緑色のグミ

 男は白い仕事部屋に入り、椅子に座る。始業のブザーが鳴る。ブゥンと微かに音がして、目の前でベルトコンベアが動き始める。何も変わらない、均質で一定の、永遠に続くかとさえ思える無感動な仕事。男は淡々とグミをひっくり返し続けた。


 ブザーが鳴って男は顔を上げる。廊下を通って休憩室へ。自分のロッカーを開けていつもと同じ弁当を取り出す。


 適当なベンチに腰掛けようとして、ベンチの上に何か落ちているのを見つける。白く、どこまでも均質なベンチの上にひとつ、染みのような色を持つ異物。それは、緑色のグミだった。自分の中の何かが乱されたような気分に襲われ、胸の中が妙にざわついた。自分が日夜ひっくり返す紫色のグミと同じ形だが、色は緑色。この工場で14年働いてきて初めて見た色のグミだった。


「あ、先輩。お疲れっす」


 新人がひょいと手を挙げて挨拶し、こちらに向かってくる。


「あれ、それ、グミじゃないすか。持ってきちゃったんすか?」


 新人は男の手の中のグミにすぐに気づいて言った。特に色に驚いた様子はなかったので、この新人は緑色のグミに見慣れているということだろうか。今まで他人のベルトコンベアに流れてくるもののことなど一度も気にしたことがなかったということに男は気付いた。もしかしたら自分が紫色のグミ担当なだけで、他の人は別のグミをひっくり返す仕事に従事しているのかもしれない。いや、勝手にここの従業員はみんなグミをひっくり返す仕事をしていると考えることは不自然なことか。もしかしたら、グミをひっくり返す以外に、グミを袋に詰めたり、グミそのものを作る工程の作業を任されている可能性もあるのだ。


「お前のベルトコンベアに流れてくるグミは緑色なのか?」


 男は思わず聞いていた。他人に自分の仕事内容についての話をすることは規則で禁じられているということはわかっていたが、聞かずにはいられなかった。


「意外っすね、先輩が仕事の話するなんて。でも、やっと先輩から仕事の話を出してもらえて嬉しいっす」


 新人は目を丸くして男の顔を見て言った。


「少し、気になっただけだ」


 男は周りに目を配ったが、他の従業員たちは二人を気にする素振りはなかった。


「いや、まあ最初のほうは緑のもありますけど。先輩のには流れてこないんすか?」


 新人は言った。


「最初のほう?」


「はい。やってるどだんだんスピードアップしていって、流れてくるものも少しずつ変化してくるじゃないですか」


「スピードアップ?変化?」


 男の頭の中で何かにヒビが入るような感覚があった。今まで気にしていなかった、気にしていなかっただけでずっとそこにあった重大な見落としを発見するような感覚。指先が冷え、二の腕に鳥肌が立つのを男が自覚する。


「え、だって、スピード上がりますよね。自分がどんどん作業のスピードを上げると、どういう仕組みか知らないっすけど、ベルトコンベアの速度も上がってきますよね。このシステム、制限時間付きのレベルアップ系のゲームみたいで面白いから好きなんすよね」


 作業のスピードを上げようなどと考えたこともなかった。いつまでも単調で一定、均質で無味乾燥な仕事。自分の作業効率を上げたらどうなるかなんて一度も試したことはなかった。ただ与えられた初期速度のまま漫然と目の前の仕事をこなしているだけだった。背中を気持ちの悪い汗が伝う。


「俺はまだ作業スピードがあんまり速くないんで、終業までにボーナスゲットはまだまだ修行がいりますけど、先輩はきっと、すごいところまで進めるんすよね?」


 新人はここで声を押さえて男の耳に口を近づけた。


「先輩のさっきの様子を見て思ったんすけど、ここだけの話、従業員がお互いに自分の仕事内容を話しちゃいけないのって、もしかしたらベルトコンベアに流れてくるものは個人によって違うんじゃないすかね?どこまで早いスピードまでいったらいくらのボーナスとか、何が流れてくるとか、そういうのが個人によって違うから、そこで争いとかにならないように、不平等が露見しないための工場の策略なんじゃないすかね」


 新人はそう自分の意見を言い終わると、男の耳から口を離し、また何気ないいつもの表情に戻って「それじゃ、午後もお互い頑張りましょう」などとさわやかに言って男の隣でサンドイッチを食べ、食べ終えると去っていった。


 男は自分の仕事部屋に入って椅子に腰かけた。仕事効率を上げるとベルトコンベアが加速する?そして、流れてくるものも変化する?流れてくるものが変化すればボーナスがもらえるのか?知らなかった。今まで一度も考えもしなかった。変化したら何が起こるのだろう?ここに就職して一か月の新人も既に気付いていた。自分は14年間、一度も気付かなかった。


 ブザーが鳴って、ブゥンという微かな音とともにベルトコンベアが動き始める。男は少しだけ作業着の腕をまくった。単調な日常が壊れた音がした。ガラスのように壊れたそれは、男の頭の中で砕けて散らばった。


 グミをひっくり返す。手を早く動かす。紫色のグミが流れてくる。おびただしい数のグミ。早く、もっと早く、と考えながら、頭の中をそれだけにして、意識を集中させながら男はグミをひっくり返した。


 男はやがて、グミの色が変化していることに気が付いた。グラデーションのように、紫色だったグミはいつの間にか赤になり、黄色になって、緑色になった。グラデーションのように変わっていく。緑色のグミだ、と思った瞬間、ブザーが鳴ってベルトコンベアが止まった。


 男は顔を上げた。時間が驚くほど早く進んだようだった。いつも淡々と頭を空っぽにして作業している時の何倍も疲れていたが、男はその疲れの中に何か初めて感じる感情を見つけた。14年間、一度も感じたことのない感情。まだやっていたいという感情だった。それは不思議な感情だった。この先が見てみたい、緑色のグミの先には一体何が流れてくるのだろう。


 男は廊下を歩き、休憩室で着替え、窓口の前に立つ。


「495だ」


 窓口の机の一部が光る。男はそこに腕時計型の携帯デバイスを近づける。電子マネーが入金される。昨日と変わらない金額だった。


『社員番号495、勤務態度良好、果実グミ、ミス0件、本日もお疲れさまでした』


 男は工場を出た。オレンジ色と紫色の街を横目に川沿いを歩いて帰宅する。マンションの自分の部屋のドアが開く。


『……あ、おかえりなさいませ、マスター』


 少し遅れて人工知能が言う。薄暗く天井の照明が点灯する。ダイニングテーブルには解凍していない状態の食事のプレートが置いてある。男は黙って自分でプレートをキッチンまで持っていき、電子レンジに入れた。


 次の日、男は自分の仕事部屋に入る。椅子に座り、ブザーが鳴る。男は最初から自分に出せる最大のスピードで作業を始めた。午前の3時間で黄色のグミまで進むことができた。ベルトコンベアはどんどんと加速していった。ブザーが鳴り、昼休みになった。ベルトコンベアが止まってしまったので、男は仕方なく椅子から立ち上がり、廊下を歩いて休憩室に向かう。


「あ、先輩。お疲れっす」


 新人がいつものように挨拶をして歩み寄って来る。


「なあ、お前はいつもどれくらいまで進むんだ?」


 男が聞くと、新人は怪訝そうな顔をする。


「先輩、昨日から急に俺のことを気にして、どうしたんすか」


「お前のことが気になってるんじゃない。お前のベルトコンベアの様子についてだ」


「それって俺の仕事の様子ってことっすよね」


「いいからどうなんだ」


 新人は少し声を押さえて耳打ちする。


「ここの規則ですけど、あんまり自分の仕事について話しちゃいけないのはさすがに先輩は良く知ってますよね。俺、昨日のことで勤務態度の評価が少し下がったんすよ。だから話すことはできません。休憩室もどこかで管理人の人に見られてるんじゃないすかね」


 新人は新人は今日は男の隣でサンドイッチを食べることはせず、別の仕事仲間のもとへと行ってしまった。勤務態度の評価は賃金に直結する。今までは自分から男の仕事について聞きたがっていたくせに、自分のことについて明かすことに対しては抵抗があるらしい。注意されたことが響いているのか、もしくは男が今までこんなに長い間この工場に勤務しているのにも関わらず、ボーナスの制度について把握していないことを察して興味を失ったのかもしれなかった。


 昼休みが終わって男はまた自分の部屋に戻り、椅子に座る。ブザーが鳴って、先ほど中断したところからベルトコンベアが流れ始める。黄色のグミをひたすら速くひっくり返していく。やがてグミはすぐに緑色になり、水色になった。それがかなり長い間流れ続けた。速く、もっと速く、と男は手を動かし続けた。仕事効率をこんなにも自分に求めたのは初めてのことだった。


 終業のブザーが鳴ってベルトコンベアが止まる。明日はもっと速くできる。もっと先を見ることができる。男は自分の伸びしろを意識した。


 賃金は同じだった。


『社員番号495、勤務態度良好、果実グミ、ミス1件、本日もお疲れさまでした』


 窓口で無機質な女性の声がそう言った。今日はミスを1回してしまったようだ。男にとってミスをすることは滅多になかった。おそらく午後の最後のほう、集中力が切れ始めていた時にミスをしてしまったのだろう。男は工場を出た。


 オレンジ色と紫色の街を横目に川沿いを歩く。男は考える。もしかしたらミスをするとそのフェーズのグミの色が継続してしまうのではないか。水色のグミでミスをしてしまったために水色のグミが長い間流れることになったのかもしれない。効率よく次のフェーズに進んでいくためには、ミスをしないことも重要なのかもしれないと男は思った。

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