第36話 ボレアン遠征(その10)
まさか自分がこんな平安貴族のお屋敷のような場所から、お月様を見上げるなんて思わなかったな。
虫の声も聞こえない、静かな夜。
空は月と星のおかげで思いの外明るい。
お風呂上がりに少し火照りを冷まそうと縁側に座る。
夜明け前にはこの場所ともお別れだ。
次はいつ来られるかな。
ぼんやりとりとめもないことを思い浮かべては答えも出ないまま、走馬燈みたいに考えは遠ざかっていく。
だから少しの間、心に引っ掛かっていた疑問の全ては思考の外側にあった。
そんな私の隣で気配が揺れる。
「ディア?」
何となくそんな気がして名を呼んだ。
「うん。分かってくれてありがとう」
彼らしい答えだ。
縁側から足を垂らして腰かける。
「ユウ、疲れた?」
「ううん、大丈夫」
「そう、なら良かった。この二日間、かなり忙しく動いてたから心配してたんだ」
ディアは言いながら私の頭を優しく撫でてくれる。
その重みが心地いい。
「ありがと。ずっと楽しかったから、疲れたって思わなかったよ。でも神殿に着いたら気が抜けちゃうかな?」
「抜いていいよ。ここでは気を張りっぱなしでしょ?神子様、って顔してる。ユウはすごいね。こんな短期間でも神子の役割をちゃんと果たそうとするんだもの。僕も頑張らなきゃ、って張りきっちゃった」
冗談めかしてそう言って、にこっといつもの無邪気な笑顔を浮かべる。
でもどこか…大人っぽくなった、っていうのかな…。
夜空を見上げる横顔に少し、心臓が高鳴る。
「ディアだってすごいよ。外交官、て顔してた。私の知らないディアの姿が見られて嬉しかったよ?」
「ホント?それは僕も嬉しいけど…自分じゃよく分からないや」
そう言って、ディアはぐっと両腕を上げて伸びをしながらその場に寝そべった。
「ねえ、ユウ」
「何?」
「もし町長から許可をもらえたら、ここに別荘を建てたいなって思うんだ。どう思う?」
「別荘?」
「僕たちとユウがここで過ごすための別荘。この町はユウが羽を休める場所でしょ?それなら周りの目なんて気にせずのんびりできる環境が必要だから」
「あ…、それって、このお屋敷じゃダメなの?」
「ん?ううん、ダメじゃないよ。ただ、ここはあくまでも国司の館だし、祈りの間にもつながってるから。割とオープンな場所なんだよね。常に色んな人の気配がするでしょ。ちょっと羽根休めするには忙しないかなぁ、って」
忙しない、か…。
この二日間は何かしらやることがあったし、たくさん料理したから町長さんたちが来てくれたり、自分たちが町へ行ったり、確かに人の行き来は多かったかも。
そういえば一人の時間はなかった。
神殿にいる時も完全に一人っていう時間はほとんどないけど夜はいつもゲートと二人きりだし、ゲートといる空間は心地よくて「誰かと一緒にいる緊張感」は少しもない。
サフィと一緒にいる時も、ディアと一緒にいる時も、いい意味で「素の自分」でいられる。
今も、私たちの周りに流れる空気はほわりとしている。
私にとって羽根休めの時間はきっと三人と一緒にいる時間なんじゃないかな、なんて。
調子が良すぎるかな?
「私、ディアたちと一緒なら、どこでもいいよ」
ほんの短い言葉だけど、何だかとってもしっくりくる。
口に出してみればそれがより鮮明になる。
「まいったなぁ…殺し文句だよ、それ」
言いながら引き締まった両腕で顔を覆い隠す。
そんな仕草にさえ無意識に笑みがこぼれてしまうくらい、私はディアのことが好きらしい。
今はまだどんな「好き」なのか明確に区別できないけど、いつか、遠くない未来に答えは出せると思うから。
「どこにいても、一緒にいようね」
もう少しだけ彼の照れ隠しを見ていたい。
私は彼にだけ聞こえるように呟いた。
そこへ
「二人とも中へお入りください。身体が冷えますよ」
今まさにお風呂から戻ったばかりのサフィが、髪を乾かしながら声をかけてくれる。
「「はーい」」
揃って素直に客間へ戻り、用意された布団に潜り込む。
「じゃあ風呂に行ってくる」
私たちの様子を見届けたゲートがサフィと入れ違いに部屋を出ていく。
「数時間後にはここを発ちますから、少しでも寝ておかないといけません。さあ、目を閉じて」
「サフィ、明日ちゃんと起こしてね。」
「分かりました。見送ってくださる町の皆さんにご挨拶してから帰りたいのでしょう?」
「うん」
事前に町の人たちにはゆっくり休んでいてほしいから見送りはしなくてもいいって伝えたんだけど、町長さんやゲンゲツさん、セイランさんにマシオさんはぜひ見送りさせてほしいと言ってくれた。
せめてその四人にはちゃんと挨拶をしてから行きたいもんね。
私のそんな気持ちを分かっているサフィは快く約束してくれる。
そして安心した私の意識はいつの間にかホワイトアウト。
心地よい浮遊感に包まれていった。
「ユウは眠ったのか?」
ほとんど烏の行水で風呂から上がったアガートは、まだ濡れたままの髪をタオルでガシガシと拭きながら戻ってきた。
「ええ。ぐっすりです。実際疲れていたんでしょうね、ずっと動き通しでしたから」
寝顔を見つめてそっと前髪を撫で、掛け布団を少しだけ上げる。
「健気な頑張り屋さん。出来ることならこのまま神子のお披露目なんて止めて、ユウを隠しておきたいよ」
「いっそのこと、神子はお加減が優れずお目見えならず、とお触れを出して形だけのお披露目にしてしまいたいものですね。降臨の儀式でたくさんの人間が神子の存在を知っているとはいえ、近くでお姿を見られたのは私たちだけですから…それこそ男装していただき、神官として過ごしていただけば自由も確保できます」
その言葉に微塵も嘘はない。
神殿の力をもってすれば可能なことだ。
でも。
「本人が望まないだろうな、そんなことは。無意識に力を使って俺たちの体力を回復させてしまうくらいだ、誰かの役に立てるならと結局神子の力を使う手立てを考えだすだろう。そうやって自分に出来ることを探し出してしまう。俺たちに出来るのは、そんなユウに無理をさせない事、護り抜くこと、そして…共に幸せになること…だろうな」
アガートは眠る彼女の小さな手を取り優しく握る。
そんな彼の言葉に二人も頷き合い、小さく眉根を寄せた。
「あなたも感じていたんですね」
「マールスパイの時は身体が少し軽くなったような気がした。あの時は気力も体力も十分だったから、気のせいかと思っていたんだが…今回の遠征中は明らかに疲労感が違う」
「あれだけ長時間馬に乗って来たっていうのに昼食を食べたらびっくりするほど倦怠感が消えたんだもの。気のせいだとは思えないよね」
「やはり…そうでしたか…」
「でも本人は違う。この二日間、気力で動いている感じだったし、明らかに疲れてる。神子の想いの力は自分には効いてないんだよね」
ディアの表情は険しい。
「そもそも自分のために祈っていないからでしょうね。料理を作る時も、それを食べる人間のことを思い浮かべている。だから力の効果が本人に及ばないのでしょう」
「そういう事か。ユウらしいな」
「ユウは神子の力を自分に使うなんてちっとも思いつかないんだろうな」
使おうと思えばいくらだって自分の思うように力を使えるだろうに、目の前ですやすやと寝息を立てる愛しい人は、そんな自己中心的な考えにはたどり着きそうにない。
今代の神子はいつだって自分以外の誰かのために力を使っているのだ。
これまで降臨した歴代の神子たちがその力をどう使っていたのか分からないが、力を使うことで神子に負担はかからないのだろうか。
それが目下一番の心配事だ。
「僕たちが護らなきゃ。いつも、どんな時でも」
「そうだな。これからが本番だ」
「私たちの愛しい人がいつ、どこにいても健やかに日々を過ごせますように…月光神様、神子にこそ最大のご加護をお授けください」
サフィールは想いの全てを捧げるかのように祈る。
そして穢れなき真っ直ぐな祈りは、かの女神の元へ確かに届く。
今はまだ土の中で眠る一粒の種に宿る命を芽吹かせるように、女神は人知れず祝福の吐息を吹きかけた。
静かな夜は更けてゆく。
幼子のように眠る神子を癒すように、慈しむように。
ボレアンを発つ日の早朝、まだ夜明けは遠い、そんな時間。
「旅のご無事を祈っております」
見送りに来てくれた町長さんたち四人は揃って会釈する。
「この度は大変お世話になりました。感謝しています。こちらこそ、皆さんがこれからも健やかにお過ごしになられますように、祈っております」
私はそう告げて一人一人と握手を交わした。
そうして別れの挨拶を済ませ、馬車に乗り込む。
ユエイリアンまで十時間とちょっと。
「あっという間だったね」
「近いうちにまた来られるといいのですが」
「うん。でも…これからしばらくの間は忙しくなるよね?」
「そうですね。お披露目が終わって落ち着くのは、早くても二月(ふたつき)か三月(みつき)後といったところでしょうか」
「いよいよお披露目かぁ…」
想像しただけでも緊張しちゃいそう。
肩を竦めると、サフィが両手でその肩を包み込んでくれる。
「大丈夫ですよ。難しい作法があるわけではありませんし、私たちが傍にいます。どうしても緊張してしまう時は、振り返って私たちを見てください。いつものように一緒にいますから」
間近で聞こえるサフィの声はいつだって優しい。
「そうだ、ユウに一つお願いがあるんです」
思い出したかのようにサフィが言う。
「何?」
「お披露目の衣装を着たユウを、姿絵にして残しておきたいんです」
「姿絵?」
「絵師を呼んで描いてもらうんです」
それって、ヨーロッパのお城に飾られていたような、王侯貴族の似顔絵…みたいなものかな。
ちょっと待った。
「てことはどこかに飾る?」
自分の似顔絵が神殿にどーんと飾られるところを想像してドキリと心臓が跳ねた。
いやいや、それはダメよダメ。
思わず顔を左右に振ると
「ユウが嫌がることはしませんよ、安心してください」
サフィが笑顔で否定してくれてホッとする。
「じゃあどうするの?」
「絵葉書くらいの大きさにして肌身離さず、大切に持ち歩きます」
「いつも一緒にいるのに?」
「はい。貴女にとって節目となる特別な日の姿ですから、私のお護りです」
両親が家族写真をお財布や免許証ケースに入れて持ち歩くのと同じ感覚なのかな。
それなら何となく気持ちは分かる。
「分かった。サフィのお願いなら、喜んで」
「では神殿に戻ったらすぐに手配します」
いつになくウキウキした様子でサフィは言う。
そんな彼を見た私も嬉しくなる。
でも馬車に揺られている内に瞼が重くなってきて、私はサフィに寄り掛かったまま夢の中。
真っ白な世界が広がる何もない静かな場所。
私は怖がりもせず、不安に思う事もなくただ前に進む。
しばらく歩き続けた先に見つけたのは七本の薔薇の花束。
深紅の花びらが優雅に咲き誇るその花束を私は大切に胸に抱えた。
棘もなくするりと伸びた茎の先、それぞれに甘い香りを漂わせて私を惹きつける。
胸が軋むくらい切なくて、愛しくてたまらない。
夢の中で私は一人、そっと薔薇の花束を抱きしめていた。
続く
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