第42話 サインポール
「ふぅ、さて、私はそろそろ5限の講義で大学行かないとだから」
どうやらこの姉は大学があるのに友達と遊ぼうとしていたらしい。こんな時間から講義を受けられるものなのか。
「
「大丈夫大丈夫。私から言うのも無粋だからね。月夜が自分で言えるようにしてあげる」
「う、うん?ならいいけど」
よくわからないが、母さんには黙っててくれるらしい。とりあえず安心か。
「ひおちゃん、ゆっくりしていってね」
「あ……えっと……いってらっしゃい、お姉さん」
氷織が小さく手を振りながらそんな風に声をかけると、霧夜ねぇが無表情で数秒固まった。そして、僕の方を向いて言う。
「……月夜、この子をうちの子にしたい。今すぐものにしなさい」
「バカいわないでさっさと行けよ。氷織、霧夜ねぇいなくなるし、いつも通り部屋で遊ぼう」
「……う、うん」
「ふーん、いつも月夜の部屋で遊んでる仲だったの?えっちだね月夜」
「別にそういうんじゃないっての……行こ」
「ふふ……つきくん……えっち」
「お前がノったらシャレになんないだろ!馬鹿が、早く来い!」
「ひゃ……そ、そんなに強く……引っ張らないで。それに……そんな思いっきり歩いたら……」
「うぐっ」
氷織の言葉を聞き切る前に僕は足の痛みでたたらを踏んだ。大分良くなった感じがしていたが、まだ調子に乗る段階ではなさそうだ。
「も、もう……ほら……ちゃんと掴まって」
「ふむ……そうだ。ひおちゃん、これあげるよ」
氷織に支えられながら、体勢を整えていると、霧夜ねぇが氷織に向かって何かを放り投げてきた。
「わ……」
「……なんですか……これ」
「この家の合鍵。私の予備だけど、最近もの失くすことあんまりないし、あげる」
「おい!勝手なことしないでよ!こいつにそんなもの渡したら……」
「……で、でもご両親の許可も取ってないのに……」
「うん、そう言う問題じゃないんだよね?もうケースの中にしまいやがって。返す気ないだろお前」
言葉では遠慮するようにそんなことを言いながらも、氷織は可愛らしい桃色のケースを取り出し、素早い手つきで、その中にしまっていたのを僕は見逃していない。
「つきくん……お姉さんのいうことは……ちゃんと聞くべき」
くそ、自分に都合いいからって霧夜ねぇの味方しやがって。
「うちは親より子供の方が要求が通る甘やかされた家庭だからさ。月夜が甘えるほど信頼してるし、私もひおちゃんのこと、いい子だってよくわかったし」
「……にへへ……大事に……します」
「ふふ、肝座ってるね。そういう子も好きだよ。いつでも月夜のお世話してあげてよ。ひおちゃんがいるなら、私も月夜のために帰ってくる頻度減らせるから」
「霧夜ねぇが帰ってくるのは母さんのご飯とか僕に愚痴言うためとかそんなんばっかりだろ」
「む……友達いないあなたが寂しいかと思って帰ってあげてる時だってあるよ」
「ふん、どうだか」
「月夜、またお姉ちゃんによしよしされてわからせられたいの?」
どういう脳内変換したらこんな返しが出てくるのか全くわからない。
「あーはいはい、僕が悪かったから早く行け」
普段ならここから戦闘開始と言ったところだが、氷織の前でこんな会話をするのが少し恥ずかしくなって、早めに僕は負けを認めておいた。
氷織の様子を少し窺うと、はっと思い至ったように、にこにこしながら僕の頭を撫で始めた。
「私が……いるからね。寂しくないよ」
「おい……」
こいつの脳内変換は霧夜ねぇの数倍わからない。
「ふふ、それじゃ、ごゆっくり。二人とも」
氷織のせいで、霧夜ねぇが珍しく悪戯っぽく笑っていたことに、僕は気づけなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「……おのれ霧夜ねぇめ」
「えへへ……合鍵……」
「まぁ……別にいいけどさ」
僕の部屋でようやく落ち着いたところで、氷織がにまにまと笑っているのを見ると、まずいことになったような気はしてしまう。
けれど冷静に考えて、今更氷織がうちの合鍵を持っていたところで何も問題はない。むしろこの前みたいに遅くなった時に、家の前で待たせるようなことがあっても申し訳ない。これから暑くなるし。僕もいちいちインターホンに出るのがめんどくさくなってきたところだ。
そんなことを考えていると、僕のあっさりした態度に氷織が意外そうな顔をした。
「……もう……怒らないの?私……勝手につきくんのお部屋漁ったりしちゃうかも……しれない」
「氷織なら別にいいよ。好きにすれば」
「っ……私以外に……そんなこと……言わないで?」
「言わないよ。うるさいな」
「う、うるさくないよ。大事なこと……だもん」
僕が特に他人に触られたくないものといえばラノベを始めとした、オタク関連のアイテムだが、とくにやらしいアイテムがあるわけでもないので、その辺の理解がある氷織になら何を見られ、触られたとしても……まぁ……許してやらないでもない。
全巻揃ってるやつが数巻抜け落ちたりしてたら文句ぐらいは言うかもしれないが、その程度だ。
「つきくんは……お姉さんと……仲良いんだね」
「氷織はお兄さんとどうなの?」
「わからない……あんまり……話さなくなっちゃった……から。家にも……帰ってこないし」
「そっか……。また仲良くできるといいね」
氷織の言い方からするに昔は多少なりとも仲が良かったのだろう。特にきっかけもなく、気づいたら話さなくなっていたとかそんなところだろうか。
「うん……でも……私はつきくんがいればいい」
「……そ」
最初は、こいつの不安定な部分のケアができればそれでいいと思っていた。そうしていれば、いつか他のふさわしい誰かが、あるいは彼女自身が、その不安定を生み出す根源を解決する日が来るだろうと、そう思っていたから。
だけど最近は、その領域にまでも、僕が手を伸ばしてあげなければ……いや、他ならぬ僕がしてあげたいと、そんな気持ちが理性を無視して顔を出す時がある。
「何かしてほしいことあるなら、いつでも僕を呼んでよ。できることあったらしてあげるし」
だから僕は、そんな言葉をつい、溢してしまったのだろう。僕が理性を纏わなければ、踏み込みすぎてしまうと……わかっているのに。
「……?何を……してくれるの?」
氷織が純粋に不思議がるように、そんな風に問うてくる。そんな無垢な瞳に、少しだけ理性が戻る。
「え?あー、何か親がムカつく、とかだったら僕がこう……ガツンと言ったり?お兄さんと仲良くしたかったら、う、うまく間を繋いで……」
言いながら陰キャぼっちの僕にそんなことできるか……?などと思ってしまい、しどろもどろになる。
「ふふ……」
「なんだよ」
「ううん。私は……やっぱり……つきくんがかまってくれたらそれが一番いいなって……思ったの。そんな風に言ってくれるだけで……とっても嬉しい」
その笑みはきっと心からのものなのだろう。だからこんなに綺麗に見える。
だけどそれは、きっとそんなことじゃ解決しないと諦めている証拠でもあるのかも知れなかった。
けれど、氷織が平気だというのなら、それがいい。
そう言ってくれるなら、まだ僕は踏み込まずにいられるから。
踏み込んだら……僕はきっと今ある大事なものさえ壊してしまう人間だから。
理性と本能、そのぶつかり合いの矛盾の中で僕は言葉を紡ぐから、
「ふん……言ってろよ。お前が僕に我儘言わない限り助けてやんないから。いつか、僕に泣いて助けを求めに来るのが楽しみだね」
見苦しく、未練がましく、セリフだけはこんなものを吐き続けてしまうのだろう。
「そ、そんなことしないよ……私が……つきくんを……お世話するんだから。私がいないと……だめになっちゃう……まで」
それでも氷織は、僕の言葉に少し嬉しそうにして、はにかんで、そう返してくれるから。
結局、今はまだこのままで良いんだって、思ってしまう。
「……僕に構ってほしいくせに生意気だ」
「つきくんだって……私にお世話されるの……本当は好き……でしょ?」
「ほーん、そんなに突っかかってくるってことは今日は勝負の日だね」
「ん……今日は何の……勝負?」
そして、気がつけば、目の前の彼女との日常を楽しむことばかり、考え始める。
「……今考えるからちょっと待ってろ」
何をやっても割と最終的な勝率はこいつに負けるから、勝てる遊びを最近は熟考することが多くなった。
一対一の対戦ゲームに関してはスマフラはもちろん、氷織がプレイしたことないものでも3戦目くらいから急に勝てなくなるのだ。作戦がうまく行けばその限りではないが、それも二度は通じないことがほとんど。
今日は音ゲーでも試してみるか、それともパズルゲーか……
「ふふ……じゃあその間に……本棚とか……少し汚れてきてるから……私……お掃除……してあげるね」
「ん?あぁ……ありがとう。すぐだから、早く終わらせてね。軽くでいいし」
氷織がちょこちょこ僕の部屋を掃除してくれることはよくある。ありがたいが、夢中になるとなかなかやめてくれなくなるので、それだけ注意しておく。
「うん……ちょっとだけいい子で……お座りしててね」
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