そんなのないよ

 降りたことのない駅、知らないお寺。

 私よりもいくつか年上と思しき人たちが静かに泣いている。

 聞こえてくる会話の内容から察するに、春子さんが担任していたクラスの元生徒や、美術部顧問をしていたときの元部員の人たちらしい。

 春子さんと同年代くらいの人たちもいるようだ。ご友人だろうか。

 入口に飾られた、よく知った絵。あのときの授業のもの。

 こんもりとした丘に一本の桜が生えていて、その周りには二頭身のデフォルメされた可愛らしいキャラクター。「丘の上の村の子どもたちが春の到来を喜んでいるの」というその絵は、春子さんの名前は元より、明るい本人の雰囲気にもぴったりだった。


 シフト通り仕事をして帰った昨晩、一人ベッドに横たわると色々考えて、全然眠れなかった。そのためか今朝は目が痛くてコンタクトレンズをつけられなかったので、眼鏡を持ってきた。

(はずなんだけど……)

 遠くの人の顔がぼやける。

 私よりも少し年上くらいだろうか。春子さんの息子さんだというその人は、会場の前方で挨拶をしている。

 今日の会は、春子さんのたっての希望で開催することになったらしい。

 春子さんは美術の先生をしていたほか、個展を開催するなどして学内外に幅広く人付き合いがあった。

『自分の葬儀が、みんなの同窓会や集まりのきっかけになれば教師冥利みょうり、芸術家冥利につきる』などと、息子さんが春子さんの生前の言葉を読み上げている。気さくで明るい春子さんらしい。

 春子さんの周りにはたくさん人がいて、ここにいる人たちはみんな、春子さんが大好きだったんだろうな。

 私だって、美術の授業を一年だけ担当してもらった、たまたま近所のスーパーのレジの店員をしている元生徒で、いつも笑顔で声をかけてくれる春子さんが好きだった。

「――母は教師として、芸術家として、そして近所のおばちゃんとして、大変多くの方に仲良くしていただいていたこと、今日の会で僕に見せたかったのかもしれません。いつも母は言っていました。『母さん、お喋りと絵以外は苦手でごめんね。ごはんもいつも茶色いものばっかり、美術の先生なのにね』そう言って、『今日は腕によりをかけてつくったたから』なんて色鮮やかなサラダを出されると、もはや好き嫌いなんて言えません。出されたものは全部食べました。だから僕には、嫌いな食べ物はありません。何でも大好きです。食べられるものは何でも美味しい」

 会場のすすり泣く声に「岡村先生なら言いそうねえ」なんて控えめな笑い声が交じる。

「母の『ちょっと出掛けてくる』がちょっとで済んだことは僕の記憶にありません。とにかくよく喋る母は出歩くたび知り合いの方と出くわし、話し込み、帰ってきたときには日が暮れている。そんなときは決まって、人参やじゃがいもの入っていない、火の通りが早いきのこやほうれん草がたっぷりのカレーが晩御飯になりました」

 ああ、私にも想像がつくなあ。ネイルに見惚みとれてお買い物もそこそこに話しかけに行こうとした春子さんを思い出す。あのとき結局、妹尾さんとは話せたのだろうか。

「数年前から母は、僕に寂しい思いをさせた、としきりに謝るようになりました。たしかに母が家にいる時間は普通のお母さんよりは少なかったかもしれないです。家にいてもキャンバスに向き合って絵を描いていることが多かったです。でも、その背中を見て育った僕は、気付けば母と同じ教師の道を歩んでいました」

 彼はうつむき、何度か深呼吸をしてから続けた。

「岡村春子……いや……岡村は旧姓でして、すみません、みなさまには馴染みがないかもしれないかもしれませんが、呼ばせてください。五十嵐いがらし春子はるこ、僕のたった一人の母、最も尊敬する人は、二年間、病に苦しみました。でも、家族には不安そうな顔一つ見せず、最期は僕に笑顔を見せ、旅立ちました」

 マイクを通して聞こえる震えた声と、無数の忍び泣く声。

 唯一、私だけが場違いに、マイクを握る男性の顔を、視力〇・一の世界で捉えようと躍起やっきになる。

「僕は、母さんの息子で本当に幸せでした」


 笑みを浮かべる春子さんの写真の脇には、春子さんが描いた花の絵がまるで本物の花みたいに並べられている。

 参列者たちはになりその花の絵を眺めて、時折ときおり涙を拭きながら親しげに会話している。

 知り合いのいない私は所在なく一人ぽつねんとしていたのも束の間。

「本日は、母のために来ていただきありがとうございました」

 この人とこんな場で出くわすのはさすがに何かの間違いだと思いたくなる。

「あ……あの、私……、竹田と申します……」

 名乗るのが、なんとなく白々しい感じがして気が引ける。けれどもそうするよりほかに仕方がない。

「本日は来ていただきありがとうございます。竹田みやこさん、ですよね。母からよく聞いていましたよ。高校で一年間授業を担当したのを覚えてくれていて、スーパーで声をかけてくださったと」

 もはや何を耐えたらいいのかわからなくて、食いしばる歯が痛い。

 大変なときにわざわざ店まで案内を持ってきてくれたのは他の誰でもない、このそうさんだろう。

 感謝の言葉を伝えようにも、いま何か喋ると、耐えているもの全てが溢れ出してしまいそうで、私はただぶっきらぼうに会釈を繰り返した。いくらか言葉は交わしたが、気もそぞろとはまさにこの状態だろう。

 私は、春子さんの笑顔の前から逃げ出したくなるような気持ちを抑えてその数時間を過ごした。


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