第27話 有栖川氷織の日記

店主にご馳走様を告げて、店を出ると、傾いていた日が完全に沈みきっていた。


そんな暗い空を僕が眺めていると、氷織が長い息を吐いて、言う。


「……おいしかった……でも……ちょっと背徳感」


夕飯に重めのラーメン食ったくらいで背徳感を感じるのは氷織くらいだろうけれど。


「やってもいいことで背徳感感じれるなんてお得だね。楽しみなよ」


「楽しむ……?」


「押すなって書いてあるボタンを押すのは楽しい。それが押してもいいボタンってわかっててもね」


「ふふ……そっか……」


こいつが未だにヘラるとリスカするのは、それ以外の発散方法に対して縛りが僕より圧倒的に強いからなのかもしれない。そういうのを少しずつほぐしてあげるのも僕の役目なんだろうか。


「つきくん……暗いから……おうちまで……送ってあげるね」


「だからなんでだよ。僕が送るってば」


「えへへ……」


言われるのをわかっていたというように氷織が微笑むので、僕は顔を顰めつつも、自分の帰り道から逸れた方向へ進み、やたらとでかくて立派な彼女の家を目指すのだ。


そして毎度その家を遠目に見て僕は思うわけだ。


ほんとどっかのお嬢様なんかなこいつ。

どうでもいいけど、金持ちとか腹立つな爆発しろ、と。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



有栖川家は政界にまつわる家系である。


氷織の父親は都議会議員で、母親はとある創業家の一人娘だ。


そんな家の長女として生まれた氷織は、幼少の頃から、独特の英才教育と、厳しい習い事をたくさんさせられていた。


氷織はそのどれにおいても優秀な結果を残せていたはずだったが、両親はそれで満足しない。


氷織には有栖川伊織というたった一人の兄がおり、伊織は氷織以上に優秀だったからだ。


どんな結果を残しても、“伊織はもっとできた”そんな呟きばかりが耳に入る。


両親はいかにして子供を優秀な人間に育てるかということばかりに執着し、氷織の我儘を聞いてくれるようなことはほとんどなかった。普通の親らしいことをしてもらった記憶もあまりない。


氷織の心は決して強い方ではなく、そんな状況に抗うこともできず、厳しい家庭の中に早い段階で嫌気がさしていた。


かといって、家の外も、氷織の生来の性格や、普通の家庭とズレた常識もあって、安息の地とはならなかった。


けれど、小学校の六年生の時。ほんの少しの間だったが、それが変わった。


お月様を、見つけたから。


家の指示もあり、彼と同じ中学に上がることはできなかった。


とても辛い気持ちだったが、氷織が家の指示に逆らう術はなかった。


彼のいない中学で、氷織はそこでの振る舞いや姿を変えることで、自分の安定を試みた。


上手な偽りの笑顔を貼り付け、他人に嘘をつき続ける両親を見て育ったせいか、氷織にとってそれは案外簡単で、うまくいった。


けれど、嘘をつき続けることは氷織にとって新たな不安定の種にもなった。

両親の嫌いな部分に自分が一つ近づいたのがわかって、憂鬱にもなった。


それでも、何もしないまま、本当の自分のまま、居場所がないことに心を侵されていくよりは圧倒的にマシだった。


彼の学力が高いことをわかっていた氷織は高校は同じ場所に通えると信じ、本来六年かけて修了する家の稽古のカリキュラムを三年で修了できるように両親にスケジュールを組み直してもらった。


それはやはり無茶で、完璧にこなすことはできなかったけれど、中学時代にカリキュラムを大幅に短縮することには成功し、高校に入ってからはかなり余裕ができた。


週に一回、金曜日は必ずお休みすることができるし、隔週で休みになる日もあった。


稽古がある日でも自由な時間がいくらか作れる程度にもなった。


そして、彼とも同じ高校、その上同じクラスになれた。


望んでいたこととはいえ、しばらくはその事実に面食らい、二週間ほど行動に時間を要してしまった。


現在でも、家の稽古が忙しい日はバイトと偽って、友達との遊びを断らねばならないこともある。


もっとも、普段から友達に本当の姿を見せていない氷織には、どっちも疲れることには変わらないから、そんなに残念と思うわけでもない。


けれど、彼に会いたいときに会えないのは........困る。


就寝前に有栖川氷織は、毎日、日記帳を開く。


今日の分の出来事や覚えておきたいこと、感じたことを記していくのだ。


あまり頭を使わない、感情優先の、乱雑な日記。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



今日もつきくんがお家の近くまで送ってくれた。私が送ってあげたかったけど、つきくんは私の言うことを聞いてくれない。でも、送ってくれるのも嬉しい。



つきくんは、今日も可愛かった。前髪をピンで分けてあげたらお顔がよく見えて今日はたくさん幸せだった。一緒にお昼寝もできた。嬉しかったな。


松原さんと成瀬くんに見つかったときは、どきどきしたけど、それも楽しかったな。つきくんはおててを握ってあげたら、松原さんと成瀬くんに対してもちゃんと喋れてた。お口は悪かったけど。安心してくれたのかな。可愛い。


つきくんのおてては内側はぷにぷにしているのに、ぎゅっと握られると、年相応の男の子みたいにこつってしてるのがわかってどきどきする。


今日、またつきくんが色んなことを教えてくれた。背徳感を楽しめなんて彼は言う。


つきくんは悪い子だ。


でも、彼がが言うとどんなことも子供の悪戯みたいに聞こえて、安心する。


お父さんとお母さんは、家に恥じない行動を常に心がけなさいって、小さい頃から口癖のように言ってた。

でも、それに縛られる必要はないのかもしれないってちょっとだけ思えた。


時間をかけたら、変わっていけるかな。


つきくんに近づけるかな。


つきくん、今は何してるかな。


『(氷織)つきくん、今何してるの?』


さっきも送って返事をもらったのに、また同じメッセージを送ってしまう。


『(つきくん)うるさい。何しててもいいだろ』


怒られた。今日で7回目くらいだからかな。でも、本気じゃない、きっと照れ隠し。


前につきくんはすぐに既読がつかないくらいで変になるなって怒ったけど、その後は一度も私を不安にさせるほど既読が遅くなるようなことはなかったから。


『(氷織)教えて……ほしいの』


『(つきくん)おしっこしてんの!邪魔すんな!』


『(氷織)そ、そっか。ごめんね』


やっぱり、照れ隠し。

でも、お手洗いなのは隠して欲しかったかもしれない。恥ずかしい。


6月10日。夜の11時28分。

つきくんはお手洗い。


特にこれを覚えて何があるわけじゃないけれど、念のため。


「あ……間違えた。こっちはつきくんの登校時間メモ……こっちの生活メモに……」


彼を初めて見た時は、すごく、不安定でちぐはぐな子だと思った。


けれど、綺麗だと、そう思った。


つきくんはすぐに感情が顔に出る。

どうして私と同じでをそんなに辛そうなのに、綺麗に光って見えるのか。


それを確かめたくて、たくさん見てた。それでもその理由はよく分からなかった。


でも、たくさん見てたら彼はとっても可愛かった。段々何も分からないままでも、それだけでいい気すらするくらいには。


一人で何かを読みながら笑ってる姿も可愛いかった。


道で縁石につまづいて、ぷんすか怒って、その縁石を蹴ってはまた痛がってるのも可愛かった。


一人でこっそり泣いてるときは、ちゃんと慰めてあげたかったけど、あの時は直接顔を合わせるのが恥ずかしかったし、どうしたらいいかわからなかったの。ごめんね。そんな姿も可愛いって思って見てたけれど、それもごめんね。


寂しそうな顔は、見てると胸がキュってなる。でも大丈夫なの。私が……見てるから。


最近は、どうしてつきくん私がつきくんにこんなに惹かれるのか言葉にできるようになってきた気がする。


彼の心の中にあるいくら成長しても変わらない怖いくらいの純真無垢。


私はそこにすごく憧れているのだと、最近は思う。


つきくんのそれはいつも周りのギラギラした光に抗って、反射して、いつの間にかつきくんを光らせている。


つきくんは私が変になると、すぐに私より変になって、私を変じゃなくする。


つきくんにとっては、そんなに変じゃないことなのかもしれない。


この前は、つきくんの前でならどれだけ変になってもいいって言ってくれた。一瞬だけ、告白かと思っちゃったのは、秘密。


でも、すごく嬉しかった。つきくんは我儘だけど、優しい。


つきくんは純粋だから、私も彼に嘘をつかない。

つきたくない。冗談は、たくさん言っちゃうけれど。反応してくれるのが嬉しいから。


言葉でも、行動でも、表情でも、気持ちをなんでも伝えてくれるつきくんが、だいすき。


でも、最近は、たくさんお話ができるようになって、嬉しいも……楽しいも……恥ずかしいも、つきくんにたくさんもらって……なんだか……変な感じ。


お顔……熱い。


「あ……」


文字で埋め尽くされた日記帳を見て、思わず声が出てしまう。


また、今日のことだけ書こうと思ったのに、いろんなことが溢れて前にも何回も書いたこと、書いちゃった。


「今日は……このくらいに……しておこうかな」


これをつきくんに見られたらとっても恥ずかしい。

嫌われちゃうかな。

それとも、ちょっと怒った後にまた私じゃ予想もできないようなことを言って、私を嬉しくさせてくれるのかな。


一緒に勉強した時も、つきくんは、好きにしていいって、そう言ってくれた。


今の私じゃまだ怒られちゃうかもしれないけど。


無理矢理でも、強引でも、受け入れてもらえるように頑張り続けることはしてもいいのだと、私は知っている。つきくんが教えてくれたから。


そしていつか、もしも彼が『本当』に私を求めてくれる日が、求めさせられる日が来たら、

その時は——


「それまでは全部……頑張らなくちゃ」


私はこうして今日も日記帳を閉じ、ベッドの中へと一人潜り込んだ。

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