第33話 ボレアン遠征(その7)
夜も更けて町が寝静まった時間。
私はお屋敷の客間から続く縁側へ出て空を見上げた。
もちろん満月にはまだ早い。
でも月は優しく私たちを見下ろしている。
雲もまだらで月の光が主役になった夜空はチカチカと眩しい。
この世界は何だか月が近いような気がする。
手を伸ばしたら届きそうなほどに。
入浴後はお祈り用の衣装を着た。
寒くはないけれど緊張感が心地よい外気温に、私は縁側で正座しながら背筋を伸ばす。
傍らにはサフィとゲートがいる。
二人に見守られて目を閉じれば、すぐに意識は浮遊して真っ白な世界へ行く。
月光神様、ボレアンの人々はあなたに感謝しているそうです。
そんな彼らに恵みを贈りたい…。
私の祈りは届きますか…?
「大丈夫よ、神子。彼らのために祈ってくれてありがとう。町の人々の想いは届いたわ。あなたが伝えたい想いも受け取った。この町はあなたにとって羽根を休められる場所。だから特別なものを贈りましょうね。満月の夜に町の北側にあるポルタ山とクーストース山の境界近くへ行くよう、ケイショウに伝えてください。そこに神の泉が見つかるはずよ」
「神の泉、ですね」
「清き魂を持つ者だけに恵みを与える聖なる泉です。それを大切に扱い、守り続けるようによく言い聞かせて」
「分かりました。ありがとうございます」
「これはあなたの祈りのおかげ」
月光神様は最後にそう告げて、私の額に口づけた。
そして彼女の姿はぼんやりとおぼろげになっていき、いつしか私の耳には小さな虫の声が聞こえてきた。
意識が吸い寄せられるようにして現実味を帯びる。
額の真ん中にむず痒さを感じて瞼を開く。
私はまたいつものようにサフィとゲートに抱き留められていた。
ふたりはそっと私の身体を横たえて、ゲートはハーブティーを用意してくれて、サフィが膝の上に私の頭を乗せてくれた。
「ユウ、大丈夫か?」
「ゆっくり意識を戻してください」
「…うん…」
まだぼんやりした視界の中で二人の心配そうな声だけがはっきり聞こえた。
額に触れるサフィの手が温かくて気持ちいい。
私の手を握ってくれるゲートの手の熱さも心地いい。
何度か瞬きを繰り返してようやく二人の顔に視点が合い始める。
「ありがとう、二人とも」
片方の手に力を入れて身体を起こす。
それをサフィが支えてくれて、ゲートが私の手にティーカップを持たせてくれる。
ハーブティーを口にするとその温かさが喉から体中に広がる感じがした。
「月光神様がボレアンに恵みを与えてくれたわ。明日町長さんに伝えなきゃ」
「分かりました。では明日、町長にお時間をもらいましょう。私も着物についてお話をしておかなければなりませんし」
「そうだね。きっとディアも話があるだろうから、明日の朝、その辺りのすり合わせをした方がいいね」
「ええ。そうしましょう。さあ、お茶を飲んだら客間へ戻って休んでください」
「うん」
「そのままでいい、俺が運ぶ」
ゲートはそう言って軽々と私を抱き上げ、客間へ運んでくれた。
そこに用意された寝具は三組。
ディアはグラナートさんと一緒に別室で休んでいる。
神印持ちなんだから私たちと同室でいいんだけど、彼は自分の仕事をもう少し進めたいという理由と「いきなりユウと同じ部屋で寝るなんてドキドキしちゃって寝付けないよ」と照れながらそう言って、別室で休むことを選んだ。
だから私の左側にサフィ、右側にゲートという並び。
二人に挟まれている安心感で私の瞼は間もなく重くなってきた。
「おやすみなさい」
声に出したと思うけれど、ちゃんと伝わったかは分からない。
そのくらい意識は曖昧になって私は眠りについた。
翌朝はいつもより早く目覚めて、顔を洗ったり歯を磨いたり一通りの支度を終えた後、いよいよ月下美人の着物の着付けが始まった。
サフィは昨日より緊張した面持ちで着物に触れる。
着付けの間、私たちは必要最低限のやりとりだけで、ほとんど会話をしなかった。
出来なかったという方が正しい。
この着物はそんなに軽々しく着られるものではなく、また、華やかさで心が浮足立つようなものとも違う。
帯が締められるのと同時に私の中の芯が強くなり、神子としての責任や覚悟を改めて問われるような感覚になる。
「苦しくありませんか?」
「うん、大丈夫」
苦しくはない。
でも自由でもない。
これは紛れもなく「神子」である証。
たくさんの人の想いを受け取るということの重圧。
…それがしんどいものになるか、原動力になるかは、私次第。
「行こう」
私は前を見る。
そこには心から信頼できる彼らの姿。
大丈夫、みんながいる。
だから私はしっかり顔を上げて背筋を伸ばすんだ。
そしてお屋敷から渡り廊下を進んで祈りの間へ向かう。
祈りの間は小さな寺院のような造りで、中央には月下美人を模った(かたどった)像が置かれ、天窓から差し込む朝日で輝いて見えた。
その前に次々と町の人々が集まってくる。
彼等は私の姿を見つけて息をのんでいた。
小さく会釈してその場に正座をしていく。
最前列に並ぶのは女性たちだ。
彼女たちは腰まで長く伸ばした艶やかな髪を毛先近くでひとまとめにし、平安時代の女性のように肩から背中にかけてを覆うように広げた形。
着ているのは「小紋」と呼ばれる、蝶や小花などの模様が全体的にパターン化されて施された着物。
配色によって可愛らしくもクールにもなる着物はそれぞれの印象を自在に演出している。
私を見つめる彼女たちは「祈りの間」の静けさを壊すまいと懸命に声を抑えているけれど、言葉に出来ない感情を溢れさせて互いに顔を見つめ合ったり手を取り合ったりと動きが忙しなくなる。
昨日私の姿を目にしている町の人たちは会釈とともに手を合わせてからその場に座る。
私は彼ら一人一人に微笑みかけ、小さな会釈を繰り返した。
人々の波が途切れたのを見計らって町長さんが
「さあ、本日の祈りを始めよう」
と声をかけると、衣擦れの音も止んで静寂が空間を包み込んだ。
町の人たちは一斉に両手を胸の前で合わせて軽く目を閉じ頭を下げる。
私は何となく祭壇の上にある月下美人の像を両手で包み込んで、彼等と同じように瞼を閉じて祈りを捧げた。
天窓から降り注ぐ光が一筋にまとまって私の手元を明るく照らす。
清き魂を持つ人々の心に希望の種が芽吹きますように。
そう祈りを込めた時、ぽつぽつと微かな音を立てて、何かが手の中から零れ落ちた。
「…種…?」
私の呟きにどよめきが起こる。
祭壇に落ちた小さな粒を手のひらに拾い集めると、それは確かに植物の種らしきもの。
これはもしかして、月下美人の…?
「月光神様、ありがとうございます」
昨夜に続く女神さまからの恵みに感謝を告げた途端、一斉に人々から歓声が沸き起こった。
盛大な拍手が続く。
私は両手に集めた種をこぼさないよう注意しながら町長さんの所へ歩み寄り
「月光神様からボレアンの皆さんへの贈り物です。大切に育ててください」
彼の手のひらへ種を渡す。
「なんと神々しい…畏まりました。町民一同、誠心誠意、大切に守り育ててまいります」
「よろしくお願いいたします」
私の言葉に町長さんが恭しく頭を下げるのを見た町の人々も彼に倣って首を垂れた。
祈りの間を後にしてお屋敷へ戻ると町長さん一家が総出で朝食の準備を整えてくれた。
私は月下美人の着物からサフィが用意してくれた衣装へ着替える。
お着物はしわを伸ばすように丁寧に広げてから客間の衣桁にかける。
裾を広げると見事な刺繍の月下美人が咲き誇った。
「この刺繍みたいに満開になるといいなぁ」
「そうですね。まさか月光神様が種をお授けになるとは予想していませんでしたが、この町の人々を信頼してのことでしょう。きっと綺麗に花を咲かせますよ」
「うん。あ、でも月下美人は神殿だけが育てられるんだよね?勝手に種を渡しちゃったけど、大丈夫かな」
ハッとして問うと
「何より月光神様のご意思ですから問題ありません。ただし後ほど諸々の話し合いをする際、町長には門外不出にするよう念を押しておきましょう」
サフィはそう言ってくれた。
そうだよね、月光神様は町長さんを「ケイシュウ」と呼んでいたし、信頼しているから種を授けてくれた。
彼なら悪いようにはしない。
とはいえ神殿に帰ったら私から直接シンケールス様に報告しよう。
そう心に決めて、私はサフィと共に食卓へついた。
これぞ和食の「ザ・朝食」が個別の御膳に用意されている。
白い炊き立てのご飯にお味噌汁、それから数種類のお漬物が載った小皿にわかめとキュウリの酢の物とメインは白身の焼き魚。
「美味しそう!」
「神子様にそう言っていただけて光栄です。どうぞ、温かいうちにお召し上がりください」
「いただきます」
両手を合わせて全てに感謝のご挨拶。
みんなもそれに続いて朝食が始まった。
そうそう、グラナートさんは昨日言っていた通り、夜も明けないうちから漁師さんと一緒に船に乗っている、はず。
「お魚釣れたかなぁ」
「グラナートのこと?」
「そう。今日も天気は良いし、きっといろんな魚が釣れるんだろうな、と思って」
そう言うと
「この時期に多いのはシラという魚ですね。刺身や塩焼き、揚げ物が美味しいかと。パラという魚も獲れますよ。そちらは煮ものが合いますね」
町長さんが教えてくれる。
「シラとパラ…」
聞き覚えのない名前で想像がつかない。
まあ知っている名前を言われても多分見た目じゃ分からないけど、食べればわかるよね。
食いしん坊だと思われてもいいくらい釣果が楽しみな私は、揚げ物ならいよいよ天ぷらの出番だとか煮魚はすぐに仕込んでお昼に食べたら味が染みるかなとか、たまらずワクワクしてしまう。
そんな私を優しく見守るサフィとディアは
「ところで町長、今日は少し話し合いの時間を設けていただけますか?僕はこの町のこれからのことを相談したいと思っています」
「私は神官として神子と月光神様からの恵みについてお話しをさせていただきたいのですが」
と切り出していた。
そうだ、今日の本題はそっちだよね。
私も脳内スイッチを切り替える。
「承知いたしました。ではこの後早速準備いたします」
町長さんは快諾し、午前中は話し合いに使われることとなった。
続く
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