第58話 潮海雨音の独白 2

なぜその声が向けられているのが私じゃないのかしら。


心中でひおりんが一時も目を離さずに見つめている少年に悪態をつく。


ひおりんは完璧な女の子。初めて出会った、私より綺麗で、勉強も運動もできる子。何よりも……私より努力ができる女の子。


私はいつも上にいきたい、誰にも負けてはならないと努力して、常に気を張っていた。


それが正しいことだと信じているし、私という人間の在り方だと納得していたから。


自分が一番だと信じていたし、事実として自分が負けたと思ったことは一度もなかった。


けれど、私は中学生になって初めて出会ったひおりんに完膚なきまでの負けを悟った。


それでもどうしてか落ち込むことはなく、さらに不思議なことに、私は生きるのが少し楽になっていることに気づいた。


無論、ひおりんに出会ってからもあらゆることに手を抜くことはしなかったけれど、負けてもいい相手がいるということが私に安らぎを与えてくれたのだ。


そんな完璧な女の子でありながら、どこか浮世離れしたような発言や、天然で抜けたところも持ち合わせたひおりんに私が魅せられるのはこの世の摂理だったに違いないわ。


ひおりん、進藤鉄馬が目の前にいるっていうのに、どうしてあんなに興味が無さそうなのかしら。昔は私や燐のこと、もっと心配してくれてたような気がするんだけれど……


「ふぁ……あんまり僕が食べると……お前がお腹減ると思ってわざと残したんだよ」


ひおりんはいいけど、こいつが興味なさそうにしてるのは本当に腹立たしいわね。


三咲月夜。この高校に入ってから、たまたまクラスが同じになっただけの、毎年どこのクラスにも一人二人はいる暗い男子、喋るのが苦手ないわゆる陰キャ……だと思っていた。


女子が興味を持つようなタイプではなく、性格の悪い人が陰口を言うような存在。


私は前者で、特に興味を持っていなかったけれど、入試の成績で生意気にも私とひおりんの間に名前を置いたやつだと気づいてからは多少気にしていた。


ひおりんに出会う前だったら、一足飛びに声をかけていたかもしれない。


そして偶然にもその人となりを知れば、外側では事を荒立てぬような弱々しい発言ばかりのくせに、内側では自信たっぷりに真逆のことを考え、その時の感情次第でそれを言葉にすることを一切厭わぬ、自分が世界の中心だと言わんばかりの傍若無人っぷり。


なまじ有言実行に要する能力があり、その努力もできるやつだというのが性質が悪い。


努力の量に関しちゃ私よりも……いや……あるいはひおりんよりも……。


この前の定期テストでも生意気言ったまま、パンダみたいなクマをつくって私を負かすし、ショッピングモールで進藤悟と揉めた時もわがまま放題言いながら結果的に私を助けて……ほんとなんなのかしらこいつ。


自分の顔に自信がなくて髪を伸ばして顔を隠してるのかと思いきや、その下にあったのは女の子みたいに綺麗な……いえ、多少はマシな顔。


とにかくあらゆることがちぐはぐ。


「そんなんじゃ大きくなれないよ?」


「うるさい。僕は寝る」


どうしてか知らぬ間にひおりんとこんなに仲良くなってるし。


一体いつから……。


このことに関しては必ず聞き出してやるんだから。


けれどとにかくこいつはやっぱり……


「もー。じゃあ私のお膝使う?」


「いらないよ恥ずかしい」


「だめー。今日ずっと顔色悪いんだから、倒れちゃうよ」


やっぱりこいつはムカつく!ちょっとは私の方を気にしてくれてもいいじゃないの!あと私のひおりんと気安く仲良くしてるんじゃないわよ!


「お前ら少しはこっちが気になったりとかないのか……?」


ついにあふれた私の感情が言葉になる前に、燐が口を挟んでいた。強がっているのか、本当に余裕なのか、進藤先輩は声を出して笑っていた。


「久しぶりに見たけど、変わらず氷織は随分マイペースのようだね」


私だけならまだしも、気安くひおりんの名前を呼ぶ彼に、思わず声が出そうになるが、二つの要因によって私はそこで息を呑まざるを得なかった。


一つは、ひおりんの光を失ったような瞳に気づいたから。


以前、進藤先輩は私と同じようにひおりんを名前で呼び捨てたことがあったが、その時もこんな……いや、もっと暗い瞳だったかもしれない。


そしてもう一つ、もはや既に閉じていたその目を鋭く尖らせた少年が吐いた言葉。


「なんだその呼び方。距離の詰め方キモすぎだろ。死ねよ」


一瞬誰もが耳を疑うような、少なくとも正常な感覚を持つ人間なら、初対面の相手に最初に吐くものとは思えない言葉。


なんでこいつがこんなに怒っているのかしら。私からすればあなたとひおりんの距離の詰まり方の方が気持ち悪いのだけど。


「……は?」


案の定、あの進藤先輩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。私が見たことのない顔だ。


しかし、三咲は何かの当てつけのように、ひおりんの膝を枕に教室の床に横になると、私達に背を向けて本格的な眠りの体制に入った。


いつの間にかひおりんの瞳に光が戻るどころか、先ほどよりも強く輝いて見えるのはきっと気のせい。


「一応聞くけど、君たちは付き合っているのかい?」


「違うけど」


「そうだろうね。そんなことがあれば、オレの耳に入ってないわけない」


「そんなことがあってもお前の耳に入れるわけねーだろ。誰だお前」


「……燐や雨音の連れなのに……君は何も知らないのか?僕らの中学時代のことも?」


「知らない。どーでもいいし。とりあえず僕らが負けなきゃいいんだろ」


「三咲、お前は会話の意味を理解してないだけだ。俺たちが負けたら雨音がどうなるかわかってないだろ」


燐の言う通りだ。


三咲は何もわかっていない。だから、こんな飄々としていられる。


「……どうにでもなれよ。ほんとどーでも……いい」


三咲はうとうとと、芯のない声で私たちから視線を外す。


こいつ、まさか本気で言ってるのかしら。


私がどうなってもいいって、やっぱりこいつは最低なやつ。前は助けてくれたと思ったのに。


「ふむ……君、さっき氷織が言ったように顔色が」


「気安くこいつの名前呼ぶな。嫌がってんだろ」


進藤鉄馬に対してだけ、三咲は再び眠そうな目を鋭く尖らせ、そう言った。


相当彼が気に入らないのだろうが、相変わらず、裏の三咲は横柄だ。


けど今回は相手が悪いのではないだろうか。


「あー、そうだね。それで氷織が」


「だから呼ぶなっつってんだろ。ニワトリより頭悪いだろお前」


「はぁ。それで氷織が」


「だから呼ぶな。消えろニワトリ頭」


しばらくそんな応酬が続いたが、自分のペースで話を進めようとする進藤鉄馬に対し、三咲は子供の言い合いの如く、しつこく同じことを繰り返し、決して話を進めさせようとはしなかった。


私の目には、計算高く、底の見せない男にしか映らなかった進藤鉄馬までもが、だんだんと意地を張るだけの子供のように見えてくるのが不思議だった。


そしてついに折れたのは進藤鉄馬の方だった。


「……さっき有栖川が言った通り」


「有栖川“さん”だろ。敬称をつけろよカス」


けれど、三咲はまだ折れない。


先ほどから燐が笑い堪えているのが見えるが、気持ちはよくわかる。


「……」


進藤鉄馬がまたしても見たことない感情の読めない表情をしていた。


「あんまり言いたくないけど、オレ、先輩なんだよ。わかってるのかな?」


「わかってるよ。だからなに?」


ほんと小学生みたいな返し。私、こんなやつにテストで負けてしまったのね……。


裏のこいつって本当に誰にでもこんな感じなのかしら。


でもどうしてなのかしら。すごく胸がすくような感じがする。


以前のショッピングモールの時と、同じ気持ち。


普段は本当に生意気なだけなのに……。



「……はぁ。君は顔色が随分悪い。整った君の顔立ちが勿体無くなるくらいにはね。燐の足を引っ張っているんじゃないか?」


結局、進藤鉄馬はひおりんの名前に言及しないことで話を進めることを選んだようだった。


「僕とお前の常識が同じだと思うな。僕を量るのにてめーの物差しを使う権利はない」


「君こそオレのことを何も知らないようだ。学校での君の立場くらいなら、操作して見せたっていいんだけどな」


「……?」


「上から下に落ちるってのは、最初から下にいるよりも耐えがたいものらしくてね。そういうやつを見るのは中々面白いのさ」


「……立場が上……?ちょっと何言ってるかわからない」


「へぇ……。まぁ、虚勢なのがわかってるから俺も相手にしないけどね。燐のついでに君の動きも目に入ってたけど、相手にならないのがわかってるし」


そう言って進藤先輩は、三咲から視線を外した。試合で黙らせればいいと思い直したのかもしれない。


「とりあえず、伝えたいことは伝えたから。……この後、楽しみにしてるよ」


進藤鉄馬は私と燐に向けてそう言い残し、去っていった。

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