第12話 うっかり、泣く
セオドアの商船は大型で、海の上を滑る様に進む。
イアーゴは船に乗るのは初めてだが、船酔いに悩まされる事もなく、船員として船の上で働き始めた。
実のところ、船どころか海を見るのも初めてだったイアーゴは、最初セオドアに連れられて港に来た時、馬鹿みたいに口をぽかんと開けて立ち尽くしてしまった。
船も大きくて驚いたが、海はそれと比べ物にならないほど大きく広く。しかも生き物の様にちゃぷちゃぷと水が動くのだ。
呆然とするイアーゴを気にする風もなく、セオドアは船員たちにイアーゴを引き合わせた。年齢層は様々で、父親くらいの男もいれば、同年代や年下もいた。
元は子爵令息だが、貴族籍を抜けて今は平民、ただのイアーゴだ。
仕事も当然、下っ端の下っ端からの始まりとなる。
けれど最初から使い物になる筈もない。
船に荷を積む時、他の船員たちが同時に木箱を二つ三つ運ぶのに対して、イアーゴは木箱一つさえ重くて持てなかった。
イアーゴより五つも年下の14歳の少年に手伝ってもらい、二人で一つの木箱を運ぶ。ちなみにその少年は本当なら一人で一つ運べるという。つまり、完全なる足手纏い、もしくは役立たずである。
もともと大して身体の鍛錬などしていないところに、五番目の恋人から移された病気が治ったばかり。余計に体力は落ちていた。
挙句、翌日にはひどい筋肉痛。
ギコギコと妙な動き方をするイアーゴを見て船員たちが大笑いした。
「兄ちゃん、力なさすぎ」
「仕方ねえさ。ついこの間まで貴族だったらしいから」
「安心しろ、一年も経てばムッキムキになるさあ」
気安く頭や肩をバンバン叩かれ、散々に揶揄われたが、見下されている感はなく、不思議と不快には思わなかった。
こんなに沢山の人に囲まれ、人の声がずっと途絶えないのは初めてで、イアーゴはなんだかむずむずした気分になる。
誰かと一緒の食事はとても美味しいという事も、ちょっとボーっとしていると皿から肉がなくなってしまう事も、初めての経験だった。
1週間も経てば、早起きにも慣れてきた。
2週間経つと、食事の最中に肉を奪われない様に上手くガードできる様になった。
3週間めには、木箱を一人で持てる様になった。皆に拍手された。
4週間めに大きな港に到着した。三日ほど停泊する予定で、多くの船員たちは船を降りて街に出た。
美味いものを食べ、酒を飲み、女を買うんだと張り切る彼らは、イアーゴにも声をかける。
だがイアーゴは断った。
恋人の1人から移された病気で痛い思いをしたせいもある。慣れない労働に疲れてとにかく眠りたいのもある。まだ毎日筋肉痛がひどいという理由も。
けれど一番は、
セシリエと婚約してからずっとイアーゴを駆り立てていた女への欲は、何故か今は鳴りを潜めていた。
港近くで錨を下ろした船の上、イアーゴはデッキブラシで掃除をする傍ら、甲板から海面を眺める。
すると、隣に人の気配がした。視線を向ければセオドアだった。
「初日より随分とマシになったな」
「ハンメル・・・男爵」
「いきなり平民に落とされ、問答無用で船に乗せられ、かなり荒れるかと思ってたが、意外と素直に働いていて驚いた」
「・・・ありがとう、ございます?」
イアーゴは、何をしても、何をしなくても、実の父から声をかけられた事などなかった。
あったとしたらあの時くらい、そう、セシリエとの婚約解消の話が出て怒鳴られた時。
いや違う、もうひとつあった。セシリエとの婚約が決まる前、「結婚まではいい顔をしておけよ」と。
「・・・」
「ん? なんだ? 文句だったら受け付けないぞ?」
「・・・いえ」
何もない時に何気なくかけられる言葉、それをよりによってセシリエの父からもらった事にイアーゴは困惑し、でもやっぱり嬉しくて、うっかり泣きそうになった。
罰を受けてる筈なのに。
贖罪としてここに連れて来られた筈なのに。
何故だろう、子爵家にいた時よりもずっと気持ちが楽だった。
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