修羅場だ!配達先!
店長がこれでもかってほど
「竹田さん、お願いがあるんだけど」
夜の九時。私のシフト終わりまであと一時間。
今日はもう帰りたい気分だ。もしシフトの延長を頼まれても断る。絶対に断る。
「悪いんだけど、一件配達に行ってくれないかな?ほんとに申し訳ないんだけど」
配達? よくわかんないし断ろう。
――でも、断ろうにも、店長の困り顔を見るとせめて話を聞くくらいはしないとな、なんて思わされてしまう。
「配達部門の子が風邪で休んじゃって、なんとか回してたんだけど、一件だけどうしても手が回らなくて。
可哀想な店長は顔の前で手を合わせて、最後に魔法の呪文を
「原付で行って、荷物を届けて、帰ってくるまで大体三十分くらい。それが終われば十時になってなくても上がってくれたら良いですし、配達の手当も出すので、
――半分の時間で普段の時給、しかもプラスがあるってこと? そんなの、断れる人がいたら教えてほしい。
店長から、配達する品物と原付の鍵を預かって、お店の裏の従業員用駐車場に出た。
駐車場の端には、軽自動車二台分と原付三台分の、配達用車両の専用スペース。今は原付一台を残して、みんな出払っている。
ヴィチナートのネットスーパーは、一回につき最低千円のお買い物から利用可能で、配送料は五百円。アプリかカードの会員になって一年間に三十万円以上の買い物をすると、翌年は月に三回まで配送料無料になる。
そのほか、月間の購入金額が一定額を超えると翌月お試しで一回だけ配送料無料になる、などといった会員向けのキャンペーンも不定期で実施している。
ネットスーパーのサービスを開始して丸二年、これが
配達先のマンションには、八分で到着した。
エントランスが広くて綺麗で、ここで充分住めそう。
インターホンに部屋番号を入力すると、男性の声でどうぞと聞こえ、オートロックが開いた。
エレベーターには住人らしき二人の人物と同乗した。「十階」と「十一階」が押され、たまたま
十一階が目的地だった私は、そのまま乗った。
ボタンが押された
『――はい』
玄関のインターホンからは、女性の声が聞こえてきた。
「こんばんは、ヴィチナートのネットスーパーをお届けに参りました」
挨拶はこんなもんかな。
私としてはかなり配達員っぽく言えた気がするけど、インターホンの向こうはあまりしっくりきていない様子。
『ネットスーパー……? 何か頼んだっけ……今出ますね』
花のような良い香りと一緒に、ドアを開けて出てきたのは、いかにも高そうなシルクのブラウスに水色のタイトスカートを身に着けた、モデルみたいな美女。
家にいるのにしっかりメイクをしていて、特に口紅はまるでさっき塗ったばかりみたいな鮮やかさだ。
「
そう言うと、先ほどまで訝しげな顔をしていた美女は「ちょっとお待ちくださいね」と言って、ストッパーでドアを開けたままにして、部屋の中に戻った。部屋の中では女性と男性の声が聞こえる。
旦那さんの注文なのだろうかと考えながら待つこと間もなく、再び女性が出てきた。
「届け先のフルネームを教えてもらえますか?」
「えっと、
女性の顔が心なしか
玄関から続く廊下の先にはドアがあって、その中でやり取りをしているからはっきりとは聞こえないけれど、これは明らかに男性と女性が揉めている。
耳を澄ますと、男性がところどころ「ヒデト」と呼ばれているのが聞こえてきた。
何気なく荷物に目を落とすと、部屋番号が「一一〇七」と書いてある。続けて表札を見上げると「一〇〇七」――。
頭が真っ白になった。
部屋の中からは、何やら否定と謝罪を繰り返す男性の声が聞こえてくる。
しばらくしてまた女性が出てきたので、私は土下座する勢いで頭を下げた。
「お部屋を間違えてしまったようです。大変申し訳ございませんでした」
大丈夫ですよと声をかけてくれる女性の顔を下から覗き込むと、目が充血して赤い。
「顔を上げてください。こちらこそ、なんかすみません」
美女はこの数分でかなり老けてしまったように見えて、私は瞬時にとんでもないことをやらかしてしまったことを察した。
本来の届け先の五十嵐聡真さんは、若い男性だった。
インターホンを鳴らしてから時間がかかったのを特に怪しむ様子もなく、どうもと一言だけ発して品物を受け取った。
この人なら、何度かレジで見たことがある。
アプリ会員は、レジでスマホを提示する。裏面に記名してある会員カードと違って、名前がアプリの画面に表示されるわけでもないので、通常のお会計を行うだけでは名前がわからない。
とは言え、最初から部屋を間違えていたのではどうしようもない。
店に帰って店長に配達先を間違えたことを伝えると、「慣れないことをさせて申し訳なかった」と謝られた。
かえっていたたまれない。
何より、十階の女性が気がかりで仕方ない。あの様子は多分、いや絶対に、男性の浮気発覚現場とか、そんな感じのやつだ。
どういうストーリーなのかは想像がつかないけれど、私が配達先を間違えたことが
申し訳ないことをした。流石に落ち込む。
午後九時五十分、歩いて帰る私に声を掛けたのは、ヴィチナートでの買い物終わりの春子さんだった。
春子さんは、私が青白い顔をしていると言い、「これでも食べて」と、買い物袋から取り出したシュークリームをくれた。
春子さんのお買い物袋の中にビールが入っているのを見つけた私は、吸い込まれるように近くの小さなスーパーに寄り、ビールと、五十円引きになっていたげそ天を買った。
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