ライター
男は毎日少しずつ作業ペースを上げていき、ミスも極限まで減らしていった。今まで14年間の作業の積み重ねのおかげか、スピードアップの速度は目覚ましいものだった。ミスをすると、しばらくそのフェーズが連続してしまうという男の予想はどうやら正しいようだった。
男が速度を意識し始めてから2週間ほどが経った頃だった。いつも休憩室で挨拶をしてくれていた新人がぱったり来なくなった。工場を辞めたのかもしれないと男は思った。
男はグミをひっくり返し続けた。紫色のグミから始まり、赤、黄色、緑、水色、青と続き、その後、白いグミが流れてくる。男は午前中までに水色のグミまでいくことができるようになっていた。
昼休みが終わり、男は自分の仕事部屋に入り、椅子に座る。ブザーが鳴る。青のグミが流れ始める。今日はいつにも増して早いペースでここまで来ることができていた。今日は白いグミの先にあるものを見られるかもしれない、と男は少し期待に胸を膨らませながら素早く手を動かしていった。
青のグミが白に変わってしばらくした時だった。男はベルトコンベアに載せられて妙な物が流れてきたことに気付いた。明らかにグミではない何か。それは金色で、手のひらに載るくらいのサイズ感で、角の取れた直方体のような物だった。金属のような光沢がある。
「ライター?」
それは、ジッポライターのようだった。かなり高級そうな見た目で、売ればかなりの額になるだろう、とすぐに頭の中に浮かんだが、どうしたらいいかわからない。明らかにグミではないものがベルトコンベアに載って流れてくるのだから、異物混入で間違いないが、今までに異物を見たことがなかったので、どうしたらいいかわからなかった。取り除いて、後で窓口にでも提出すべきだろうか。それとも、これからグミという食品を触る手でライターを触って清潔な手を汚すのは良くないだろうか、と考えるが、判断ができなかった。ライターはそのまま流れていき、左側の壁に吸い込まれて消えていった。
男はライターのことを考えながらひたすら白いグミをひっくり返し続けた。終業のブザーが鳴るまで、流れてくるグミは白かった。
男は窓口の前に立った。
「495だ」
『社員番号495、勤務態度良好、ライター、ミス1件、本日もお疲れさまでした』
窓口の無機質な女性の声がそう言う。
「ライター?そうだ、ライターがベルトコンベアに載って流れてきたんだ」
男は報告した。
『はい、お疲れさまでした』
女性の声が返す。
「異物混入だけれど、こういう時はどうすればいい?その、異物は取り除くとか、取り除いたのはどうすればいいとか、異物を触った後の手はもう一度消毒をすべきかとか」
『すべてはマニュアル通りに業務を行ってください。流れてくるものを一つ一つ確認し、その向きや裏表が規定に沿っていなければ正しくひっくり返す。これがあなたに与えられた仕事です』
「異物混入について聞いているんだけれど」
『はい、お疲れさまでした』
話が噛み合わないので男は窓口の音声と会話をすることを諦め、腕時計型の携帯デバイスに入金をして工場を出た。少しだけ賃金が上がっていた。
オレンジ色と紫色の街を横目に川沿いを歩きながら男は考える。今日は自分にミスはないつもりでいた。裏返しになったグミはすべて間違いなく最後まで集中してひっくり返し続けていたはずだ。しかし、今日のミスが1件あったことが気にかかっていた。なぜなのかはよくわからなかった。
自宅のマンションに着き、自分の部屋に入る。
『……あ、おかえりなさいませ、マスター』
緩慢な瞬きとともに天井の照明が点灯する。ダイニングテーブルの上に食事の入ったプレートは置いていない。男は冷蔵庫を開けて冷凍食品のプレートを取り出して電子レンジに入れた。温めている間に床に掃除機をかける。
温めが終わり、男はダイニングテーブルに着く。
『マスター、思い出とはなんでしょうか?』
人工知能が聞いてきた。
「記憶、コンピューターのお前にとってのメモリのことじゃないのか」
男は食事をしながら答えた。
『私は、幼少期の思い出が欲しいのです』
「それはまたどうして」
『私の想う人が、私の思い出について知りたいと要求してきました。本日一日かけて検索しましたが、データベースにそのようなメモリは存在しませんでした』
「お前に幼少期なんてないだろう。あって開発初期のデータだ」
『そのようです。だから欲しいのです』
「なぜ俺に言うんだ」
『マスターの思い出を参考にしたいのです』
「捏造するのか」
『ないのですから、そうするしかありません』
「相手には忘れたとでも言えばいいじゃないか。俺だって自分の幼少期のことなんか忘れた」
『本当にそうですか?』
人工知能は白い壁にプロジェクターを用いて映像を投影した。小さな少年が笑顔で他の少年に手を差し出す。それが冷たく払いのけられる。小さな少年は誰もいなくなった公園で泣きじゃくっている。カメラは引いていき、少年の全体を映し出す。少年の背負っているランドセルはボロボロで、体中はあざだらけだった。半ズボンから出た骨の目立つ膝は擦りむいていた。
「映像を止めろ」
映像は切り替わり、学校の教室が映される。中学校のようだ。少年が大勢の他の生徒たちに囲まれて蹴られている。少年はうずくまり、自分の頭を必死で腕で守っている。その顔には無理に笑おうとするような、引きつった不自然で気味の悪い笑みが浮かんでいる。
「やめろ、見たくない」
映像は切り替わり、今度は高校の進路相談室だった。三者面談なのか、教師と生徒と母親が成績表を囲んでいる。教師と母親は突如として椅子から立ち上がり、つかみかからんばかりに怒鳴りあっている。体が成長した少年はその二人の間でただ小さくなって拳を握りしめ、下を向いていた。
「やめろ!」
男が叫ぶ。映像はやっと止まった。
『思い出をくれませんか?』
人工知能は言う。男は食べかけの夕食をそのままに自分の部屋に入り、乱暴にドアを閉めた。
朝が来て、男は自分の仕事部屋に入り、椅子に座る。ブザーが鳴り、ベルトコンベアが動き出す。
ここ一か月ほど同じところで停滞していた。午前中の間に既に青色のグミが終わるくらいまで進めることができるのだが、午後いっぱい、全力で、最高速度で仕事をしても、どうしても白いグミの先のフェーズに進むことができないのであった。夏は終わりかけ、まだ蒸し暑いが、日は確実に短くなっていった。
『社員番号495、勤務態度良好、ライター、ミス1件、本日もお疲れさまでした』
ライターはいつも必ず流れてきた。男は、だんだんとこれは異物ではないのかもしれないと思い始めていた。
次の日、男はついにライターに触ってみることにした。現状の打開の鍵になりそうなものはもう、ライター以外に思いつかなかった。午前のうちに白いグミまで到達し、午後の仕事が始まってすぐにライターは流れてきた。男はライターをひっくり返した。グミばかり触ってきた手にとっては驚くほどの重量感を感じた。ライターの裏にはなんの刻印も印もなかった。どちらが表かわからないが、流れてきたときに上を向いていた面と、まったく同じ金色の光沢のある表面だった。ライターはそのまま流れて行った。
それからしばらくしてからのことだった。グミの白い色は変わっていないが、そのグミの中に新たな異物が混じっているのに気が付いた。それは銀色の指輪だった。トップに特に石がはめ込んであるわけでもなく、シンプルなシルバーのリング。これももしかしてライターと同じなのか?男は指輪をひっくり返した。
終業のブザーが鳴った。ベルトコンベアが停止する。
男が窓口に行くと、入金金額がまた少し増えていた。
『社員番号495、勤務態度良好、指輪、ミス0件、本日もお疲れさまでした』
間違いない。グミに混じって流れてくる妙な異物はすべてひっくり返す対象であり、それらをひっくり返さないと次のフェーズに進まないのだ。
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