第45話 新たな始まりの夜に
アガートの膝枕の上に身を横たえて間もなく、すうすうと穏やかな寝息が聞こえてきた。
寝顔は無邪気で健やかだ。
式典や会食の場で見せた「神子」の姿はまさしく月下美人のように神秘的で、凛とした立ち姿は一輪の百合のように静かに、けれど強かに光を放っていた。
大きな不安と緊張を抱えながら、それを微塵も見せずに大舞台を務め上げたのだ。
この小さな体にどれほどの重責だっただろうか。
それはこれからも彼女が神子であり続ける限り続いていく。
ユウはその覚悟をこの短期間に固めたのだ。
しかも会食の最後には素晴らしいサプライズを用意していた。
自分の想い…それも周囲に対する「感謝」を伝えるために。
ここまで健気な神子は、過去を遡っても他にいないだろう。
お披露目式のためにウォーキングのレッスンを受けたり、束の間の自由時間を自分のためではなく、周囲のことを思って菓子を手作りするために使ったり、数え上げればキリがない程ユウは一生懸命こちらの想いに報いようとする。
だからこそ余計に庇護欲をそそられる。
「神子なんてやめていいよ、って…言いたくなっちゃった」
ディアはぽつりと呟く。
紛うことなく本心から出た言葉だ。
神印持ちとして彼女の一番近くにいることを許された三人にとって、もはや「神子」であろうとなかろうと、ユウを愛しく想い慈しみ、その幸せも何もかもを護りたい。
そう思う事は、彼らの総意だ。
こんな風に無防備な姿を見せるのは自分たちにだけなのだと思うと、その想いは自然と強く大きくなる。
「今日を迎えられたのはユウのおかげですよ。月光神様も貴女の献身に応えて、あれほどたくさんの生命の水を授けてくださったのです」
「感謝しても足りないくらいなのは僕たちの方だ。今日のユウを見たら、簡単に誑かせる相手じゃないって他国も分かったはずだよ。ユウは月光神様の加護だけじゃなく、自らの力でユエイリアンを護ってくれたんだ」
「俺たちにとってはユウ自身が女神さまだな」
彼等は実感を込めて口々に言う。
サフィールは薄手のブランケットをユウにかけ、彼女の額から目にかけて落ちたひと房の前髪をそっと戻す。
部屋の入り口では、そんな彼らの様子を静かに見守っていたシンケールスが佇んでいた。
「それでもやはり、神子が懸命にその務めを果たそうとするのは、貴方方が心から神子を慈しんでいるからなのですよ」
「シンケールス様…」
彼もまた静かに歩を進め、すやすやと幼子のように眠るユウに歩み寄る。
「まるで神子は鏡のようです。私たちの想いを神子は見抜いて素直にそれを返そうとする。これからも私たちが神子を正しく想い続ける限り、神子はそれに応えてくれるでしょう。月光神様もまた、そんな神子にご加護を授けてくださいます。どんな時もありのままの神子を受け止め、慈しんで差し上げてください」
それは神殿長としてではなく、一人の娘を想う父としての願い。
いついかなる時もこの穏やかな顔が曇ることのないように。
澄んだ瞳が悲しみや苦しみの涙を称えることがないように。
無垢な心が邪な思惑を抱く者によって、いたずらに傷つけられることがないように。
神子を護る手は多い方がいい。
それも、月光神が選んだ者の手ならば。
「夕食の場で正式に神子にお伝えしようと思います。新たな神印持ちについて。よろしいですね?」
その言葉に、サフィールたちはしっかりと頷いた。
ゲートの膝枕で気持ちよくお昼寝した後、目を覚ました時にはすでに辺りは濃紺の空に包まれて、星々がチカチカ光りはじめていた。
夕食にと準備された料理が並ぶ中、私は静かにシンケールス様の言葉を待っていた。
いつもならテーブルを囲んで誰からともなく他愛のないおしゃべりを始めるのに、今は誰もが口を閉じている。
ほんの少しの緊張感が漂って、私はサフィやディアに「どうしたの?」と視線で問う。
返ってくるのは穏やかな微笑み。
給仕係の神官たちが全ての支度を整えて部屋を出ていくと、ようやくシンケールス様が
「神子、食事の前に大切なお話があります」
と口を開いた。
用意された料理の数からして誰かが招かれていることは予想がつく。
それも二人分。
誰が来るんだろう、と思いながらシンケールス様の様子を目で追っていると
「二人とも、お入りください」
シンケールス様がそう告げて、すぐに見慣れた二人の姿が現れる。
「グラナートさんにルヴィニさん!」
「おう」
「こんばんは」
二人はそれぞれどこか緊張した様子で私に視線を向ける。
いつもと変わらない笑顔と聞き慣れた口調、それなのに二人はどこかぎこちなくて。
夕食の席についてもそれは解けそうにない。
「シンケールス様?」
私は少し心配になって彼に説明を求めるように目で問いかける。
シンケールス様は私の視線を受け止めると、一度目を閉じて頷いてから口を開いた。
「神子、新たな神印持ちのお二人です」
「神印持ち…?」
「お心当たりはありませんか?二人が月光神様に選ばれた時の事に」
「心当たりって…あ…もしかして…」
言われて初めて、ボレアンから帰ってきた翌日の事がフラッシュバックする。
サフィたちの様子に私が拗ねて、ひと悶着合ったあの時の事だ。
私の額が二度反応して「月光神様がご加護を授けてくださった」とサフィが言っていた。
その「ご加護」が何か分からなかったけど、あの二回がそれぞれグラナートさんとルヴィニさんに神印が浮かんだ時だとしたら。
「サフィ、あれって神印の事だったの?」
そう問いかけると、サフィは心底申し訳なさそうに表情を曇らせ「もうしわけあ…」と口を開きかけた。
「すまない」
遮ったのはグラナートさんだ。
でも
「判断したのは私です。神子、すぐにお話ししなかったこと、お許しください」
グラナートさんを制止したシンケールス様にそう言われ、頭まで下げられてしまった。
「待ってください。顔を上げてください」
私は慌てて彼の肩に手を添えて請う。
確かにビックリしているし戸惑ってもいる。
正直二人が神印持ちになったと言われて、どう反応すればいいのか分からない自分がいる。
それにこの件について話してもらえなかったのは、サフィたちと少しだけ仲違いのような状態になった原因でもある。
けれどシンケールス様が判断したことなら、必ず意味のあることだと分かっているからそれを責めるような気持ちにはならない。
「許すも何も、謝罪なんて必要ありません。シンケールス様がいつも私の事を想って最善を尽くしてくださっていること、ちゃんと分かっています。それに月光神様が二人を選んだのなら、それは私にとって大切な意味を持つということですよね」
「はい。月光神様はこれから神子が生きていく上でお二人の御力が必要だと思われたのでしょう。それにお二人にも思うところがおありのようなのです。私としては此度の件、とても嬉しく思っています」
穏やかな微笑みを浮かべてシンケールス様はグラナートさんとルヴィニさんに視線を向けた。
それを受けて彼等もホッとしたように息を吐く。
最初から漂っていた緊張感も少し緩んだようだ。
「ここから先は夕食をいただきながらお話ししましょう。せっかくの料理が冷めてしまいますから」
シンケールス様に促され、私たちはようやくカトラリーを手にとった。
一度落ち着いて、冷静になった頭で考え始めると浮かんできたのは「二人は神印持ちになって良かったのかな」という不安にも似た心配。
グラナートさんは国を代表する天才料理人。
ルヴィニさんはこの国随一の仕立て屋。
共に確固たる地位があり、誇りを持って自分の仕事と向き合っている。
それはサフィやゲート、ディアも同じことだけど、最初から神印持ちとして月光神様から選出された彼等とは経緯が異なる。
これまでとそれぞれの関係性も変わるわけで、何より神印持ちが私の夫候補であるという側面からして、ある日突然「神子の夫になる(予定)のよ」と神様から言われたところで「はい、そうですか」と受け入られるものかどうかも私には分からない。
もちろん素質とか人格とか、そういった適格性云々についての不安はなく、むしろ国が誇る人材である二人が傍にいてくれるとなれば鬼に金棒だ。
私にとっては是非もない程ありがたいことであり、神殿としても歓迎しているのはシンケールス様の様子を見ていれば一目瞭然。
その反面、神印持ちになると「神子最優先」になるから、それが国民にとって歓迎できることなのか…仮に歓迎していたとして、本当に国民にとって、ひいてはユエイリアンにとって良いことなのかどうかは疑問が残る。
もちろんそれは私の中での疑問であり、個人的なものかもしれないけれど。
「神子様、憂う横顔も切なげで庇護欲をそそられちゃうけど、そんなに心配しないで」
「ルヴィニさん…」
満月に照らされた神殿のバルコニーはとても静かで、肌を撫でる涼しい風が心地いい。
昼間、国民に向けたお披露目の場で訪れたこの場所は、期待と歓声に包まれてとても賑やかだった。
それが今は小さな虫の鳴き声と、時折風に優しく揺れる葉擦れの音が聞こえるだけで、設えられた大理石様のベンチに腰かけた私とルヴィニさんは、サイドテーブルに用意された温かいフルーツティーで喉を潤す。
このお茶はサフィが用意してくれたもので、爽やかな果物の味と香りを楽しみつつ、ほんの少しだけ加えられたハチミツがそれらに深みを与えていた。
バルコニーに繋がる扉の向こう側では、多分みんなも同じようにティータイムをとっているはず。
ただ、神子付きの護衛であるゲートだけはバルコニーに出て、扉に背を預けて腕を組みながら顔を軽く俯け「自分はいないものとして」いる。
ゲートがそうする時はすぐに私を護れる距離をとりながらも、話は全て聞いていないものとしてくれる。
だから私とルヴィニさんはまるで友達同士、内緒のお茶会をしているような気軽さで話をすることが出来た。
ルヴィニさんはすらりと伸びた足を優雅に組んで、ティーカップに口づける。
一つ一つの仕草が絵になる人だな…なんて眺めていたら、ルヴィニさんと目が合って、彼は穏やかに目を細めた。
「これは私の勝手な推測なんだけど、月光神様に神印持ちとして選ばれるには、本人の意思が必要なんだと思うわ」
「本人の意思…?」
「ええ。神子様の額に神印が浮かんで、すぐに私の右手の甲にも神印が浮かんだあの時…私、明確に、神子様のために力になりたい。お傍にいて精一杯力を尽くしたいって思ったの。私の全てで神子様を笑顔に、って」
「ルヴィニさんの全てで私を…」
まさか、そんな風に思ってくれていたなんて。
私は彼の唇が動くのを見ながら、次の言葉が紡がれるのを待つ。
「そう思った瞬間、神印が浮かんだ。もちろん初めから、神子様のためにドレスを仕立てるのはとても光栄なことだし、ユエイリアンで神子様をお迎えできたことはとても喜ばしいことだと思っていたわ。でもそれは「月光神の神子様」に対する気持ちだった。でもあの時から、私の気持ちは変わった。私は貴女のために、この腕を振るいたい。貴女のために私に出来ることは全てやる、そう決心したの」
彼の瞳は穏やかに、けれど確かな覚悟を持って私を見つめていた。
すぐあとに
「なーんて、ちょっと重たかったわね」
と肩を竦めて冗談めかしたけれど。
それから少しだけシリアスに傾いた空気を誤魔化すように、彼はお茶を一口飲んでから
「とにかく、心配いらないわ。私もグラナートも突然変わったりしないし、これからも自らの誇りにかけて仕事を全うするわ。間違っても貴女のせいで私たちが何かを失うことはないし、犠牲にすることもない。むしろ大手を振って貴女のために動けるんだから、これほどやりがいのあるお役目はないわ。そ・れ・に…」
「?」
何か含みのある笑みを浮かべて、ルヴィニさんはパチとウィンクしてみせる。
「これからは公式に貴女にアプローチできる、ってことだから遠慮なく仲良くさせていだくわね」
なんて言いながら、唇で綺麗な弧を浮かべた。
続く
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