無理だ!理不尽クレーム!

 地元密着を謳う『スーパーヴィチナート』は多店舗たてんぽ展開てんかいをしておらず、与野よのにあるこの巨大な実店舗と、埼玉県全域を対象としたネットスーパーの両輪りょうりんで、県内では大手スーパーを押しのけてブイブイ言わせている。

 ヴィチナートの運営会社である株式会社BB《ビービー》の社長は、非凡ひぼん才覚さいかくで事業を展開しては大成功を収めているらしい。

 社長が優秀ってことが関係あるのかないのかは知らないけど、このお店は働きやすい。あまりの居心地の良さに、短大生時代のバイトからそのまま居座り続けている私がそう感じるのだから間違いない。実際、新卒採用で入社してくる社員さんを除くと、店員の入れ替わりはかなり少ない。

 旦那さんの転勤に伴い今月末に新潟へ引っ越してしまう高崎たかさきさんの欠員補充として、新人アルバイトを久々に採用した店長は今日、かなり浮足立っている。

 というのも、今日がまさにその新人さんの初出勤の日だからだ。

 新人さんの初日のシフトは午後二時から午後六時までの四時間。今日は午後二時から午後十時までのシフトに入っている私が、付きっきりで初日の教育係をすることになった。

 歳が近いからというだけの理由で初日の教育係をたくされた私も、初めての年下の後輩に内心落ち着かない。


 従業員通用口を人が通ったときに鳴るメロディーが事務所までかすかに聞こえてきて、早めに準備を済ませていた私に、店長が目配せした。

 規程通りの白いワイシャツと黒いチノパンに、貸与たいよ物の鮮やかなグリーンのエプロンを着けた私たちは、いつもとは比べ物にならない緊張感で、事務所の扉を穴が開くほど見つめる。

「失礼します」

 ドアを開けて事務所に入ってきた女の子。ここ最近、たまにお客さんとしてレジで見かける子だ。高校生くらいかと思っていた。店長からは十九歳と聞いている。

 大きな丸いタレ目と小さな口、低い位置でひっつめられたツヤツヤの黒髪。シンプルだけど可愛らしい感じの服装は、いかにも清楚系って感じだ。

「おはようございます、妹尾せのおさん。今日からよろしくお願いします。――お会いするのは面接ぶりですね。改めて、僕は店長の橋本はしもとです。こちらは」

 店長に紹介されるより先んじて、私は自己紹介をした。

「はじめまして、竹田みやこです。この店では一番歳が近いし、気軽に何でも聞いてくださいね」

 新人さんは緊張しているのか、目も合わせず、私たちが各々おのおの指し示す胸の名札を一瞥いちべつしたあと、軽く会釈えしゃくだけした。

 店長にうながされて、私は新人さんを女子更衣室に案内する。


 新人の妹尾せのおさんは、高校を卒業して一年間は地元の飲食店でアルバイトしていたらしく、先月この辺りに引っ越してきたらしい。

「妹尾さん、着替え終わったらまたさっきの事務所に来てください。シフト入るときにやる『朝礼ちょうれい』するんで」

 更衣室の外から声をかけると、しばらくしてからかすかに「はい」と聞こえた。


 事務所では、店長がグロサリー部門のマニュアルの一部をプリントアウトしていた。

「今日は、妹尾さんがシフト入ってる時間帯は竹田さんずっとレジだし、竹田さんの接客とレジ打ちを横で見ていてもらおうかな」

 どれどれ、と今日のシフト表を見ると、最後の一時間は売り場の品出しなだしを担当することになっていた。

「うげ、品出し入ってる」

「一時間で済むように組んだので、何とかお願いしますよ。竹田さんが品出し嫌いなのはわかってるんだけど、その時間帯だけちょっとどうしようもなくて」

 お願い、と店長が手を合わせるので私は渋々しぶしぶうなずいた。

 品出しは苦手だ。ひとり黙々と作業をするのはどうしてもしょうに合わない。

 かと言って私一人の好き嫌いに合わせてすべてのシフトを組むことはできないので、こうしてたまに品出しを担当する。幸いにも品出しが嫌いだという人は多くはなかったので、今までは結構逃げて来れたけれど、後輩ができるとなると、これからはそうもいかないだろう。

 中学も高校も帰宅部だった私の、初めての後輩。不安や緊張よりも、期待や楽しみに思う気持ちが大きい。

 どうやって教えようかな、仲良くなって連絡先とか聞かれたら、仕事に限らずいろんな相談とかされるかも。そうなったら、いよいよ先輩っぽいな。

 ――それにしても妹尾さん、随分着替えが遅い。時計を見ると、二時十三分を指していた。

 従業員に良心的なヴィチナートでは、タイムカードを切ってから着替えることが推奨されていて、だから私達店員は皆、タイムカードを切ったあとはできるだけ早く支度したくを済ませる。


 事務所から出て右のつきあたりにある更衣室のドアをノックして声をかけると、中からはまた小さな声で返事が聞こえてきた。

「はい……もう出るんで」

 心なしか気だるげな声。

 それから少ししてから出てきた妹尾さんは、小さな声ですみません、と言った。

「いいよいいよ! 更衣室、狭くて動きにくいよね。物も多いし。ごめんね」

 やはり緊張しているのだろう。妹尾さんは返事もせず、事務所に向かう私にトボトボとついてくる。


 朝礼は、シフトに入るタイミングで事務所にいる社員さんと行う。

 今日は妹尾さんの勤務初日なので、店長がスタンバイしていた。

 想定外に長い待ち時間だったらしい。店長は私達の顔を見て一瞬戸惑うように黙った。けれどすぐさま人の良さそうな笑顔を取り戻し、私達の前に立って朝礼の音頭おんどを取った。

「えー、では本日は妹尾さんの勤務初日ということで、簡単に説明させていただくと、シフトに入るときには、こうして、社員と一緒に声出しの練習をすることになっています。僕たちはこれを昼でも夜でも『朝礼ちょうれい』と呼んでいます。では始めていきますね。僕の挨拶に続けて復唱してください。――いらっしゃいませ」

『いらっしゃいませ』

「ご来店ありがとうございます」

『ご来店ありがとうございます』

「大変申し訳ございません」

『大変申し訳ございません』

 真横にいる妹尾さんの声は、少しも聞こえてこない。

 前にいる店長にも聞こえていないらしく、続けても良いものか迷うような様子でオロオロしている。

「あ……、えっと、竹田さんって、このお店で一番声が大きいんだよね。うるさいよね、ごめんね」

 私の声がかなり大きいのは事実だし、もしかしたら妹尾さんの声をかき消しているのかもしれない。けれども一応店長をにらんでおく。

「うるさいですって?」

 そうしないと、この場の空気が凍りついてしまいそうだったから。

「えっと……じゃ、竹田さん、一回お口チャックで。妹尾さんはもう一度お付き合いください。いらっしゃいませ」

「……いらっしゃいませ」

 妹尾さんは、低く小さな声でいかにもめんどくさそうに復唱した。

「もう少し元気な声が出るともっと良いかな? と、おっと、もうこんな時間だね、今日は竹田さんは、二十番レジでお願いします。妹尾さんは、お肉やお野菜の袋詰とか、レジの補助とかして、お客様がいらっしゃらないときは、竹田さんにレジの使い方を教えてもらったりしてください。これ、レジのマニュアルです。必要なときに使ってくださいね」

 店長は完全に戸惑っている。

 私も、今まで出会ったことのないタイプの妹尾さんとどうすれば仲良くなれるのか、なんて、いつもは気にもしないようなことに頭をフル回転させる。


 二十番レジは出口から最も遠く、お客さんが並ぶことも少ない。だから研修には大体ここを使う。

「いらっしゃいませ、レジ袋はご入用いりようですか?」

「いえ、結構です」

「かしこまりました」

 バーコードで商品をスキャンしてお会計するまでの流れを、妹尾さんに隣で見てもらい、たまに品物を小袋に詰めるのをお願いした。

 相変わらず声は小さい。というか、挨拶しているのかどうかすら怪しい。

 でも、小袋に品物を詰める動作はとてもスムーズでスピーディーだし、少し教えただけでぶっをとんでもなく綺麗に新聞紙で包んでくれた。手先が不器用な私はかなり苦労した点なので、器用な妹尾さんはすごいなと思ったし、大きな声を出すのはこれから慣れていってもらえば良いか、なんて考えていた。


 そんな矢先。

「ちょっとあなた、お肉のトレーをそんなに傾けたら、水気みずけが漏れてきてしまうじゃない!」

 女性が、すごい剣幕で妹尾さんを怒鳴りつけている。たまに来るちょっとやばめのクレーマーおばさんだ。

「え……」

「え、じゃないわよ! お肉のトレーを傾けたらこの赤い水分! 水分が漏れて、袋の中をよごしたり、もしかしたら私の服やお部屋を汚すかもしれないじゃない! あなたわかってるの? そうなったら弁償よ!」

 このやばめのクレーマーおばさんは、とにかくクレームを言いたいだけで、ケチをつける点がなければ何も言ってこない。だから、とにかく迅速に、無難に済ませてしまうのがきちである、というのが私たち店員の共通認識。

 しかし、さすがにお肉のトレーのかたむけ具合なんて意識したことがなかったし、今までおばさんから出たクレームにもなかったボキャブラリーなので、きっと今日は特別、虫の居所いどころが悪いのだろう。

 声を聞きつけた店長が慌てて駆けつけて、咄嗟とっさに謝罪した。

「大変申し訳ございませんでした。念のため、袋をもう一枚重ねてお入れしますので、お出しになる際は大変恐縮ですが、どうぞお気をつけください」

 店長に続いて私と妹尾さんも頭を下げ、三人でぎゅうぎゅうの二十番レジはたちまち謝罪会場みたいになった。

 おばさんが見えなくなったあと、店長は妹尾さんに「気にしなくて大丈夫ですよ」と声をかけた。

「そうそう、あのおばさんマジでやばいから。私あの人のこと、『やばめのおばさん』って心の中で呼んでるから」

 便乗してそう言うと、店長は「やめなさい」と私をたしなめた。

 妹尾さんはというと、何を考えているのかわからない、ぼーっとした顔で、自身のエプロンに目を落としている。


 妹尾さんのシフト上がりに合わせて私は休憩に入った。

 さっきの事件のフォローをしたい。そそくさと更衣室へ帰る妹尾さんの後を追ったけれど、彼女は途中で進路変更をして、立体駐車場へ向かった。立体駐車場の一階の奥まった場所には喫煙所がある。

 喫煙所に着くなり、妹尾さんは黒ズボンのポケットからアイコスを取り出して吸い始めた。アイコスの本体は、キラキラ光るパープルのラインストーンでデコられている。

「妹尾さん、おつかれさま」

「……どうも」

「そのアイコス、自分でやったの?」

 妹尾さんはさっきと同じ、何を考えているのか読めない表情で、口から離したキラキラに目を落とした。

「ええ、まあ」

「すごい、器用だね」

 妹尾さんはまたどうも、とだけ答えた。

「あの、さっきの気にしないでね、ほんと。運が悪かっただけだよ」

「はあ、そうですか」

 あまりのなさに、さすがの私も心が折れてしまいそうになる。

 ――多分彼女にはもう、この店で働く気はさらさらない。バイトを飛ぶってやつだ。

 多分とは言いながら、結構私は確信してる。

 同じ現代っ子だから、そこはなんとなくわかるつもり。

「えっと、今日はお疲れさま。気を付けて帰ってね」

 それでも、どうか彼女にこのお店を嫌いにならずに、お客さんとしては変わらず来てほしいと思った。

 そでり合うもなんとかのえん、って言うし。

 小さく会釈した妹尾さんとはもう目は合わない。

 私は足元に落ちていた、誰かが捨てたらしいお菓子の包み紙のゴミを拾って、喫煙所をあとにした。


 三日後、午後五時からのシフトに合わせて出勤すると、店長が鬱陶うっとうしいくらい悲しそうな顔をして、タイムカードを押す私を見てきた。

「なんですか店長」

 口をへの字にした店長は、綺麗に折り畳まれた緑のエプロンを私に見せつけた。

「妹尾さんから、届いちゃった」

 エプロンの上には小さなメモ用紙が乗っていて、そこには丸く小さな字で『辞めます 妹尾』とだけ書いていた。

 予想通り、なんて言うと店長は更に落ち込んでしまいそうなので黙っておく。

 歳の近い後輩が辞めてしまったことは私もショックだけれど、初日からとんでもないババを引いてしまった妹尾さんには同情する。

 私はいつも通り急いで着替え、元気のない店長のしょんぼりした朝礼を済ませてフロアに出た。

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