立ち去れ!ガニ股男!

 ギャラリーからの帰り道。左手に高島屋たかしまや、カラオケ店、マクドナルドを通り過ぎて横断歩道を渡って大宮駅に着くと、たくさんの人が往来おうらいする中に、私が持っているのと同じフライヤーを持った男性を見つけた。

 精悍せいかんな顔つきを、泣き出しそうにゆがめている。

 男性は何かを迷っているように、交番前と、さきほど私が渡ってきた横断歩道の間を、行ったり来たりしている。

 猫背の後ろ姿。フライヤーを大事そうに両手で持ち、折り目に沿って丁寧に折りたたんではそっと開くのを繰り返している。

「あの。そちらの個展に行かれるなら、ここをまっすぐ行って、次の交差点で信号を渡って右ですよ」

 怖いもの見たさのような、意地悪のような、衝動に似た気持ちに突き動かされ、私は男性に話しかけた。

「五十嵐春子さんの個展、私も行ってきたんです」

 そう言って、男性の手の中で小さくなったフライヤーを指す。

「私、先生の教え子だった者です」

 男性はしばらく私の手元を見下ろして、それから小さく応えた。

「はあ、そうなんですか」

「失礼ですが、春子さんの旦那さんではないですか?」

 単刀直入。男性は、一瞬怪訝けげんな顔をしたけれど、案外素直にすんなりと「ええそうです」と応えた。

 五十嵐ヒデトが目の前にいる。私は彼のことを一方的に知っている。知っているのは、最低最悪の一面だけ。

 だからどうしても意地悪な気持ちがこみ上げてくる。

「何かを迷われているようですが、どうかされましたか?」

「いえ、そういうわけでは」

 言葉とは裏腹に、大柄な体を縮こまらせて、今にも潰れてしまいそうだ。

 その姿を見たとき、私の意地悪な気持ちが心のなかにとどめきれず、外の世界へ吹き出した。

「私、ヒイラギさんの知り合いでもあるんです。竹田と言います。――あなたも、ヒイラギさん、ご存知ですよね?」

 言葉が漏れ出てくる。正義感も配慮も何もない。あるのはただのお節介な怒り。

「ヒイラギさんに、たくさん色んな嘘をついてましたよね? 離婚してないのに離婚したって言ったり、お子さんがいらっしゃるのにいないって言ったり」

 通り過ぎる人々が時折ときおり私達を振り返るけれど、構わず続けた。

 さっきまでは大切そうに折りたたまれていたフライヤーが、男性の手の中でクシャクシャになっている。

「私は逃げたんです。失う恐ろしさに耐えられなかったんです」

 口ぶりは淡々としているのに、手を細々こまごまと動かしたり、視線はずっと下に落ちていたりで、何を考えているかがわかりづらい。

「私は春子に心底惚れていました。三十年前、何度も猛アタックしてようやく付き合えた、まさに高嶺たかねの花。明るくて無邪気で才能に溢れた春子が好きだったんです」

 男性は、フライヤーについた皺を伸ばすように、何度も何度も無意味に表面を撫でている。ほんのわずかに胸が痛んだ。

「もう今となっては、何もかもダメなんです。私がダメにしてしまった。二年前、春子はやまいで余命を宣告されました。それより少し前から体調は良くなかったようでしたが、本人はあまり気にせず、元気に過ごしているようでした。だから私も気にしないようにしていました。でもきっと、そこからダメだったんですよね」

 立て板に水。その話す勢いは、私がさえぎっても止まらないような気がした。

「現実を見ないように、見たくないものを遠ざけてきました。春子の不調も大したことないと思い込んで考えないようにして、実際に春子の体が取り返しの付かない状態になったときには、元気で明るくて才能ある妻がいなくなってしまう未来から、目を背けて現実逃避した。僕は、人を騙す上に意気地いくじのない、どうしようもない男なんです」

 男性はそこまで言い切ると、私に会釈一つして、それから駅構内へと歩いた。追いかけて、私も室内に入る。

 人いきれで、生ぬるい空気をもわっと感じた。

「個展、行かれないんですか?」

「……春子が亡くなる二日前に、お見舞いに行ったのですが、門前払もんぜんばらいをくらったんですよね。不貞ふていを働く旦那の顔なんて見たくなかったんでしょう。――でも、このおよんで、私は少し、希望を持ってるんですよ。私はずっと、強くて明るい春子が好きなのだと彼女に言い続けてしまいました。春子は僕を拒絶したのではなく、僕に弱った姿を見せないようにしたのではないか、と。もう亡くなって、話せない春子相手に、勝手に、期待をいだいてるんです」

 大きな円柱型のインフォメーションを通り過ぎて改札へ向かう。

 まめの木の前で立ち止まり、私に向き直って続けた。

「その、希望に、すがり続けていくには、僕が春子や聡真の近くに行くことは、やめたほうがいいと思うんです」

 そう言い残して改札の中に入ろうとするのを、私は咄嗟とっさに通せんぼして阻止した。

「……個展に行かれないなら、これ。差し上げますよ」

 ギャラリーを出るときに聡真さんからもらったポストカードの一枚。夕日の中を歩く男性と子どもの絵。

「この絵、私すごく感動しました。本当に夕日が優しく光っているみたいで」

 私がぶっきらぼうに差し出したポストカードを、フライヤーに触れていたのよりも更に丁寧な手付きで、受け取った。

「これが個展に飾られていたんですか」

 ポストカードを胸にき、次の瞬間にはハラハラと涙を流し始める。

 初対面の大人の涙に、それまでの自分の中に煮えたぎっていた怒りは完全にぐ。

 そして次第に、意図的に傷つけようと放った言葉を後ろめたく思う気持ちが湧いてきた。

「……飾られてましたよ。ギャラリーの一番奥に……」

 ヒデトさんは何度もそうですか、と、ありがとう、を繰り返して嗚咽おえつした。

 しばらくして落ち着いたのか、ヒデトさんは沈痛ちんつうな面持ちで頭を下げた。

 私は、ひとり、去ってゆくがに股の後ろ姿を見送る。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る