good music is good music and that should be enough for anybody

𝚊𝚒𝚗𝚊

 

 堀川。A県N市を流れる運河。汚染が酷かったが清浄化の運動が広まり、今では観光地になった。

 いくつも架かる橋の下を進む路線船。目的地の近くで船を降り、岸壁に建つビルの一階にあるカフェに入った。スラッシャーパンクがかかる店内は打ちっぱなしのコンクリートと配管剥き出しの天井。ひとつひとつ不揃いのテーブルと椅子は木と金属でできていて、手作りの作品ように親しみを感じる。窓辺のカウンター代わりになっているのは、足踏みミシンに長い板を載せたテーブルだった。愛嬌のあるスツールに腰掛け、川の水面に視線を落とす。ロックなTシャツを着た店員がオーダーしたラテをテーブルに置いた。堤防には所々にヒカリゴケが生えていて淡い光が水面を照らしている。川幅は十メートル未満。ヒカリゴケの灯りの上に、建ち並ぶ飲食店の影が映る。


 私は生まれ育ったN市A区に帰ってきていた。薄闇に包まれた堀川沿いは、懐かしいようでいて初めて来た場所のような気がする。熱いラテを少しずつ口にしていると、天井のスピーカーから知っている曲が届いた。知っているどころではない。私のいちばん好きなアーティストの歌声。何よりも好きなサブライムの曲だった。毎日のように聴いている曲なのに、少し昂るくらい嬉しいのはどうして。ギターボーカルのブラッドリーが One day I'm gonna loose the war, と歌う。the war はヘロインとの戦い。そして本当に彼は負けた。サブライム初のメジャーアルバムの発売直前に、サンフランシスコのホテルの一室で亡くなった。二十七歳だった。たった一週間前に結婚したばかりで。それは私が生まれた年で、私が生まれたとき既に彼はこの世にいなかった。私はいちばん好きなバンドのライブに行ったことがない。

 ラテを飲み干すとカップの底にカフェのロゴマークが現れた。ところどころにエスプレッソとミルクが混じった泡がついているコーヒーを持った悪魔。停船所に向かった。ブラッドリーが亡くなったのと同じ歳、私も二十七歳になった。結婚して子供がいるような歳か。それとも仕事に没頭している歳か。それとも。みーみーみーみーみーみーみーみー。川の流れから音が近づいてくる。流れていく者が立てる鳴き声を目で追った。


 西陽が沈んだ丘が連なる夕景。この景色は数年前に建てられたマンションに隠されているはず。丘の向こうには、海が広がっている。ここからは見えない海の上に広がる空は眩しい。堀川に流されていた子猫は、傍で欠伸を噛み殺している。飛び込んで、子猫に辿り着いた。それからの記憶がない。スマートフォンを探すが見当たらなかった。バッグもない。

 私は歩き出した。子猫を抱えて。あるはずのない実家へ。


 十分ほど歩くと実家が見えてきた。西陽は丘の向こうに消えて西の空だけを照らしている。実家があった場所にはなぜか実家が建っていて、玄関に鍵はかかっていなかった。

「ただいま」

 薄暗い廊下を進む。ドアを開けると照明が灯ったリビングに出た。

「また猫みてゃあなもん連れてきて」

 おばあちゃん。


 おばあちゃんは猫が嫌いだもんね、ごめんね。おばあちゃんは後ろを向いて猫缶の中身を小さな皿によそった。子猫はごはんに夢中になっている。ここは照明が点いているのに薄暗い。リビングはまるでヒカリゴケの灯りに照らされているかのよう。奥に置かれたテレビは光を映さない。壁にかかった時計には光が届いていなかった。奥は外に通じる窓。遮光カーテンが引かれている。もう雨戸を閉めたのだろうか。

「おばあちゃん、ひとり?」

 おばあちゃんの顔は皺を纏っていて表情が分からない。

「当たりみゃあだがね」

「どうして」

 おばあちゃんは何もいわない。アレルゲンのはずの猫を撫でている。私はリビングを出て自分の部屋に向かった。階段を上っているときに、おばあちゃんが「私の部屋によぉ——」というのが聞こえてきた。


 階段を上りきった右手が私の部屋。左手がおばあちゃんの部屋。おばあちゃんの部屋のドアを開けて、カーテンがない窓から星空を見た。さそり座が南の空に横たわっている。低い空に半分より少し膨らんだ月を見つけた。こんばんは。おやすみ。

 少しだけ残る外の陽と、街の灯に照らされた部屋を出て、自分の部屋のドアを開けた。埃に塗れたペッツが並ぶ窓際とセミダブルのベッド。私はベッドに潜り込む。薄明かりの天井や壁が消えて、意識が朦朧としだした。子猫が階段を駆け上がる音が聞こえる。温かい塊が布団の中に入ってきた。



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