第17話 二人で勉強
潮海が帰宅し、クラッシックのBGMと、シャーペンがノートを滑る音だけが長時間響いていた。
「お客様、本日ラストオーダーとなっていますが、何かご注文はありますか?」
「……」
「あの、お客様?」
店員さんの声で、僕はふと、目の前の問題から意識を引き戻された。
「はい?」
「えぇと、ラストオーダーなんですけど」
「あ……えっと、じゃあアイスコーヒーをもう一杯」
どうせ飲み放題だし、頼むだけ頼んでおこう。
「私も……」
僕が注文すると氷織も条件反射のように同じものを頼んでいた。勉強を続けたいならカフェインは重要だ。
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
店員さんが去っていき、潮海が帰ってから初めて僕は氷織に話しかけた。
「ねぇ」
「……」
集中する氷織に僕の声は届かなかった。
これ実際やられると結構イラッとくんな。
潮海って実はかなりいい奴なのか?
まぁいい。こういうときどうすればいいかは僕が一番わかってる。視覚情報を一旦カットしてやればいいだけだ。
「おい」
「あぅ……」
カラーコンタクトの入った大きな紫色の瞳に手のひらを添えてやると、氷織が変な声を漏らす。
手を離してやると、きょとんとした顔で氷織がこちらを向いた。
「つきくん……どうかした?」
「なんでいつの間にかお前僕の隣に来てんの?さっきまで向かいにいたろ」
僕がこうやって氷織の集中をカットできたのもそのせいである。
集中していたせいで氷織が勉強道具ごと移動してきているのに全く気づかなかったようだ。
「……?」
氷織は僕の問いにわざとらしくこてんと首を傾げた。
「僕がおかしいみたいな顔すんな」
「……気づかなかった」
「んなわけあるか」
「……近くに……いたくなったの」
問い詰めているつもりだったが、真っ直ぐな瞳でそういうこと言われると、さすがにのけぞらざるを得なかった。
「つきくんが本音で話せるのは私だけなのになんであまちとも普通に話すのいやいやつきくんのことわかるの私だけだもんなんで——」
「うわ馬鹿、そんなべらべら喋りながらスラスラ問題解くな」
予測不能のタイミングで急にヘラりやがった、マジでこいつ……。
「あ……ご、ごめんなさい……」
「ふん、別にいいよ。嫌なことあるなら好きに発散すればいい。僕はそうされる方が好き」
「つ、つきくん……」
「僕が素直にお前の言うこと聞くと思ったら大間違いだけど」
「い……いじわる。それじゃ……意味ない」
「でも、君が僕に無理矢理言うことを聞かせようとすることは否定しない。むしろ肯定する。できるもんなら好きにしてほしいって、そう言って——ぁ」
本気の本音が漏れていることに、過去の経験から無理矢理つくられた僕の理性がブレーキをかける。
互いが好きなように互いを支配し合えば、釣り合いは取れる。
そんな考えを言葉にすれば、大抵の人は気味悪がるものだというのに、
「……つきくんは……まっすぐ……だね」
氷織はふと何かを思い出すように目を見開いた後、こちらを見詰めて、そんなことを言う。
まっすぐ。昔は歪んでるとかよく言われたというのに。こいつはほんとに変なやつだ。
「ていうか……その姿であんま近づかないでよ。なんか慣れなくて……変な感じする」
ハイトーンの髪と紫の瞳が印象的な表の氷織の姿は僕にとっては慣れないものだ。
「え?そ、そう……なの?えっと……どきどき?」
「……ハラハラかな」
僕がちょっと気まずそうにすると、自分からやっといてこいつも共鳴して気まずそうにしてくる。
行動に理性が追いついてないのはやめてほしい。
そんなことを思っていると店員さんがグラスを運んできた。
「ご注文の品をお持ち致しました。ごゆっくりどうぞ」
ラストオーダーでもマニュアル通り喋る店員さんに適当にお礼を告げ、コーヒーにミルクとガムシロを適当に突っ込もうとすると、
「ガムシロップ3、ミルク5……」
その前に、氷織が確認するように淡々と僕の混ぜ合わせを言葉にしていた。
それが完璧であることにむかついた僕は、仕返ししてやるのさ。
「ガムシロ5、ミルク3」
「あぅ……つきくん……私の……ちゃんと見てたの……?」
「見られてたら見るのは当然。この甘党が」
深淵を覗く時なんとやらって知らんのかこいつは。
まぁ、苦い人生にさらに苦味を注入するのもアホらしい。
可能な限り甘味で中和しようとする姿勢には賛成だけれど。
ブラックコーヒー飲んでる奴とかって本当に美味いと思ってるのかな。
「つきくんも……ミルク多いと思う。……赤ちゃん?」
「うっさい。色が薄くないとなんか不味そうに見えんの」
ガムシロが多いよりはいくらかマシだと思うが、まぁいい。
「そんなことより、今日やったとこで最後に勝負しようよ。テスト代わり」
潮海じゃないが、せっかく隣にトップがいるなら力の定着具合を試さない手はない。
「いいよ。じゃあ……このページ」
捻くれた応用問題が固まっているページ。難しいから教師もテストに一問出すか出さないか程度の代物だ。
今思えば、ここで潮海がうんうん唸っていたような気がする。
とはいえさっきまでやっていた範囲のものだし、解くための知識に不足はないはずだ。
「ふむ……よかろう。何か賭ける?」
「負けたら……リストカット」
「おいこら」
「冗談……負けて悔しくても……やったらだめ……だよ?」
「く……負けたくらいでそんなことしないし。お前じゃないんだから」
まさにブラックジョーク。
ちょっと前科がなくもないので、強く言い返せない。らしくない冗談を言いやがると思ったが、注意喚起という意図なんだろうか。しかし、相変わらず勝つ気満々なのは腹立たしい。
「問題用紙もぐちゃってしちゃ……め」
「見てたのかよ……。じゃあなに賭ける?」
「……負けた人が……勝った方の頭……なでなで」
「なんでよ」
「つきくんは……頭撫でられるの……好き、でしょ?」
「そ、そんなこと言った覚えない。それじゃどっち得してるかよくわかんないし、負けた方が奢りとかでいいでしょ」
「む……じゃあ……それでいいもん」
焦って僕が捲し立てると、勢いに押された氷織が不満げな顔で了承した。
焦ったのは図星つかれたとかそういうんじゃない。
賭けの内容も決まり、よーいどんで問題を解き始める。
客もほとんどいなくなった店内で、本日最速でペンがノートを走る音が響く。
それが妙に心地良かった。
20分程で問題を解き終え、顔を上げると既に解き終えていた氷織が僕の方を見ていた。
「くそ……」
五分差といったところだろうか。
そして答えを合わせると、
「ぐぅ……」
氷織は全問正解。僕は一問ミス。
やはり首席の壁は高い。早さでも正確さでも負けた。
勉強のやり方も時間もほぼ同じである以上、地頭か集中力の差だろうか。
あるいは、何か他の経験値の差か。
「つきくん……まだまだ」
「ふむ……そうだ、今日は僕が奢るよ。いやいや、このくらい男として当然ていうかねうん。気にしなくていいから」
「もともとそういう勝負……でしょ?」
せめて奢ることをただの善意っぽくして、少しでも優越感を得ようとしたがだめだった。
しかたない。懐事情は決して豊かではないが、英世一枚くらいならどうとでもなる。
「そういえば、氷織は門限いいの?僕の家はゆるゆるだけど」
時刻は午後九時半。店が閉まるのは10時だし、ぼちぼち帰らねばならない。
条例的には一切問題ないが、女子高生が帰宅する時間としては少々よろしくないのも事実。連絡ありきとはいえ、親も心配するかもしれない。
「うん。今日は……大丈夫。両親は……そんなに私に興味ない……し」
「ふーん。ドンマイ」
「か、軽い……もっと……かまってほしいのに」
氷織の情緒不安定な面は、家庭の影響があるんだろうか。しかし、いきなりそんな話をされたところで僕が直接どうこうできるわけもない。
実際に見てしまったら、なにかしてしまうかもわからないけれど。
「……家だろうが学校だろうが、嫌なことあるなら、年中暇な僕を好きに使ってよ。遊び相手くらいしかできないけど、リスカよりマシだろうし」
「う、うん……これからも……ほんとの私と……いっぱい遊んでね」
「ん……集中切れた。もう帰ろうよ。送るし」
当たり障りのないことを言ったつもりだったが、氷織が綺麗に笑うもんだから、少し恥ずかしくなって話を切ろうとした。
「私が……送るよ?」
「そこ食い下がってくんのかよ。潮海と僕の話聞いてたろ」
「つきくんは……一人じゃ帰れない」
「なわけあるか。帰宅部エースの僕に喧嘩売ってんの?とにかくここは譲らない。大人しく家の近くまで案内しろや」
「むぅ........」
渋々了承する氷織と共に、会計を済ませようとすると、
「あ、そちらのお客様の分は既に会計が済んでおります」
店員さんが氷織を見てそんなことを言った。
「うん?」
「あ……あまちが……払ってくれてたみたい」
なるほど、僕の分だけはきっかり残してあるところに悪意を感じるのは気のせいだろう。
したり顔の潮海が脳内でちらつきながらも、改めて会計を済ませ、店を出た。
氷織にざっと家の方向を聞きつつ、歩き出す。
方向的には僕の家と同じみたいだし、楽そうで何よりだ。
「潮海はほんとに君のことが好きみたいだね」
「うん……あまちは……学校での私が……すごく好きみたいなの。あまちは……嘘の私の……最初の友達。私もあまちのこと……好きだし……嬉しい……けど......難しい」
「そう」
気持ち的には複雑ってところか。完璧な自分をより強く求められることは大きなプレッシャーになるはずだ。ほんとの自分を否定された過去があるなら、なおさら。潮海に限らず、他の連中にも少なからず、氷織はそういう感覚を持っているのだろう。
そんな日々を氷織は生きている。それはぼっちとは全く別の苦しみで、逃げている僕にはきっと、理解できない。
「氷織」
「ん?」
「これ見て」
言いながら僕は右の手のひらを差し出した。
「えっと……可愛いおててだね」
「ちげーよ」
それが男子高校生の手を見て出てくる感想かよ。馬鹿にしてんのか。
「もっとよく見て」
氷織が目を凝らし、僕の手に顔を近づけ、その頭がちょうど良い高さにくるのを待つ。
そして、
「……何もな——んっ」
すぐさまその手を上方に移動させ、無防備な頭に手を置いた。
「潮海のせいで賭けが無駄になったから。お前の代案を採用ということで」
「あぅ……」
「恥ずかしがるくらいなら提案しなきゃいいのに」
「うぅ……」
氷織の頬を染めた上目遣いから一瞬で目を逸らし、僕は平静を保った。
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