を放つ。

「こんにちは。わたくし、児童相談所の元谷と申します」

『……はあ』

 警戒心があるわけではないがしかし事態を飲み込めていないような困惑した声が、アパートの廊下に転がり落ちる。

 それからしばらくしてがちゃりと開いたドアはチェーンロックがかかっており、一度閉まってから再度開いたドアから、正木まさき絵里えりの小柄な体と部屋の内部の一部が、澄江の目にようやく確認された。

「こんにちは、正木さん。わたくし、児童相談所職員の元谷澄江と申します。本日は、翔くんのことで訪問させていただきました。――翔くんのお母様の、正木絵里さんでいらっしゃいますね」

 絵里は表情一つ変えず「はい、そうです」と返事をした。

 ほんの少しだけ絵里よりも背が高い澄江は、軽くお辞儀をするようなかたちで、自然に視線を合わせる。

 見開いても人より少し細い目が、真っ直ぐ絵里を捉えた。

「今日、翔くんはお家にいらっしゃいますか?」

「いえ。出かけました」

「そうなんですね。どちらに行かれたのですか?」

「さあ――学校か、図書館か……公園とかですかね」

 伏し目がちに答える顔には狼狽うろたえるような気配はなく、本当にわからないといった様子である。

「公園には、お友達と一緒に?」

「わからないです」

 絵里は、三十七歳の年齢には不釣合ふつりあいな、少女のような無垢さで首をかしげる。

 澄江は人の良い笑顔を浮かべたまま、本題に入った。

「今日は、翔くんが夜遅くまで公園に一人でいる、と通報をお受けしたので、訪問させていただいたんです」

「そう、なんですか」

 通報を受けた、と伝えたときの親の反応は、怒ったりショックを受けたりと様々であるが、絵里は極めて薄いリアクションを示した。

 通報による訪問はすなわち虐待を疑われていることを示唆しさすることであるのに、絵里はまるで気にしていない様子であった。

 澄江はその絵里の表情と、その後ろに覗く片付きすぎなくらいにさっぱりした部屋の様子から、普段の生活ぶりを想像する。

「失礼ですが、絵里さんは翔くんと二人だけでこのお家に住んでいらっしゃるのですよね?」

「ええ、まあ」

「絵里さんは普段、お仕事は何を?」

「会社で、事務員をしています。派遣で」

「なるほど、祝日の今日はお休みなんですね」

 こくりと小さな頭が頷く。

 澄江は、玄関のドアを開けたまま児童相談所職員である自分と立ち話することに対して、絵里が何のためらいも示さないことに気がついた。

 多くの親は近所の目を気にして嫌がり早く帰ってほしがるか、家の中に招き入れてドアを閉めたがる。

 その様子が絵里には一切見られないのだ。

 自分の置かれている状況が、まるでわかっていないかのように。

「お一人で男の子を育てるのは大変でしょう。ご実家はこのお近くで?」

「実家は……北海道です」

 そのとき、絵里の固い表情に、かげりが見られた。

 自身の生育環境に問題を抱えているケースは、いわゆる虐待を行う親に、よく見られる。

 澄江は絵里のその表情を頭に入れておきつつ、翔が通う学校の名前、翔の学年や年齢を把握しているかの確認を目的とした質問を投げかけた。

 ネグレクトが顕著けんちょに見られる親は、子どものことを正確に把握していないケースが多いが、絵里が答える口調には淀みなかった。

唯一、「翔くんの与野国際の受験は、絵里さんがすすめたのですか?」という質問には、「そうだった、ように思います」と曖昧あいまいに答えた。

 その後しばらく考えてから「地元の学校は嫌だって言うんで、学費がかからない与野国際なら良いかな、って思ったんです」と思い出したように付け足した。

「翔くん、お勉強がよくできるんですね」

「ええ、まあ」

 我が子の優秀さを褒められていることに対して答えるその口調には、何のてらいもためらいもない。

 それは誇りからくるものではなく、まるで他人のことについて答えるような雰囲気すらある。

「お勉強が得意でも、まだやんちゃ盛りのご年齢かと思います。――万一のときなどに、周りに頼りになるような方はいらっしゃいますか?」

「頼り、ですか。あまり……いません」

 あまり、とはいうものの、澄江が話をよくよく聞けば、翔の同級生の親とも今までほとんど話したこともないし、近所付き合いも一切なく、全く他人とのつながりがないという状態だった。

 実家の親や兄弟とも一切連絡を取っていないとの言葉が出てきて、澄江は、やはり、と内心思った。

 絵里は多かれ少なかれ自身の生育環境に問題を抱えている。親子の愛を、絵里自身が理解していない可能性が高い。

「お母さん、落ち着いて聞いてくださいね」

 澄江は、おだやかな声で語りかける。

「私たちは、翔くんと絵里さんとの関係が適切に築かれているかを判断し、必要に応じて翔くんを保護しなくてはいけません」

「はあ……。適切、ですか」

「ええ。夜中に一人で公園にいた、とのことですが、翔くんはつい最近まで小学生だった、まだまだ子どもです。なにか事件に巻き込まれてからでは遅いんです。――夜中といっても、九時半ごろなんですけどね。お母さんは、その時間帯は?」

「仕事が終わって、電車に乗っているくらいの時間です」

 澄江は、絵里ともう一度視線を合わせた。

「絵里さん。絵里さんがお仕事を頑張ることは、もちろん翔くんのためだと、私達は理解しています。今まで一人で、本当によく――」

 気を張ってこられたことでしょう。でもね、と澄江は口元に笑みを浮かべた。

「もっと、周りに頼ってください。子育ては、はじめは誰にとっても、初めてなんですよ。なんて、当たり前のことですね」

 ふふ、と澄江が笑いかけると、絵里も少し表情をほころばせた。澄江はいささか安心して続ける。

「生活をすぐ変えることはできません。変えなくて良いんです。ただ、翔くんとお話してあげてください。少しのことで良いんですよ。今日一日何があったとか、何が食べたいかとか――どこに出かけるかとかを。聞いてあげてください」

 絵里は、目を丸くして話を聞いていた。澄江にはそれが、まるで今まで知らなかったことを学び取るような表情に見えた。

「あくまでも一般的な話をすると、翔くんはこれから、反抗期に入ります。反抗期に入れば、絵里さんが驚いてしまうような反応が、翔くんから返ってくるかもしれない。けれども、話をすることはやめないでください。その気持ちを隠すか隠さないかの違いがあるだけで、子はみんな、親の愛を必要としているのです」

 澄江は、視線を落とす絵里の両手を柔らかくつつんだ。

「示してあげてください。あなたの愛を。翔くんが理解できるように、示してあげてください。だからそのために、わからないことがあればいつでも私達を頼ってくださいね」

 ――はい、と、固い響きの小さな声を、澄江は確かに聞いた。

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