第二話 お侍さん、変化に気が付く

「……なんとも、面妖な森だな」

 道なき道を進みながら、黒須は少し違和感を覚え始めていた。幼少の頃から野山を駆け回り、旅に出てからも嫌になるほど森を歩いてきたが…………この場所には、知らないものが多すぎる。

 眼がチカチカしそうなごくさいしきくさばな、地面をいまわるねこほどの大きさのあり、尾羽が異様に長い鳥の群れ。山を越えた途端に植生が激変することはままあるが、ここまで見たことも聞いたこともない生き物だらけの森は初めてだ。

 いつの間に迷い込んだのかは分からんが、知らぬうちに国境を越えたか?

 音もなく飛びかかってくるれつむしを適当にかわしつつ思案していると────唐突に、樹上からドサリと大きな物体が眼の前に落下した。

「──────ッ!?」

 一瞬、枯れ枝が折れて落ちてきたのかと思ったが、よく見ればそれは巨大な大蛇うわばみ。その大きさは尋常ではなく、胴回りは人のふとももを優に超え、長さたるや成年男子五人分にも及ぶだろう。一般的な蛇の何百倍のたいなのか、考えるのも馬鹿らしい。

 ぜんとして立ち止まった黒須をに、大蛇はズルズルと緩慢な動きでとぐろを巻くと、何の感情もうかがえないそうぼうをこちらへ向けた。

「「…………………………」」

 互いの視線が絡み合い、凍ったように時が止まる。反射的に右手が刀のつかへ伸びかけたが、数瞬のしゅんじゅんの末、ピタリと固まった。正体は分からないまでも、こんなにも巨大な蛇がとこの生き物とは到底思えず、とりあえずは丁重に対応すべきだと判断したのだ。

「……せっしゃくろもとちかと申す者。通りすがりの武士だ。おんはこの森のぬし殿どのとお見受けするが、いかがか?」

 蛇は知恵や福徳をもたらべんざいてんしんと言われる生き物だ。一部の地域ではおそれをもって信仰されている聖獣だとも聞いたことがある。大人しい様子からしてようかいへんたぐいにも思えず、もしも名のあるがみであれば話が通じるかもしれない。

 相手からの反応を無言のままじっと待っていると、大蛇はゆっくりとかまくびをもたげ、突然、はじかれたようにこちらの顔面めがけて牙をいた。

「何だ、ただの蛇か」

 神聖な存在モノかと思いきや、その行動には知性など欠片かけらも感じられない。

 黒須は少々落胆しながら素早く逆手で脇差しを抜くと、躊躇ためらうことなく大蛇の頭を斬り落とした。

「……………………?」

 頭部を失った蛇は恨みがましくグネグネとのたうち回っていたが、そんなことには気も留めずに自身の右手を凝視する。

 ────何だ? 今、思いのほか速く剣を振れたような…………

 先ほどのいっとう、特段焦っていた訳でもないのに普段よりも剣速が増していると感じた。

 意識に反して身体が動いたと言うべきだろうか。長年剣を振ってきたが、こんな感覚は初めてだ。

 …………気のせいか?

 黒須は首をかしげつつかんした巨体のそばにしゃがみ込み、ふところから取り出した短刀でおもむろに肉を切り分け始める。大して腹は減っていないが、いつこの森を抜けられるか分からないのだ。食料を確保しておくに越したことはない。それに、森の中で手に入る食い物として蛇は上等な部類である。これだけ大きければ、さぞ食いでがあるだろう。

 せっせと肉を回収して顔にねた血をそでぬぐった時、ふと、あることに気が付く。

「…………何故なぜ、耳がある?」

 そう、とある町で最強を名乗っていた流派に挑んだ際、斬り飛ばされたはずの右耳。それがすっかり元通りになっていた。ぐにぐにと触ってみても痛みはなく、まるで欠損していたこと自体が夢であったかのような自然さだ。そして改めて意識してみれば、どことなく、身体のあちこちに違和感があるような気がする。

 これは一度、しっかりあらためねばなるまいな…………

 武士たる者、常日頃から己の体調を完璧に把握しておく必要がある。斬り合いの最中に不調に気が付いたとしても、敵は手加減などしてはくれない。むしろ、相手の弱点を積極的に攻めるのが武芸者として正しい姿。不利な状態で戦いに臨む方が悪く、たいまんそしりを受けるのは当然のこと。実際、立ち合いの場で〝待った〟をかけた武士が見物の聴衆からわらい者にされる姿を何度も見てきた。あのような無様をさらすくらいならば死んだ方がマシだ。

 足早に休める場所を探し、ちょうどいい小川を見つけたので少し休憩することにした。すぐ手の届く位置に刀を置きつつ、背負っていたいを下ろして手ぬぐいを取り出す。着物を脱いで布をらし、身を清めるついでに己の身体を隅々まで確認してみた。

「…………これは、喜ぶべきなのだろうか」

 案の定、変化があったのは右耳だけではなかった。

 幼少の頃に長兄との手合わせでへし折られてから醜く曲がっていた指の骨、やり使いの僧兵と戦った時にいしづきで砕かれた奥歯、雪道を何日も歩き通した際に腐り落ちたはずの足の指も戻っている。斬り殺したと油断し、背後から死に際の一撃を受けて大きくえぐられていた腰のおおきずは跡形もなく消え、たんづつで撃たれて以来、動くたびにるような痛みを覚えていた脇腹も今は何のつうようも感じない。全身に刻まれた細かい古傷はそのまま残っているようだが、とにかく、身体を動かすのに不自由していた箇所がことごとく治癒している。不気味に思いつつ軽く運動してみると、まるで旅に出たばかりの若々しさを取り戻したように思えるほどだった。

「…………………………」

 青竹で自作した不格好な竹筒ささえに水をみながら、己の置かれた状況に頭を巡らせる。

 ……きつねたぬきに化かされているのだろうか。

 峠道を歩いていると美しいにょにんが立っており、美貌にかれてついて行くといつの間にやら女は消え、たった一人で森の奥深くにたたずんでいた、などというかいだんばなしは掃いて捨てるほどある。

 ……それとも、知らぬ間に死んでの国へ渡ってしまったか。

 いな、このところまともな食事をしていなかったが、飢え死にするほどではなかった。戦に紛れ込んだ時には三日三晩、不眠不休で戦い、その後一週間落人おちゅうど狩りに追われ続けたこともあるのだ。本当に飢え死にする間際の感覚はよく知っている。武士たる自分がぞうろっの不調を見逃すはずもなく、病で死んだとも考え難い。

 ……まさか、気付かぬうちに不意討ちを受けたか?

 否、とっの攻撃に反応ができないような軟弱やわな鍛え方はしていない。旅に出た当初ならまだしも、最近では用便中や就寝中でさえ、一瞬も気を抜いたことはないと断言できる。だてに十年も一人旅をしていないのだ。遠方から鉄砲たねがしまの斉射を受けでもしない限り、不意討ちで死ぬことなどまず有り得ない。それならば────────

「…………いや、時間の無駄だな」

 黒須は一言つぶやくと、堂々巡りの逡巡を止めた。考えても分からないなら、ただ前を向いて進むべし。武士としての基本則だ。いくら頭をひねったとしても、自分で答えを導き出せるとは到底思えない。身体が元の調子を取り戻したことは、決して悪いことではないはずだ。もし妖怪変化がおどり出てくるのなら、それもまたいっきょう。万が一ここが黄泉の国でも、地獄のごくそつほこを交える機会に恵まれるなら、それこそ願ってもないことだろう。

 気を取り直し、次に持ち物を確認することにした。この森が常世とこよ現世うつしよかも分からない以上、念には念を入れておく必要がある。

 元は濃紺だった着物・きゃはんてっこうは、永い付き合いで今では真っ黒になってしまった。すねあてにもさびが浮いている。うちがたなわきざし、それぞれのさやの外装に取り付けられたづか、短刀が一振り、すんてつそでぐさりふくみばりが数本。数食分の玄米が入ったひょうろうぶくろ、銀貨とせんが少量の小銭入れ、うちがね・石・もぐさの入った火打袋、刀の手入れをするためのちょうあぶら、髪を結うためのくみひもが数本に、たすき・手ぬぐい・縄・竹筒。最後に、先ほど手に入れた蛇の肉。

 全て丁寧に吟味したが、持ち物に変化はなさそうだ。身体の件があったので、使い古したそくが新品同然に変わっているかもと、少しだけ期待していたのだが………………

 森を彷徨さまよい始めてからかなりの距離を進んでいるが、ひとどころか、街道や獣道すら見当たらない。山歩きには慣れているので、水や食料はどうとでもなる。ただ、野宿を考えていなかったためかさねむしろを持っていないのが多少痛いところだ。

「〝不足を常とすれば不足無し〟か」

 父の教訓を思い出す。『常日頃から厳しい環境に身を置いておけば、いざ修羅場に放り込まれても平然とできるものよ!』と、よく通るだみごえで笑いながら話しておられた。

たくげんたくこう

 やはり、いつだって父上は正しい。

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