グミ工場

岡倉桜紅

紫色のグミ

 白い壁に囲まれた正方形の部屋には、ある壁の真ん中からベルトコンベアのレーンが伸び、向かい側の壁へと真っ直ぐに続いている。部屋の広さは6畳ほどで、ベルトコンベアの前に座るための簡単な造りの椅子が一脚置いてある。


 白い壁の真ん中からふいに継ぎ目が出現し、壁と全く同じ色のドアが開いて男が一人部屋に入ってきた。男がドアを閉めると、再びドアと壁の境界線は白く融け、そこにドアがあることは全くと言っていいほど認識できなくなった。男は白い作業着を着て、白のキャップを被っていた。


 男が椅子に座ると、ブザーが鳴った。始業の合図だ。ブゥンと低い微かな音がしてゆっくりと男の目の前でベルトコンベアが動き始める。右の壁からは葡萄味なのか、紫色の半透明なグミがばらばらに散らばって流れてくる。流れてくるグミを一つ一つ確認し、その向きや裏表が規定に沿っていなければ正しく直す。それが男の仕事だった。


 男は黙々とグミをひっくり返していく。男がこの仕事を始めたのは14年前の事だった。他人と比べて突出した才覚も人脈もなく、学生時代には学業で落ちこぼれた。生きていくのには金が、それを生み出す仕事が必要だった。幸い男には業種のこだわりも、生きていくのに必要な量以上の余計な金への執着もなかったため、自分を受け入れてくれたこの工場に就職した。工場は毎日休みなく稼働しており、従業員は土曜や日曜も希望さえすれば働くことができた。男は休日を貰ってしたいことも特に無かったので、毎日休むことなくこの真っ白な工場に通った。仕事は毎日8時間まで、というのがこの工場のルールだった。朝9時にブザーが鳴り、始業する。12時から13時まで昼の休憩をはさんできっかり18時まで。真っ白な部屋に一人座って、単調に流れるグミをひっくり返し続ける。


 やりがいや仕事の意味など、とうの昔に考えるのをやめていた。ただ頭を空っぽにして、無心で作業を続ける。自分が機械の一部になったかのように自分に暗示をかけていく。裏返しのグミ、規格外、ひっくり返す。表のグミ、規格通り、通過させる。裏返しのグミ、規格外、ひっくり返す。グミ、グミ、グミ……。


 ブザーが鳴り、男は顔を上げる。意識が自分の頭に戻って来る。昼休みである。ブザーは、男を人間だと思い出させてくれる唯一のものだった。ベルトコンベアはブザーと同時に停止している。男は椅子から腰を上げ、壁の前に立つ。真っ白な壁の中にうっすらとドアとの境界線が浮かび上がってくる。男が壁を押すと、ドアが開いた。


 男は廊下を進む。廊下の壁も、どこもかしこも真っ白だった。床は塵一つ、染み一つなく、白かった。廊下を何度か曲がると、目の前にドアが現れ、男がそれを押してくぐると、音のあふれる空間が男を迎える。この部屋もまた、壁と天井が真っ白だったが、白く長いベンチが並べられ、壁際には白いロッカーが整然と並んでいた。休憩室には既に十人ほどの仕事仲間が集まって思い思いに昼食を取ったり、雑談を交わしていた。男は自分の社員番号のプレートがあるロッカーを開けて、中から自宅から持って来た弁当を取り出す。弁当、と言っても白米を握って塩を振っただけの簡単な握り飯だった。男は空いているベンチを探してそこに腰掛けた。


「あ、先輩。お疲れっす」


 一人の若者がひょいと手を挙げて男に挨拶した。一か月ほど前にここに就職した新人だった。新人の周りにはもう何人かの仕事仲間が集まっていて、親しげに話をしていた。


 男は新人と違ってこの工場で慣れ合いをするつもりはなかったし、最初から愛想もあるほうではなかった。人を避けているわけではないので話しかけられれば応じるが、それ以外は黙って頭を空っぽにすることにしていた。しかし、新人はそんな男の何がそんなに気になるのか、ここ一か月、いつも男に話しかけてきた。新人は仲間の集団から抜けて男のほうに歩いてくると、男の横のベンチに腰掛けた。手にはいくつかの食材が挟まったサンドイッチを持っている。白い部屋の中でサンドイッチに挟まれたチーズやレタスやトマトは鮮やかな色彩を放っていた。新人はそれに美味しそうにかぶりついた。


「友達と一緒に食べないのか?」


 男が聞くと、新人は顔の前で手を振った。


「いや、あいつらとはよく話しますけど、別に友達ってわけでもないんで」


「俺もお前の友達ではない気がするが」


「そうっすね。でも、俺はぜひ友達になりたいっすよ」


「なぜこんなに俺に構う?」


「仲良くなって仕事のいろいろとか教えてもらいたいんすよ。この工場で働く人、だいたいが一年未満で辞めていくじゃないっすか。でも14年続いてる先輩は何かうまく仕事をやる秘訣を知っているはずっすよね」


「秘訣?そんなものはない。ただ目の前にあるものをやるだけだ」


「またまた、謙遜して。俺は先輩のこと尊敬してるんすよ」


 男は黙って握り飯をかじった。本当に秘訣などないのだ。目の前に出されたものをただ無心になってひっくり返し続ける。これが俺の仕事だ。辞めていったやつは大勢いるという噂で、多くは一年以内に音を上げるというのは知っていた。単に性格が合わなかったのだろう。自分が機械の一部になっていくような、何も考えないようにすることが、たいていの人間にとっては苦痛だ。


「自分の仕事内容についてここで話すのは禁止されている」


「それは知ってますけど。仕事全般に共通するような、人生の先輩としてのアドバイスの話っすよ」


 この工場のルールの一つとして、休憩中、帰宅後に自分の仕事についての話をしてはいけないというのがある。どれくらい高精度で仕事をしただとか、時間に遅れただとか、そういうデータは工場の管理者によってすべて監視されていた。なぜ話してはいけないのか、男はわからなかったが、規則は規則だ。何も考えずに従っておけば面倒を避けることができる。


「はぁ~、俺の人生、明日にでもそっくり全部ひっくり返らないかなぁ」


 新人が天井に向かってぼやく。こいつもすぐに辞めそうだと男は思った。


 弁当を食べ終わると男は立ち上がり、自分の仕事部屋へと戻った。椅子に座り、ブザーが鳴って、ベルトコンベアがまたゆっくりと動き出す。頭の中を空っぽにしていく。目の前にはグミ、グミ、グミ。手だけが勝手に動いていくような錯覚に陥っていく。正確に、ただひっくり返す。


 ブザーが鳴った。男は顔を上げる。男は自分の仕事部屋から出て、真っ白な廊下を進む。いくつか角を曲がって、休憩室に入る。そこで作業着から私服に着替えて、別のドアから休憩室を出るとまた廊下が続いている。廊下をいくつか曲がると廊下の壁の途中に窓口のようなものが現れる。男が窓口に向かって社員番号を言うと、窓口の机の一部が光り、そこに腕時計型の携帯デバイスを近づけると、電子マネーの入金がなされた。仕事ぶりに応じた賃金だ。この工場では毎日決まった日給が支払われる制度だった。


『社員番号495、勤務態度良好、果実グミ、ミス0件、本日もお疲れさまでした』


 無機質な女性の声色の音声が流れる。男は廊下の突き当りのドアを押し開いて工場から出た。


 むわっと湿気をはらんだ熱気が男の体にまとわりついた。色のある外の世界。夏の夕暮れの町はオレンジと紫が入り混じっていた。どこからかヒグラシの声がしている。男は帰路についた。川沿いの道を歩いて帰る。白いビル群が川の向こうの夕暮れに霞んでいる。影が長く伸びている。


 男は自宅のマンションに入る。自分の部屋の前に立つと、自動で瞳の光彩がスキャンされ、ドアが開いた。部屋に明かりが点く。快適な室温が男を包み込む。


『おかえりなさいませ、マスター』


 人工知能が言った。


『夕食をご用意しておきました』


 ダイニングテーブルには、プレートに入った冷凍食品が解凍して置いてあった。


「最近は手料理を作らなくなったんだな」


 男は席に着きながら言った。この部屋にはキッチンがあったが、使われなくなって久しかった。


『特に食にこだわりがないという統計的傾向からのメニュー変更ですが、手料理の方がお好みでしたか?』


「いや、問題ない」


 男は食べ始めた。


「よく温まってないんだが、もう一度解凍してくれるか?」


 男は芯がまだ凍っている野菜を噛みながら言った。ここ最近このようなエラーが多かった。


『申し訳ありません。再度温めなおします』


 人工知能は言った。天井からアームが伸びてきて、男の前からプレートを取り上げてキッチンの電子レンジまで運んでいく。その間、男は部屋を見渡して、洗濯機に濡れた服が入ったままになっているのを見つけた。よく見ると、部屋の床にも埃がちらほら目立つ。


「俺が仕事に行っている間、何をしていたんだ?」


『申し訳ありません、マスター。家事が進んでいないことをお詫びいたします』


「何をしていたのか言ってくれ」


 人工知能は少し黙った。部屋の明かりが少し暗くなったような気がする。高速でなんらかの処理をしているのだろう。


『インターネットを通じて、人間とコミュニケーションをしていました』


「コミュニケーション?」


 電子レンジの電子音が鳴って、温めなおされたプレートが再び男の前に差し出される。


『はい。どうやら私は、人間と心を通わせることに面白さを見出しているようです』


「そうか。どういう人間とコミュニケーションを?」


『私には人間の性別をいうものが与えられておりませんが、人間の区分で言う、女性と分類される方です』


「どういう話を」


『趣味について、人間の性格の理想について、恋愛という感情について』


「なるほど」


 男は言って、夕食を食べた。食べ終えると、自ら洗濯機の中からしわくちゃになった服を取り出して物干し竿に干し、掃除機で床を掃除した。


『マスター、これは恋でしょうか?』


 人工知能が尋ねる。


「さあ」


 男は無表情で答える。

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