第46話 循環するズレ

氷織が作った料理は相変わらず美味だったので、ほとんど無言で完食してしまった。


氷織は相変わらず、しっかり僕の反応を確かめた後に食べ始めたが、もはや手慣れたもので食べづらいとも一切思わない。


美食家気取りでそれを楽しんでるまである。


カレーはどちらかと言えば好き程度の料理だが、氷織カレー限定でランキングを大幅にあげてやってもいいかもな。


などと考えつつ、僕がお腹を叩いてご馳走様を告げたところで、母さんに続いて今度は氷織の携帯に電話がかかってきた。


みんな電話がかかってくる携帯があっていいですね、なんて拗ねている暇はなかった。


氷織がはっとして、時計を見た後、僕に謝りつつ廊下まで席を外したから。


時刻は午後9時を回っている。


重く沈んだ顔を見るに恐らく親からだろうと察しはついたが、今回は会話を聞かれたくない氷織の気持ちを尊重してやった。


僕は親との会話を聞かれまくったのに。僕優しすぎ。


氷織の家は門限だけは多少緩かったはずだけどなぁ。


「やっぱり原因は家にもあるんだろうな……。僕に何ができるかな」


ぼーっとそんなことを考えつつ、僕は氷織が居間に戻ってくるのを待った。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



「……もしもし」


『氷織……あなた……今日の講義に来なかったそうね。今日が何の講義だったかはわかっていたはずよね?」


挨拶もなく、冷静でありながら厳しさを窺わせる声音。有無を言わさず、考えたくもないことを思い出させられてしまう。


「確か……資産運用に関する講義……と」


時間は……そうだ、19時からだった。だから私は……帰ろうとして……だけどつきくんのベッドで眠っちゃって……その後も色々あって……


『それなのに、あなたは家には帰らなかったそうね?』


「……本意では……ありませんでした」


言い訳などしても、お母さんはそんなものを受け入れはしない。こんな発言は意味をなさない。


『今回は真嶋証券から特別に講師として招いた方がいらしていたはずですよ?」


「え……?」


いつも通り専属の講師が相手だと思っていたけど、違ったようだ。


『はぁ。どうやらあなたの方には伝わっていなかったようですね。最近、スケジュールが空いている時は滅多に家にいないと聞いています。それは構いません』


自由にさせてくれるのは、私のプライベートにはそこまで興味がないから。


私がどうして中学時代に無理矢理スケジュールを詰めたのかも、お母さんは尋ねてこなかった。


『ですが氷織。これは大きな減点ですからね。このようなことが繰り返されれば今後あなたの行動が制限されることはわかっているわね?』


減点。失望と同義。私がお母さんの期待に答え切れないことはこれまでにもあった。減点されればされるほど、次のプレッシャーも大きくなる。


「なっ……そ、それくらい……スケジュールの空いてる日に……いくらでも埋め合わせれば……」


『今日招いていた方は普段は海外で仕事をしている多忙な方。今後あなた一人のために時間を割ける日が簡単には来ません。私と……あの人も再契約する時間をつくるのは簡単ではないことはわかっているでしょう』


お母さんと話していて、徐々に自分の気持ちが変になってくるのを感じる。とにかく、謝らなきゃ。


「……はい……ごめんなさい」


そんな人が来るとは知らなかったけれど、今日家に帰らなかったのはむしろ幸運だったかもしれない。


今日家に帰っていたら、どうせもっと変になっていただろうから。


私の教育のために特別な人が来ることは珍しくない。その度に私は、いつも以上の嘘で自分を塗り固めて、有栖川家の人間としての優秀さを示さなくてはならない。お母さんとお父さんのために。家で必要とされるために。


それは……とても大変で、辛いことだから。


『あなたは伊織とは違うのだから、そういうところだけでもしっかりしなくてどうするのです』


「……はい」


お兄ちゃんとは……違う。私は……うまくできない。


わかってるし……お兄ちゃんみたいになりたいわけでも……ない。


だけど……やっぱり比べられるのは……いや……だな。


『今回のペナルティとして、あなたには新しく家の外で課題を与えます。直近の学校行事には何がありますか?」


「……球技大会が……あります」


「……少々稚拙ですが……あの高校のレベルならばいいでしょう。その行事、あなたの力でクラスを優勝させなさい」


「そ……それは……」


そんなこと……私なんかにできるはずないのに。


球技大会は、各種目の総合成績によってクラス単位で勝ち負けを決める。


自分が出場する種目だけならともかく、そうでない種目については、私個人が関与できるものじゃない。当然、優秀な個人一人ではクラスを優勝させることなんてできない。


『あなた一人が同年代の有象無象の中で最優でいるのはもはや当然のことです。高校生になったのですからこのくらいのことはできるようになりなさい。あなたが大人になったらもっと大きな集団に成功を納めさせる必要があるのですから』


「……わかりました……お母さん」


私が素直にそう答えるのを聞くと、お母さんは電話を切った。こういう時、お母さんはもしうまくいかなかったらとか、うまくいったらとか、そういう話をしない。


ただ淡々と、当たり前のようにこなすことを求めている。


うまくいかなかったら、また減点かな。


それとも……


「……っ」


別に、優秀でいたいわけじゃない。お母さんの言うことにも、全然興味なんかない。家で教えられることも面白いと思ったことなんて一度もない。


私は……ありのままの自分でいたい。自分らしく生きたい。


でも、肯定されたい。必要とされたい。誰かに肯定されるためには、必要とされるには、言うことを聞かなければいけない。


けれど、やりすぎちゃったら失敗するのも、もうわかってる。逆に距離を置かれてしまう。


器用にやらなきゃいけない。


でも、本当の私は不器用で、うまくできない。


だから、嘘の私で、うまくやらなきゃいけない。


それでも、本当に必要とされたいのは、嘘の私じゃない。だから、ずっと辛い。


悪いのは本当の私。できない私が悪い。私は私のせいで辛いだけ。


「それでも……本当の私は……ちゃんと生きてる……よね。この身体が……嘘の作り物になってたり……しないよね?」


こんな本当の私を肯定してくれるのは、必要としてくれるのは……


「くっそ……今日の僕はちょっとの移動も一苦労だってのに。おーい氷織?いつまで……ってお前バカ!僕に隠れて何してんだ!」


「……つき……くん。はなして……」


無意識に定規で何度も強く擦っていた手首。


居間から様子を見に来てくれたつきくんに、その腕を強引にとられて、つい、そんなことを呟いてしまう。


でも、本当はもっと強引でも、痛くしてくれても……いいの。


「は?むり。僕に命令するな!さっさとそれよこせ!」


つきくんが無理矢理私の定規を握る手を解いていく。少しだけ痛い。


「ゃん……乱暴……しないで」


「うるさい!」


あぁ、つきくんが怒ってる。

心配してくれてるから。不安そうなお顔で私を叱ってくれてる。


やっぱり私は……つきくんだけだ。


可愛いなぁ。そんな風にされたら私、いつまで経っても——


「やめられない……」


歪な笑みが一瞬顔に張り付いたような、そんな気がした。

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