第21話 ご飯事情
「くそ、なんなんだあいつら。好き勝手しやがって……」
自分のことを棚に上げ、一人自室で悪態を突きながら勉強を再開していると、しばらくして、インターホンの音が響いた。
時刻は午後7時半を回っている。
今日はちょうど金曜日なので、母さんが帰ってくるには早い。
誰かと思い、玄関を開ける。
「こんばんは……」
聞き慣れた抑揚の薄い声で挨拶してきたのは黒髪に薄紅の瞳の少女。
先ほどまで見ていた金髪に紫の瞳の少女と同一人物。有栖川氷織である。
ウィッグを取った直後だろうに、一切損なわれることのない艶やかさを持つ触れたくなるようなストレートの黒髪。
それは先天的に恵まれたギフトなのか、日々の手入れの賜物か。
時間的に潮海が門限になって解散したのだと思われるが、わざわざ姿を変えて僕の家まで来たのか。
「僕、何か忘れ物した?」
「ううん……」
真っ先に思い当たった可能性を口に出して見るが、氷織は首を横に振った。
「ん?じゃあなんの用事?」
「遊びにきたの……今日はそういう日……でしょ」
「そりゃそうだけど……」
金曜日は僕と氷織が遊ぶと決めた日なのは確かだ。
しかしながら、今はテスト期間だし、そうでなくても、互いに素を出し切れない状態とはいえ、さっきまで一緒にいたのだ。
さすがに今日はお休みだと思っていたのだが。
気のせいだろうか、少しだけ氷織の目の光がいつもより弱いような感じがするのは。
「今日、私より……あまちと会話した時間の方が……長かったもん。そんな状態で……一日終えるの……や。つきくんのほんとの友達は……私だけ」
潮海と仲良くしたつもりは全くないが、確かに氷織は一番勉強に集中していたし、潮海との会話の方が若干多くなっていたのはその通りだ。
「でも今日は疲れたし……勉強したいし……」
「……いや」
「でも……」
反射的に僕は渋ってしまうが、それが良くなかったらしい。
「いや!いや!!許さない!!」
幼子のように首を振っていた氷織が徐々普段の喋りとかけ離れた大きな声を上げ、スカートのポケットから三角定規を取り出した。
「だぁぁもう、やめろってば!バカ!!アホ!!ぶっ殺すぞ!!」
一度三角定規が氷織の手首を強い勢いで通ったところでなんとかそれを没収し、僕も共鳴するように大声を上げた。ついでに地団駄を踏む。
「手首見せろこら!」
「あぅ」
氷織の左手首を無造作に掴み上げ、その長袖を少しまくる。
氷織が抵抗することはなかった。まだキーキー言うようなら、僕もキーキー言い続けることになり、我慢比べが始まっていただろう。
瞬間的に情緒を乱す奴を客観的に見せられたことでことで逆に落ち着いたのかもしれない。
まじまじと見るのは初めてだが、そこには想定通りの細く重なる傷跡が残っている。
僕に取っては見慣れた手相みたいなものだが、誰よりも白く美しい繊細そうな肌があまりに似つかわしくないそれを引き立たせ、言いようのない胸の高鳴りを僕に感じさせる。
そして、自分だけと悲観していたそれが彼女にあることがほんの少しだけ……。
いや、なんでもない。
結構強く擦れていたように見えたのでつい、無造作に触れるような真似をしてしまった。
特に血が滴るようなことはないが、僅かに赤く擦れた傷はある。
絆創膏くらいは貼っておいた方がいいかもしれない。
「めんどくせーなぁ」
「うぅ……ご、ごめんね……嫌いに……ならないで……」
今度は一気にしおらしい声で自分を責めながら縋るような瞳を向けてくる氷織。
僕は自分用に常備している絆創膏を取り出し、それを氷織の手首に無造作に貼り付けてやりながら、答える。
「ならないっつの。前も言ったろ、好きにしろって。そんなんで僕の感情動かせると思うな。我慢なんかいらない。病みたきゃ僕の前だけで一生病んでろ。僕の前でだったら何されてもどうとでもできるし」
知らないところで病まれるよりは何百倍もマシだ。こんなことは言いたくないが、性別的な観点から見て、僕が氷織に力で劣ることはないので何が起きたとしても目の前にいるなら力で抑えつけられるのだ。
こいつ結構力強いからわかんないけど……たぶん。
「……それって」
氷織は驚いたように目を見開いていた。
「あ?」
それに僕が怪訝な声を漏らすと、
「う、ううん。やっぱりつきくんは……そんな風に答えて……くれるんだね」
見開いた目を柔らかい微笑みに変えて氷織はそう言った。
「……っ」
ここまでの不安定な情緒を全て吹き飛ばすようなあどけない表情に思わず面食らう。
「えへへ……この絆創膏……剥がしても捨てないで……大事にする」
「やめてよ、きったねーし。プレゼントとかじゃないんだから」
何考えてんだこいつ。
「や!ちゃんと……洗うもん」
知らねーよ。
まぁ、別に誰が困ることでもないしどうでもいいか。どうせ僕に止める術はない。
「えへへ……」
自分の手首を撫で、もう一度微笑む氷織。
「……もう、そんなに時間ないからね」
さっさと家に入れることにしたのは、別に幸せそうに笑う氷織に絆されたとか見惚れたからとかではないのだ。
「う、うん……!すぐシャワー……浴びてくるね」
「なんでえっちなことする前みたいになってんだよ浴びんな!」
「……じょ、冗談。えっちなこと考えるのは……だめ」
「お前なんかきらい」
自分で言っておきながら相変わらず頬を染めつつはにかむ氷織に、さらに僕の動揺が加速させられ、拗ねるような口調になってしまった。
「ウソ。つきくんは……私のこと好きって……この前言ってた」
さっきは自棄みたいな発言したくせに、なんで今度はそんなに自信過剰になるんだこいつ。
「……友達としてね」
僕は呟くようにそう言うが、氷織は時計を見ながら首を傾げていた。
「つきくん……いつもこの日……夕ご飯どうしてるの?お母さん……遅いんだよね?」
「母さんが帰ってくるまでは、お菓子とか食べて待ってるよ。自分で作るとか無理だし」
金曜日に限っては、遅いと夕飯は午後10時を過ぎるようなこともあるが、僕は割と少食な方だし、特に苦というわけでもない。
テイクアウトや出前やらで僕が母さんの分も含めて何か買っておくこともあるが、そんなに生活が豊かなわけでもないので、基本方針は母さんの自炊である。
「お母さん……遅くまでお仕事して……ご飯作るの……大変」
「まぁ……そうかもね」
「つきくんも……お腹空いちゃう……よね?」
「うん……まぁそれなりにね」
「私……作ってあげようか?」
「うん……え?」
氷織がぽつりとなんでもないようにそんなことを言うので、少し反応が遅れてしまった。
「いや……でも」
「つきくんの……ママになってあげる」
「なんで母さんの代わりにご飯作ったらママ認定になるんだよ」
「じゃあ……お姉ちゃん?」
「ダメ人間だけど、姉もいるよ」
「そうなんだ……私も……お兄さん……いるよ」
「へー」
初耳だったので素直に感心の声が漏れた。こんな会話で知ることになるとは思わなかったが。
「えっと……私が作るの……いや……?」
「そんなわけないし……ありがたいけど……いいの?」
「うん!じゃあ……すぐ作るね。冷蔵庫の中……見ていい?」
「こ、こっち。どうぞ」
なぜかちょっと緊張しつつ、氷織を台所に案内し、冷蔵庫を開けてやる。
「あ……」
すると氷織は中を見る前に何かに気づいたような声をあげ、少し残念そうな顔で、呟く。
「……勝手に食材使って、つきくんお腹いっぱいにしたら……お母さん怒るかな」
「あぁ」
今更過ぎる話だが、確かにもっともな心配だ。だがその必要は特にないだろう。
「霧夜ねぇが帰ってきて適当に僕の分も作って出て行ったって言えば大丈夫だよ。たまにそういうことあるんだ」
姉は基本的には母さんに飯を作ってもらうために帰ってくることが多いが、それでも母さんがいないときは、そんな行動を起こすことも珍しくない。
ほんとに気まぐれな姉だ。
「お姉さん……霧夜さんて……いうんだね」
「ん……まぁね」
「じゃあ……つきくんのお母さんの分も……作った方がいいね」
「いや……さすがにそこまでは悪いし」
「料理は食べる人が増えても……そんなに手間……変わらないから」
「うーん……まぁ、そういうことなら」
料理をする人なら一度は言ったことがありそうな氷織の言い分に甘え、僕はありがたく料理を振る舞ってもらうことにした。
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