会えたね!美術の先生!

 鮮やかな色が多いこの季節が大好きで、心なしかいつもより数段元気が出る。

 それは私の名前に『春』がついているからかもしれない、なんて言ったら、そんなことで喜ぶような歳じゃないって息子から怒られそうだけれど。

 今日は、家から十五分歩いたところのスーパーまで散歩がてら出掛けることにした。 桜並木の青々とした葉が木陰こかげを落としている。こんな道が近所にあるなんて、素敵だわ。

 来年、桜を見に来たいと思った。


 先月五十四歳になったわたしは、二十七年前、つまり人生のちょうど折り返し地点のときに、地元兵庫県を離れて埼玉県にやってきた。

 住み慣れた関西も良かったけれど、わたしは『ダサイタマ』なんて揶揄やゆされるこの埼玉県を、結構気に入っている。

 思うに、兵庫県と埼玉県は似ている。

 日本海と瀬戸内海に囲まれる兵庫県と、かたや海なし県と呼ばれる埼玉県だけれども、大阪や東京で働く人たちのベッドタウンが多いところとか、都会とも田舎ともつかず街も人もほどよくマイルドな感じとか。

 わたしは大学卒業から昨年まで、高校の美術教師をしていた。

 引っ越しに伴いこちらの高校に赴任するときは、関東の高校生はスレた子ばかりなんじゃないか、なんて失礼なことを考えていた。

 でも実際、生徒たちはみんな素直で可愛くて、わたしは自身の偏見を恥じた。

 美術教員という職業は、わたしにはこの上ない天職だった。

 生徒たちに美術という教科を教える見返りに、わたしは生徒たちの目に映るいろどり豊かな世界を、色んな経験を通して見せてもらった。それは、私の創作に間違いなく刺激を与えた。

 仕事や創作活動にかまけて息子に寂しい思いをさせたかもしれないという懸念けねんはある。

 息子は何も言わない。寂しいと言ったことはないし、反抗期らしいものもなかった。

 好きなことをしなさいと言い続けたら、パズルや数学の問題を解き続ける無口な子に育った。そんな大人しかった息子が、今や高校で数学教師をしている。

 私の背中を見て教師の道をこころざしてくれたのかな、なんて、親としては希望的観測じみた考えをつい抱いてしまう。


 目的地のスーパーは、桜並木が途切れて数十メートルのところに敷地を構えていた。というのも、大きな駐車場があるため、建物の入り口にたどり着くにはもう少し歩かなければいけない。

 この辺りには、二度ほど来たことがある。けれども、この『ヴィチナート』に来るのは初めてで、何となくそわそわしてしまう。

 ヴィチナート――イタリア語で、近所とか、隣人だったかしら――なんてお店の名前は、ここ以外で聞いたことがない。とても大きいお店だけれど、チェーン店ではないのかしら。


 外から見るとかなり巨大なお店だったけど、中に入るともっと大きく感じた。食料品と生活用品の売り場のみでワンフロア。二階、三階があるわけではないらしいけれど、天井が高くてとても視界が開けている。 

 広い売り場に見合った品数の多さで、カートを押しても押してもなかなか目的地にたどり着かない。

 明るくて清潔な雰囲気と広い通路に、思わず足取りも軽くなる。

 お野菜とお肉の金額は普通から少し高め。けれどどれも新鮮そうだし、なにより種類がとても豊富で目移りしてしまう。

 菜の花、たけのこ、春キャベツ。アーティチョークなんてどうやって料理しよう。

 これにしようあれもいいわと、絵に色をせていくみたいに買い物かごに入れてしまって、ハッとした。こんなにたくさん、食べきる前にだめにしてしまうかも。

 食べきれなかったら、冷凍でもしておけばいいかしら、いいえ、それではせっかくの新鮮な野菜がもったいないわ。

 ひとりで食べきることができる量の食事を作るのは案外難しいということには最近気がついた。それからは、自分で料理するのは最低限にして、家での食事のほとんどを既製品のお惣菜そうざいで済ませるようになってしまった。

――結局、野菜三点と、ハーブソーセージとパンで買い物かごを満たして、レジに並んだ。

 レジの台数はとても多いけれど、平日の昼間というのもありどこもあまり並んでおらず、わたしは何となく自分の誕生月の「三」番レジを選んで並んだ。

「いらっしゃいませ、こんにちは。お買い物かごをお預かりします」

 二十歳そこそこくらいの若い店員さんが、溌溂はつらつとした挨拶で出迎えてくれる。

「――あれ?岡村おかむら先生じゃないですか?」

 買い物かごを丁寧に移動させた彼女は、抑え気味の声で話しかけてくれた。彼女は、わたしの顔を見て目を丸くしている。

「……えっと……、ごめんなさいね、昔はいくらでも人の顔が覚えられたのだけど」

 瞬時に思い当たる名前がなく、申し訳ない気持ちになるけれど、彼女は嫌な顔ひとつせずに明るく自己紹介をしてくれた。

「高二のとき、美術を教えてもらってました。上尾あげお北高きたこう二十七期生の竹田みやこです」

 輪郭りんかくもパーツも小作りで、目のキリッとした女の子。

 わたしの脳内の筆が、人懐こそうに上がった口角をき写したとき、ようやく思い出した。

「ああ! 永井ながい先生のクラスの、声の大きな子ね」

「そうですそうです! お久しぶりです! 嬉しいなー。先生はこの辺にお住まいなんですか?」

 竹田さんははしゃいだ口調で、ハスキーな声を上擦うわずらせた。

「もともとは春日部かすかべに住んでたんだけどね。半年くらい前かしら、引っ越してきたの」

「私も短大生の時からこの辺りに住んでるんです! すっごい偶然!」

「ほんと、すごい偶然ね」

「先生の授業、私とっても好きでした! 『自分の名前から得たイメージで絵を描く』ってやつとか」

「懐かしいわねえ。――もう教師は辞めたのよ。辞めるまでの何年かは担任も持たずに好き勝手してたわね」

「あのときの先生の描いた見本、とても素敵で、すっごく印象に残ってます!」

 屈託くったくなく話してくれる竹田さんは、在学中も明るくて元気な子だったのを思い出す。素行そこうが悪いわけではなかったけれども、声が大きくて目立つので、授業中に何人かで私語をしていても彼女だけが怒られてしまうような生徒だった。クラスのムードメーカーな彼女は人気者で、度々たびたび私語はしてしまうものの、基本的には授業を真面目に聞いてくれていた。

 テストの点数はあまり良くなかったけれど。

「先生じゃなくなったんだったら……春子はるこさん! 春子さんの絵、また見たいです」

 そのほがらかな声に、心の底にしずみ込んだ小さくて重たい物体をすくい上げられたような心地がした。

 絵を描くことは好きなことなのに、どうも最近は筆を握ることがなくなっていた。

 別に何かで忙しくしているというわけでもなかったのだけど。

 竹田さんの爽やかな笑顔がまぶしい。

「ありがとう。教師を辞めて、あまり描いてなかったの。久々に、描いてみようかしら」

 気付けば買い物かごの中身はすべてバーコードの読み取りが終わっていて、精算金額が表示されていた。

「描いたら見せてくださいね。――お会計三千五百六十四円です」

 支払いを済ませると、彼女は買い物かごをレジ台からカートに移すのを手伝ってくれた。

「ありがとうございました。またいらしてくださいね」

「ありがとう。また来るわね」

 竹田さんは可愛らしいツリ目を細めて、猫みたいな顔でニコニコしている。

「はい、またのお越しをお待ちしてます」


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