反省!そして次の災難のにおい!

 ヴィチナートから家までは自転車で五分くらい。

 家を通り過ぎてさらに三分ほど走ると、さいたま新都しんとしん駅がある。

 またさらに三分ほど走ると、だだっ広いさいたま新都心公園がある。

 私は公園のベンチに座り、げそ天と缶ビールを開けた。

 さきほどの出来事を一つずつ反芻はんすうする。

 女性の部屋で聞こえてきた男性の声は、明らかに窮地きゅうちに立った状態で、謝ったり弁解したりしていた。

 そして、女性の真っ赤な目。

 私が配達を間違えたことで修羅場になっていることは違いないけど、実際何が引き金になり、何がバレたのだろう。考えてもどうしようもないのに、女性の悲痛な表情が、私の頭の中から消えてくれない。

 考えながら飲むビールはまるで水で、全然酔えなくて困った。

 近くのコンビニでさらにストロングゼロを買って、再び公園のベンチで缶を開ける。一緒に買ったアメリカンドッグにケチャップをかける際、少しこぼしてしまったけど気にしない。

 十階の人、本当の配達先の人、店長、誰か一人くらい叱ってくれたら、こんなにモヤモヤせずに飲めたのにな――なんて身勝手なことを考える。

 晴れない心とは裏腹に、生ぬるい空気を吹き飛ばす風が心地良くて、目をつむると体ごと宇宙空間に飛んでいくような心地がした。深呼吸をすると、草木くさきの香りが鼻孔びこうを満たす。


「――っと、ちょっと、ねえ大丈夫? ちょっと」

 肩を揺らされる。焦ったような声が聞こえてくる。

「ねえ、ねえって。うわ酒クサ」

 目を開けると、黒いジャージを着た妹尾さんが、怖い顔をしていた。

「血でも吐いてんのかと思った。ケチャップじゃん、紛らわしいな」

 黄緑きみどりっぽいネイルの指で、妹尾さんは私の右胸と顔を指す。

 頬をこすると手の甲が赤く染まった。視線を落とすと、ケチャップがTシャツに飛び散っていた。

「何やってんの、いい大人が」

 そう言いながら妹尾さんは私の隣に腰を下ろして、ズボンを履いていても分かる細い脚を組んだ。

「配達……配達行ったら、もらい事故した……」

 さっきまで全然酔ってなかったはずなのに、いきなりアルコールが血の中を巡りだしたみたいに、頭の中がふわふわし出す。

「えっ、事故? やばいじゃん。怪我は? そ、それ、やっぱ血?」

「これは……ケチャップ」

 妹尾さんは人形のように綺麗な目で私を睨んできた。子猫に威嚇いかくされてるような気分になる。

「部屋間違えてさ……配達先間違えて行った部屋がさ、私が間違えたせいで修羅場ったっていうか」

「どういうこと? あんたの彼氏が知らない女の部屋にいたとか?」

妹尾さんはさらりと恐ろしいことを言う。

「違うよう。私は彼氏なんていなくて……。いやそんな話じゃなくて。玄関、女の人が出てきてくれたんだけど、本当の配達先の人のフルネームを伝えたら、部屋の中にいる男性? 旦那さん? と揉め始めて。それから、男の人がひたすら謝ったり言い訳したりする声が聞こえて。そのあと玄関に出てきてくれた女の人、なんだか泣いてたみたいで」

 要領を得ない私の話を、妹尾さんはウンウンと聞いてくれる。そして少しだけうーんとうなってから、人差し指を立てた。

「本当の配達先のフルネーム出したら修羅場ったってことは、謝罪男しゃざいおとこはその名前を聞くなり、何らかのリアクションを取ったってことでしょ」

 立てた指で三角を描き、ところどころ行ったり来たりしている。三人の相関図を描いているらしい。

「そもそも、その女の人は本当の配達先の人の名前を見聞きして、配達が間違ってることにすぐに気付かず、謝罪男に何らかの確認をしたんだよね?」

「そうそう。最初は苗字だけ伝えたの。そしたら、ネットスーパーで買い物したかを、男の人に聞いてたみたいだった」

「ということは、謝罪男と本当の配達先の人の苗字が同じだったのかもね。で、フルネーム聞いてリアクションする謝罪男。それを見て怒って泣く女の人」

 相関図を描く指先の動きが少しずつ遅くなる。それを目で追い、推理を聞いているうちに、酔いがさめてくる。

「その謝罪男の子どもだよ、配達先の人。で、女の人は謝罪男の不倫相手」

 妹尾さんは答えを導き出すと、蛍光けいこうしょくの派手なネイルの指を弾いてパチンと小気味よい音を鳴らした。

「でも、女の人は若かったし、どちらかというと本当の配達先の人との方が歳が近そうだったよ?」

「不倫で本気になる馬鹿女なんて、好きになれば、歳が親子ほど離れてるだとか、お腹がプーさんみたいに突き出てるだとか、ハゲ散らかしてるだとかでも、かえって愛おしく見えるもんなの」

 そう言い終えてからかぶりを振って、「いや違うか」と呟いた。

「馬鹿女に限った話じゃない。女はみんなそう。好きになったら負け。でも、悪いのは嘘をつくやつ。負けた人じゃない」

 妹尾さんは、吊り上げた眉を少し元に戻して続けた。

「もしかするとその女の人、自分が不倫相手だってこと知らなかったのかもね」

「そうなの?」

「さあね。でも今頃あんたに感謝でもしてるかも。あんたが配達先間違えなかったら、永遠に嘘をつかれ続けてたかもしれないんだから」

 なるほど。妹尾さんの言うことは説得力があった。

 納得していると、妹尾さんは「てかさ」と続けた。

「他人のことそんな心配して、なんていうか、パワフルだよね」

「え? 褒めてくれてる?」

「はぁ? 何言ってんの」

「そう言う妹尾さんも、私のこと心配して声かけてくれたんでしょ? 優しいね」

「ランニングしてたら汚物おぶつが転がってたから気になって見に来たの」

 妹尾さんはぷいと顔を背けて、ついでにスマホをウエストポーチから取り出した。

「うぇ、バカ男から電話だ。じゃね、気をつけて帰って、ケチャップ女」

 そういう妹尾さんのスマホには『hide』からの着信画面が表示されていた。


 バカ男……この前聞いた、パパ活だかガールズバーのお客さんだろう。『hide』……間違えた配達先の男性が『ヒデト』と呼ばれていたのは、何かの偶然だろうか。

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